聖杯の君 Ⅰ

 覚束ない足取りで客人の間に向かった少女の影が消え去ると、居間に灯された燭台の炎の勢いが衰えたような錯覚に陥った。

 少し前まではフィネの人生に存在していなかった、牢越しの会遇がなければ、互いの運命の糸が交わることもなかっただろう少女。彼女はいつの間にか、自宅だけではなくフィネの心の中にも住み着いていたのかもしれない。彼女が自分の側にいなければ、どことなく物足りないと感じる程度には。

 過多の御馳走に苛まれた胃が、明日の朝になってもまだ本調子に戻らないのなら。その時には薬湯でも飲ませて、本調子に戻った妻をもっと色々な場所に連れて行くのもいいだろう。胃薬を分けてくれと頼んだら、レイスはきっと快諾してくれるはずだ。なんせこの家には、そういった類の薬が常備されている。

「なあ、」

 青年は真っ当な気遣いを形にするため、彼らしくなく小難しい顔をした従兄に声をかけたのだが、

「お前のセレーヌちゃん、まさか妊娠してるんじゃないだろうな?」

 返された言葉は、彼の予想を超えていた。

「は?」

 にやにやと緩めらている頬や、楽しげに細められている目を一瞥すれば、レイスの意図は容易に理解できる。

「さっきのあれ、もしかして、つわ……」

 少年時代を共に過ごした年上の従兄は、事あるごとにこのような愚にも付かない戯言でフィネを揶揄うのだ。

「その先を口に出したら、いくらお前でも張り倒すからな」

「冗談だよ、冗談! だから、それを俺の頭に向かって放り投げようとするのはやめようぜ。な?」

 性質の悪い冗談を制するために、食卓の上で転がっていた瓶に手を伸ばす。すると表面上は慌てふためいた従兄は、これまたいつものごとく詫びを入れてきた。

 レイスはフィネが本当に嫌がる話題には決して触れない。だから、フィネも本気で怒りはしない。これはいわば、顔を合わせた時の、お決まりのやり取りなのだ。互いがつつがなく暮らせていたかどうか確かめるための、たわいのない儀式。

「まだ十三歳の子供だ。俺は・・ガキとヤる趣味はない」

 半分ほどを満たした杯を一息に干す。酒精によって僅かに上気した口元から顎を伝う雫を乱雑に甲で拭うと、透明な器には豊潤な紅が再び注がれた。

「だったら、何歳だったらいいんだ?」

 空になった壜をこれまた乱雑に置いた従兄の不敵な笑みはなおも鮮明なまま。だからフィネは酔ってはいないし、これしきの量で酔えないことは、自分自身が良く分かっている。だのに、家にいる際の――母の言いつけ通りに咽喉まで留めた釦を鎖骨の辺りまで外し、髪紐を解いたのは何故なのだろう。縛めから解き放たれ、頬を掠める男にしては長い毛髪は、古び黒ずんだ血潮のごとき鳶色をしている。

 この髪について今は寝台で眠りの安らぎを貪っているはずの少女に言及された際は、憫笑してしまいそうになった。修道院で生まれ育ったという、漂白した羊毛か綿毛さながらに無垢な少女は、その思考までもが純白なのだ。だから、王都の塵溜めで娼婦の胎から這い出た赤毛の男児が、自らの夫の祖父であるなどと考えもしない。

 場末の街娼と、その一夜どころか数刻限りの夫である異郷の男の間に生まれた私生児が選べる職業など、最下層の賤業のみ。王都の死刑執行人に頼み込んで弟子入りした曽祖父は、当時のベルナリヨン家の娘との婚姻の他にも様々な手段を用いて、国内第二の都市の処刑人の座を勝ち取った。その幾つかをフィネは知っているが、セレーヌには知らぬままでいてほしかった。

「十五歳になればいいんじゃないか?」

 相応しい時が訪れるまでは、セレーヌには出来る限り年頃の少女らしくいてほしい。細やかな願望は、物心ついた折には既に処刑用の剣の柄を握らされていた自身の体験から根差すものなのか。はたまた全く別の感情に由来するものなのかは、判然としない。

「俺は十五歳以上でも極端に子供っぽかったり、身体が小さい女にあれこれするって考えると罪悪感で反吐が出そうになるけど、お前は違うのか?」

 あまりにも真剣な目でフィネを注視する従兄に向かって、そんなことは考えたこともなかったなど、言えばどうなるかは分かり切っている。早ければ一週間後、母宛てに告発文が届き、男としてのフィネの人生は終わるのだ。

