聖杯の君 Ⅱ

 根本的な原因は自分にあるとはいえ、母は普段はがみがみと怒鳴ってばかりいる。しかしフィネが辿れる限り最初に眼に映した母は、いかにも誇らしげに頬を緩めていた。

「ちょいと来てくれよ、あんた!」

 擦り切れた敷布を人型に縫い、適当に顔を書いただけの簡単な――しかし、拵えるには少なからぬ時間と手間を要しただろう人形。自ら針を取って作成したはずの人形が、見るも無残な姿にされても母が怒らなかったのは、それがそのために・・・・・作られたものだったからに他ならない。

「フィネが斬首の練習用の人形の首を一撃で斬ったんだよ! 今夜はお祝いをしようじゃないか!」

 流石あたしの息子。将来はきっと、立ったままの罪人の首を斬れるようになるに違いないよ。

「今晩は何が食べたい? 何でも言ってごらん。お前が好きな物なら何でも、いくらでも作ってやるからね」

 父母の掛け値なしの称賛は照れくさく、幼子はうっすらと赤らんだ面を伏せずにはいられなかった。小さな身体を包む母の身体は柔らかく温かい。鳶色の頭を撫でる父の掌は硬いが、母同様にやはり温かかった。

「だったら、おれ、肉のパイと牛肉の煮込みがたべたい」

「それだけでいいのかい? 菓子も作ってやるから、遠慮なく言ってみな」

「だったらおかしはいいから、豚のペーストリエットをのっけたパンと皮をぱりぱりに焼いたうずらも!」

 子供らしからぬフィネの望みに、父は街で「何人か人を喰い殺した熊のような」と囁かれている髭面を豪快に崩した。

「お前はきっと酒飲みになるだろうな。お前と一緒に酒を飲む日が楽しみだ」

 微笑み合う親子に燦燦と降り注ぐ陽光は、それ故に庭の一画に巣食う残酷を陰惨に暴きたてる。貴族的な優雅さとは無縁だがよく手入れされた野趣あふれる庭には、異常なまでに蝿が飛び交い、滴る緑の香気には紛れもない死臭が混じっていた。それでもなお、眼裏に焼き付いた情景は、フィネにとっては幸福だったのだ。七つになった翌日。母に手を引かれ、初めて父の仕事場・・・に赴き、自分がいつか必ず継ぐ仕事・・を目の当たりにしてもなお。

 それから更に五年後。十二歳になったフィネは親元を離れ、従兄やその他の少年たちとともに引き取り手のない犯罪人の亡骸を切り裂く修行・・を始めた。

 拷問器具の力加減を誤れば生かすべき受刑者の息の根は容易く止まってしまうし、そも拷問や処刑を行うには人体に関する膨大な知識が求められる。そして、レイスの支えや励ましの甲斐あって、一年後には顔色一つ変えずにそれらを行えるようになった。

 血と臓物と人肉の断片と死体に彩られ、腐敗臭が立ち込める、およそ世間一般の穏やかな平凡とはかけ離れた少年時代。その最も鮮烈な思い出は、王都での生活二年目に起きた、国王暗殺未遂事件であった。

 亡き国王は当時既に、民衆と、失策によって夫や息子や父親を喪った一部の貴族の反発心の的になっていた。そんな王を亡き者にしようとした――そんなことをせずにも十年待ちさえすれば、彼は今でも生きていただろうに――者たちは、しかし王の周りを固めた衛兵によって捕らえられてしまったのである。そして、財政の事情により拷問吏という官職が廃止されていた王国において、実行犯とその一味から情報を引き出す大任を下されるのは、王都の死刑執行人をおいて他にない。

 まだ技量が未熟なフィネに任されたのは、誤って殺してしまっても構わない、一味の下っ端であった。冷え切った死体ならばともかく、温かな血が通った肉体を切り裂くのはあれが初めてだったから、今でも時折思い出す。生皮を剥がれ焼き鏝を押し当てられ、蕩けた高温の鉛の雨を片方の眼球に垂らされ、太腿の肉を切り取られても口を割らなかった男の絶叫を。

