首都 Ⅵ

 大聖堂や旧王宮のみならず数多の建築物や民家に囲まれた街において、沈みゆく夕陽を眺めるのは容易ではない。けれども、燃え盛る火球は蒼穹を朱に彩り、夕映えは少女の眼前に広がる石畳をも紅に染めた。最後の一人が離宮で斬首の告知を待つばかりとなった旧王家。その最後の主である男の断末魔の瞬間を思わせるほどに。

 眼裏で広がる幻の情景の生々しさに目を伏せた少女が足を止めると、青年もまたしばし立ち止まる。

「ここ、レイスが元国王夫妻の首を斬った場所なんだ」

 廃された王の処刑の知らせはもちろん耳にしていたが、玉座から蹴落とされただの男となった彼の首と胴体が永遠の仲違いをさせられた場が、まさかここだったとは。整然と敷き詰められた石材に滴らんばかりの赤はもはや直視に耐えず、少女はしばし呼吸も忘れ、青年の手を握り締める。

「処刑当日はものすごい人だかりでね。俺もレイスの手助けをするために処刑に立ち会ったんだけれど、あんな数の人間が集まるのを目の当たりにしたのは初めてだった」

 間もなく訪れる刻の色彩を閉じ込めた双眸に落ちる影は、夕闇よりも――あるいは夜よりも暗かった。紅から紫へと移り変わる空を天鵞絨の裳裾とすれば、瞬く一番星は艶やかな布地に縫い止められた真珠の飾り釦のよう。

 ルオーゼに伝わる古い神話においては、夜を司るのは女神であった。ならば、程なく茜から金銀の刺繍も眩い濃紺へと衣を変える彼女は、地上で蠢く卑小なる人の子に何を思うのだろう。かつて自分を崇拝しながら、異なる神の下へと奔った忘恩を謗るのだろうか。それとも、慈愛の笑みでもって人の子の迷いを受け止めてくれるのだろうか。

 かつては大粒の貴石が燦然と煌めく冠を戴いていた男の最後の吐息を受け止めた場に佇んでいたのは、一分にも満たない。だが、その瞬間には永遠があるように感じられた。これから何十年経っても。あるいは死の間際にも、セレーヌは今日のこの時を思い起こすだろうという確信が。

 異国の美味に舌鼓を打った昼でも、心弾む買い物に勤しんだ夕でもない刻において、確かなのはただ右手から染み入るぬくもりのみ。これほど長くフィネと二人きりでいるのも、彼と触れ合っているのも、思い返せば初めてのことだった。自分たちは教会で式を挙げていないとはいえ、立派な夫婦であるのに。

「……夕食の時、酒が入ったらレイスが俺たちの間のことを色々と詮索しだすかもしれないけど、そういうのは全部受け流してくれていいからな」

 握り合う手から体温だけでなく思考までもが伝わったのか。今晩の献立に思いを馳せていた少女は、仔猫のように首を傾げる。

「私たちのことをお前の従兄に話したら、何かまずいことがあるのか?」

「まずいというか……下手をしたら親戚中に、あれこれ脚色された話が広まりかねない。例えば君と俺が手を繋いだと訊いたら、あいつは接吻したぐらいには盛る」

 これ以上の汚名を着せられるのはごめんだ、とうっそりと呟いた青年の声音は真剣そのもので。接吻とはなにか。汚名とはどういうことか、ととりとめもない疑問をぶつけるのは憚られた。しかし、抱えた謎は古い油を吸えるだけ吸い取った揚げ菓子のごとく胸をむかつかせる。

「どうしてお前の従兄は……」

 消化しきれぬ感情を持て余し、砂糖菓子の人形を思わせる甘やかで繊細な面を苦み走らせた少女に、青年はあらぬ勘違いをしたらしい。レイスに夫婦生活について話したら、なぜ一族中に広まることになるのか、とセレーヌが首を傾げているのだろうと。

「ああ。君にはまだちゃんと説明してなかったな」

 セレーヌの小さな拳など包みこんでしまえそうな掌は、くっつくのも離れるのも唐突であった。苦笑しながら絹糸の髪を掻き分ける手にはっと当たりを見渡すと、ジュジェ家の目印である金色の花房が視界を掠める。つまりフィネはただ約束を守っただけなのだが、一抹の寂しさが小さな胸に爪痕を残したのは何故なのだろう。

「観光に行く前、レイスが“四日後には官庁に行かなきゃならない”と言っていただろう?」

「……そういえば、そうだな」

 己が妻の平板な胸で渦巻く感情に思いを馳せもしない青年の横顔に募るのは、怒りではない。だが、憤怒と同じく神に犯すべからざる七つの罪として定められた感情の一つでもあった。

「……死刑執行人にも序列というものがあってね。位が上だとされるのは大都市――ルトや、あとはローやソンヌールにディアンみたいな、人も犯罪も多い街の死刑執行人で、給金も他とは段違いなんだ。並みの官吏よりは余程、下手をしたらそこらの地方貴族よりも豊かな生活が送れるぐらいには恵まれている」 