「だいたい、あの子もうすぐ十四歳なんだろ? でもあの感じだと、十五になってもそんなに変わらねえだろ? なのに、お前は十五歳になったら何しても大丈夫だと思ってたのか?」

「……」

「一つ聞いとくけど、お前あの子が十八越えてても助けたか? むっちむちのぼいんぼいんの十八歳でも求婚したか? ――しなかっただろ?」

 ゆえにフィネは何としてでもレイスが抱く疑惑を抹消しなければならないのだが、話はどんどん悪い方向に流れてしまう。 

「……レイス。その話は、もう、」

「そうだろう、そうだろう。想像したくもないだろう? なんせお前、胸がでかい女嫌いだもんな」

「――は?」

 もはや成す術はレイスの頭を全力で殴ってこの記憶を抹消するのみ、と覚悟を決めた直後、流れが急激にあらぬ方向に逸れ始めた。

「この際だから教えとくけど、お前は昔から街中に巨乳とか、あと巨乳じゃなくても谷間を出してる女がいたら、露骨に――っても、俺か叔母さんぐらいにしか分からねえだろうけど、厭そうな顔してたぜ。自分じゃ気づいてなかっただろ?」

 確かにフィネは大きな胸が好きではないし、街中で身内以外の胸が大きい女とすれ違うと、馬車で轢かれた犬の死体を目撃してしまったような気分になる。今日、赤毛の女を街で見かけた際には、真夏に数日放置された死体の、言語に尽くしがたい有様が脳裏に過った。しかし、そこに性的な意味は全くないはずである。そもそも、女という生き物は、胸のみならずどこもかしこも小さい方が好ましいだろう。その方が可愛らしいし、守りたくなる。

「その点、お前のセレーヌちゃんは真っ平らだもんな! 賭けてもいいけど、あの様子じゃ十八になっても真っ平らだろう!」

「……そ、そうだな」

「良かったな、フィネ! 理想の妻を牢屋で拾えたお前は幸せ者だぜ!」

 容赦なくフィネの背を叩き、縁から雫が零れるまで酒を注いだ杯を勧める従兄の顔は朗らかで、完全にとはいかないが安心できた。これだけ酒を飲んでいれば、先ほどの件も酒気がどうにか誤魔化してくれるだろう。

「お前は分かってなかっただろうから言っとくけど、叔母さんは俺に相談の手紙寄こすぐらいお前の結婚相手について悩んでたんだぜ? もちろん俺も」

「……そうなのか?」

「そうだぞ。“フィネは小さい女が好きです”って教えてやったのに、一向に朗報が届かないもんだから、どうしたもんかと心配してたんだぜこれでも」

 思いがけずフィネに掛けられた濡れ衣の真の原因が明らかになったのだが、従兄のよしみで受け流しておこう。

「だけどこれでもう安心だな! あー、めでたいな! めでたいと酒を飲みたくなるな!」

 大口を開けて豪快に笑うレイスはフィネの母方の従兄だが、父方から見ても縁戚である。兄弟ではないがそれに極めて近しい血を有し、ほとんど同じ環境で育ったのに、フィネには決してできない表情は母を思い起こさせた。やはりフィネは、母よりも亡き父に似ているのだろう。

「分かった! 飲む。飲むからそんなに硝子を顔に近づけるな! 何かの拍子に割れて、怪我でもしたらお前が治療費払ってくれるんだろうな!?」

 渋々ながら赤い湖面に唇を浸して初めて、この酒器はレイスが使っていたものだったと思い至ったが、今更である。この家に居候していた時分は、同じ器で茶の回し飲みを、数え切れないぐらいしていたのだから。

「どうだ? 美味いか?」

「ああ……」

「だったらもう壜から直接飲んじまえよ!」

 絡み酒の煩わしさに、従兄の胸を強く押して抗議する。

「ちょっ、いきなり突き飛ばすなよな。おかげで、残りが零れちまったじゃねえか」

 首筋から胸にかけてに張り付く冷たさに、眉を寄せてぼやいた従兄の視線の先を辿れば、薄赤く染まった襯衣が眼に入った。

「あー、悪いな。……もし良かったら、後で俺の服やるぜ。お前の方が背が高いし体もでけえけど、着れねえことはねえだろ? なんなら今から着替えるか?」

 悪ふざけの犠牲となった衣服を特別に気に入っていたわけでもないから、レイスの提案に従うのに躊躇いはない。

「……それはありがたいが、どうして俺はお前に服を脱がされてるんだ?」

 だが、妙に勿体ぶった仕草で従兄に上衣の釦を外されている状況には、疑問を呈さずにはいられなかった。

「何となくノリで。あとは、お前に迷惑かけたのは俺だから、最後まで世話してやんねえと悪いかな、と」

「そんな反省はいらん。だいたい、」

 ――そういうお前の服も、襟元が少し汚れてるぞ。

 耳元で囁いた途端、一瞬とはいえ動きを止めた従兄の隙を付き、床に押し倒す。このままやられっぱなしでいるのは、フィネが一方的に敗北したようで悔しかったのだ。

「……やりやがったな」

「まあな」

 レイスはフィネよりも二歳年上だが、些細な年齢差など成人してしまえばないも同然である。片方の手首を押さえつけたまま、細工の繊細さが質と値段を物語る釦に手をかけると、不意に諦観の調子を帯びた囁きに頬を撫でられた。