 ――お前たちは化物だ。じゃなきゃこんなことを、顔色一つ変えずに、できるわけがねえ。

 凄惨な責苦にも関わらず、一切の情報を吐かなかった男は、たがえようもなくはっきりとフィネの顔を片方だけの目で見据えて処刑台に登っていた。

「お前は命令されて仕方なくやっただけなんだ。だから早く忘れちまえ」

 あの呪詛に刺激される罪悪感を和らげてくれたのもレイスだった。結局、年上の従兄の言葉はいつも的を射ているのだろう。喪った家族についてあれこれと悔やんでも、自分自身を追い詰め、亡き者たちと残された者を悲しませるだけだと気づいたのはいつだっただろうか。そう遠くはない日だったとは思うが。


 首都で起きた騒動に、少年時代の思い出話。たわいもない会話をつまみに続けられた二人きりの宴は、月が天頂から転がり落ちても、酒の肴がほとんど尽きても終わらなかった。  

 空の葡萄酒の壜の林の中心で坐す青年は、慣れた手つきで新たな栓を抜く。

「そういえばお前、会議とやらに出て、何を話し合うんだ?」

「勿論、死刑について」

 細長い首から流れるのは、人体を巡る液体にも通ずる赤。栓を失った壜はどこか首と四肢を喪った亡骸を彷彿とさせるが、青年は奇妙な類似を気にかけはしなかった。そのような繊細な感性など、初めて人を死に至らしめた少年時代に手放してしまっている。 

「最近の議会でな、お貴族サマに残された最後の特権を――首を刎ねられる権利を廃止して、処刑は絞首刑のみに統一しようという案が出てるそうなんだ」

 だからこそ、酒宴の席で語られるにはあまりに血なまぐさい話題に眉を顰めもせずに、自分たちの今後をも左右する議題について熟考できるのだ。

「だから現場・・の声を聴こうってわけか? お前は昔からあれこれ押し付けられて大変だな」

 フィネとレイスはほとんど兄弟同然に躾けられたが、将来はフィネを従える立場に就くレイスには、彼のみが課せられる努めがあった。

「そうでもねえよ。昔の王宮はけばけばしいおばさんしかいなくてつまらなかったけど、今の王宮・・にはお綺麗なおねーさんたちが戻って来てるし。眼福ってやつだ」

「いくらなんでも、昔の王宮にも若い貴族の女ぐらいいただろ?」

「最後の方はみんな警戒して、娘を連れてこなくなってたんだよ」

 その筆頭が王宮への伺候であり、国王が死刑執行に際して何らかの注文を付ければ、死刑執行人は主の意向を窺うべく、豪奢な刺繍が施された足元で平伏しなければならなかったのである。

「だからなのか、下働きの、ろくにメシも食えてなかったような子供ばっかりが、なあ……。吐きそうになったよな。死体の状態じゃなくて、あんなことができる人間がいるってことに」

「……ああ」

 特に、フィネが研鑽を積んでいた王都では、王家への怒りと王制廃止論が渦巻いていて、月ごとに政治犯の鮮血が処刑場を紅く濡らしていた。

 死の穢れが込められた眼差しでいとも貴き王族に禍を齎してはならない。ゆえにとの対面とは名ばかりの謁見の間は、死刑執行人はひたすら跪いて顔を伏せていなければならない決まりがあったのだが、レイスはさぞかし首が凝っただろう。

 温情によって赦されぬ限り、平民の死刑囚に斬首が執行されることを禁ずる。少年時代に暗記させられた王国法のある条文は、死の領域にまで及んでいた王国時代の身分制差別が生み出した皮肉そのものであった。