「俺は首都の死刑執行人でお前は旧都の死刑執行人なのに、お前の方が背が高くてガタイも良くて、あと若干とはいえ顔もいいなんてやっぱり納得できねえな。お前の親父さんは、人を喰い殺した熊みたいなツラしてたのになあ」

「皆言ってたことだし、否定するつもりもないが、人の父親を人食い熊呼ばわりするのはやめろよ」

「……分かったよ。でもそれにしても、アッチもお前の方がデカいし、ついでに胸はまな板だけど人形みたいに可愛い嫁も捕まえるなんてな。世の中ほんと不平等だなあ」

 うっすらと割れた腹筋を直に撫でた指が熱く燃えているのは、深酒のためだろう。冷静になって振り返れば、自分もレイスも呑みすぎているのかもしれない。

「……なあ、フィネ。どう考えてもセレーヌちゃんにはお前のは入らなさそうだけど、その時はどうするつもりなんだ? 無理やりねじ込むのか?」

「ふざけるな。童貞でもあるまいし、しっかり解すに決まってるだろ」

 酔いを醒ますために赤らんだ面に拳をお見舞いしても、従兄はへらりと頬を緩めたまま。 

「……そうか。それなら、良かった。やっぱり、女は大切にしなきゃいけねえからな……」

 真摯な光を宿した瞳には、酒気の澱みなど欠片も射していなかった。

「この国の今の法律じゃあ、女は自分からは離婚できないだろ? だったらその分、離婚したいって考える暇なんてないぐらい、妻を幸せにしてやることが夫の務めだと、俺は思ってるんだ」

「……そうだな」

 フィネとセレーヌの行く末を心の底から祝福しているのだと物語る笑顔を直視できなかったのは、己の心に巣食う疚しさのためだった。酒に呑まれてすっかり忘れていたが、そろそろ頃合いを見計らってこの旅の本当の目的を果たさなくてはならない。

「なあ、レイス」

 満天の星を仰ぐかのごとく四肢を投げ出していた従兄を抱き起し、椅子に座らせる。そして彼の杯を豊潤な香気で満たして差し出すと、従兄は満足げに頷いたのだった。

「しかしお前、表情が前よりも明るくなったな。新妻の効果か?」

「“明るくなった”? 俺、そんなに暗い顔してたのか?」

「……そうだな。もっと詳しく言えば、明るくなったというより、元に戻った?」

「どういうことだ?」

 動揺は葡萄酒では押し流せず、舌は不愉快な渋みにひりつくばかり。

「俺の親父が倒れた時もそうだったけど、この職業に就いてると、心労にやられて突然ばったりいっちまうことが多いだろ? だからお前の親父さんの病気ははっきりいって防ぎようがなかった――」

『フィネ。親父さんが亡くなったのはお前のせいじゃない。人はいつかあの世に逝っちまうもんだ。だから自分をそんなに追いつめるなよ』 

 何気なく紡がれる一言一言が、父の葬儀に駆け付けてくれた際のレイスを彷彿とさせる。

 病に苦しむ父のために、もっとできることがあったのではないか。それ以前に、どうしてすぐ側にいた自分が、重病の兆候に気づけなかったのだろう。

 刑罰を担う家に生まれなかったら、などと考えたことはない。なぜならそれは死刑執行人の職務を全うして死んだ父やそのまた父、そしてフィネよりも重いものを背負う従兄への裏切りであるからだ。

 しかし、もしもフィネが、そして父が、ごく普通の平民であったのなら――

「――なんて言っても、親父さんが亡くなってすぐは、到底受け入れられなかっただろ? お前、親父さんが亡くなってから、結構塞ぎこんでたから。でも、今はすっきりしてるぜ」 

 蟠り、鬱屈し、常に燻っていた感情。その炎の勢いは小さな少女を得た日から徐々になりを潜め、今ではすっかり灰になっていた。今でも火傷の痕は残っているが、それもいつか完全に癒えてしまうのだろう。

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