 ルオーゼをも含む大陸中部北方の三国では、斬首は絞首よりも数段名誉ある「特権階級用の」死であると見做されている。死刑囚が苦痛を舐めることなく一瞬で迎える死は、じわじわと首に食い込む縄がもたらす閉塞感や息苦しさに塗れた絞首とは比べ物にならぬ、安らかで穏やかで誇り高い処刑なのだと。

 けれども斬首が失敗した光景の悲惨さを知悉しているフィネやレイスは、大多数の意見に賛成はできなかった。

 人の首を切断する。ただそれだけの行為は、処刑を見物し「いけ好かない貴族の悪党」の首が転がり落ちる様に喝采を送ればよいだけの民衆たちの想像よりも、遙かに困難なのだ。

 縄の長さや状態、もしくは受刑者の体重や身長により、絞首刑が失敗に至った事例は数知れない。だがそれ以上に、死刑執行人の剣の技量は個人によって様々である。

 熟練の執行人でさえ、心身の状態が万全に保たれていなければ失敗する可能性がある斬首を、相応の心構えや力量を備えぬ未熟な者に担わせては。その結果は考えるまでもないし、フィネ自身も最初の処刑で取り返しのつかぬ失敗を犯してしまった。剣先を見誤った挙句肩を割いた鋼は、三度目にしてようやく絶叫を上げて悶える男の首を斬り落とし、彼はようやく楽になったのだ。

 受刑者は下位の貴族に属しながらも、年端も行かぬ少女を幾人も暴行し、殺害した咎で処刑台送りになった外道であった。そのため被害者の遺族をも含む見物人は概ね、処刑の悲惨な結果に満足していた。むしろ、もっと痛めつけてくれても良かったのに、と囁き合うほど。

 ――俺は、盗みしかやってないのに!

 彼らはきっと、永遠に知らぬままだろう。断末魔の寸前、咎人が吐き出した真実を。犯人の処刑後も、犠牲者が後を絶たなかったその理由も。確固たる証拠などない、ただの推察だが、フィネとレイスだけが把握している。あの怖気を振るう罪の、真実の全貌を。あからさまに死後数日は経過している亡骸の、細すぎる脚の間から垂れた体液は、まだ新鮮な……。

 真実はどうあれ、集まった観客が受刑者に憐れみを覚えれば。民衆が不手際ばかりの愚鈍な首刈り役人に怒りを募らせ、死刑執行人に暴行を加え、挙句の果てには殺害してしまったこともある。そういった事例は遠い昔から事欠かず、フィネの父方の大叔父の一人も怒り狂う民衆の手で血祭りに上げられていた。

 受刑者には壮絶なる苦しみを、死刑執行人には生命の危機を齎しかねない刑罰。フィネはその犠牲となるはずだった少女を妻とした。

 王権と結託し、民衆から搾り取った血肉を蓄え醜く肥え太っていた聖会。その贅肉を切り落とすべく始められた数々の改革は、祭壇ではなく紙上で誓い合う婚姻をも可能にしたのである。

 結婚相手を見つけるのも、また結婚に伴う面倒極まりない行事全てをできれば避けて通りたかったフィネにとって、セレーヌの存在はまさに僥倖であった。一人の少女を救うためだった、と叫べば礼儀に煩い母も盛大な式を経ない、急すぎる結婚に納得してくれたのだから。こんなことを吐露してしまってセレーヌに嫌われたらと考えると、口が裂けても言えやしないが、これも紛れもない理由の一つである。

 互いに署名した婚姻契約書を市庁に提出するだけの、簡単な結婚。あまりにも簡単に、また自分にとって都合よく行き過ぎたために、フィネは指摘されるまでそれがおかしいことに気づかなかった。

「なあ、レイス」

 最後の薄切りの塩漬け豚肉ハムを咀嚼しながらであるが、従兄は片方の眉を吊り上げフィネの問いかけに応えてくれた。

「“血統鑑定書をよく一日で揃えられたな”ってどういう意味なんだ?」

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