「へえ。じゃあ、フィネ。お前は結構高給取りだったのか?」

 今この瞬間にフィネの側にいるのはセレーヌなのに、フィネはレイスの話ばかりしている。ただそれだけの理由で夫の従兄に悪感情を抱きはしないが、返事はどことなく投げやりになってしまった。もしも足元に小石が転がっていたら、蹴飛ばしてやるのに。

「そういうことになるけれど、それは今は横に置いておこう。で、君に一つ尋ねたいことがある。――君は、ルオーゼ一の都市は、と尋ねられたら、どこを思い浮かべるかい?」

「……パルヴィニー、だな」

 どうせ薄暗いのだから分かりはしないと頬を膨らませた少女の、つんと尖らせられた唇は、ややして驚愕の形に開かれる。ジュジェ家の面構えが立派だったのは、つまりそういう理由なのだ。

「レイスは――パルヴィニーの死刑執行人は俺たちの間で最も裕福で、だけどそれに伴う役目やしがらみも沢山ある。その分人の出入りが多くて、賑やかでいい、なんてあいつは言ってるけれど、大変なものは大変だ」

 重い吐息を漏らした青年は、眩い幸福そのもののように咲き誇る金雀枝の一枝を払いのけ、母の実家の敷地に足を踏み入れた。  

「慣習として地方から研修に来る見習いの世話はもちろん、全国の死刑執行人の代表として政府と交渉したり。色々やることがあって忙しいんだ。ルオーゼ全土の死刑執行人の面倒を見ていると言っても過言ではないぐらいに」

 はらりと落ちた花は、陽光色の雨となって白金の髪に降り注ぐ。

「だからこの家には物が――受刑者の遺品とか拷問道具が散乱していて、中庭の小屋には引き取り手の無い、解剖用の死体が安置されているかもしれないから死臭もするかもしれない。だけど、我慢してくれるかい?」

「わたしはそんな些細なことはちっとも気にしないぞ」

 少女は頭を振って髪に絡んだ黄金の一片を降り落としたが、青年たちが背負うものは身じろぎしたところで払いのけられない。宿業は彼らの手足どころか魂にまで鎖のごとく絡んでいるのだ。

「そうかい? それは良かった」

「だいたい、家のお前の部屋だって結構散らかってるじゃないか。だから今更だ」

 肯定の軽口を叩いた際の青年の表情は、忍び寄る闇に覆われているためか酷く朧で、滲む感情の種類は見分けられなかった。


 使用人に用意させたという夕食は豪勢そのもので、全てを平らげた後、セレーヌは食べ物を詰め込みすぎた腹を持て余さずにはいられなかった。こみ上げる吐き気と格闘する少女の脳内では、様々な悔恨の念が駆け巡る。

 屋台の菓子の誘惑に屈した不覚。フィネの忠告を無視し、白身魚と馬鈴薯の揚げ物を六個も平らげた暴挙。更にその上に、兎肉と茸のパイを二切れも食した強欲を悔やみながら耳を傾ける会話は、非常に盛り上がっていた。

「そういえばお前、また南から本を取り寄せたんだろ? 後で見せてくれないか?」

「おお、いいぜ!」

 ちらと垣間見たフィネの顔も、彼にしては珍しく朗らかである。酒を飲んでも、新妻と手を繋いでも変わりなかった彼の冷静さは、友人でもある従兄を前にすると少しだけ緩むらしい。 

「そういえば母さんに“忘れずにレイスにやるんだよ”なんて押し付けられた包みがあるんだよな。ちゃんと渡さなきゃまたどやされる」

 青年はがさごそと荷物を漁り、奥底に仕舞われていた包みを取り出す。

「あ、これ、俺への土産? 流石、叔母さんは気が利くな」

「おいおい。ここまで持ってきてやった俺への礼は無しかよ。それ、結構重かったんだぜ?」

 中身はルト名物の乾酪チーズの詰め合わせであった。ルト近隣の農村で作られる林檎酒で表面を磨いた白黴乾酪は、林檎との相性が抜群。胡桃を混ぜ込んだものは、全粒粉の麺麭に塗って赤葡萄酒の肴にすると最高だと食通たちの間では噂されているらしい。

 セレーヌも好む乳製品はレイスの好物でもあるらしく、

「あー、やっぱり美味いな。――ほら、折角だからお前も食えよ」

 青年は先程夕食を平らげたばかりだというのに、早速贈り物に手を付けていた。

「じゃあ、俺も少し貰おうか」

 フィネも新しい葡萄酒を開け、遠慮なく従兄の誘いに便乗する。

「これ、胡桃もいいけど干し無花果と一緒に食べると最高だよな」

「あー、お前、たまにはいいこと言うな!」

「たまにとは何だ、たまに、とは」

 ルトに戻って市場に赴けば、いつでも手に入る品であることは分かっている。だけど目の前で舌鼓を打たれると、一口だけでもいいから欲しくなってしまうのが人間の性というもの。これ以上腹に物を詰め込んだら破裂しそうなので我慢するが、余裕があったら絶対に談笑の輪の中に混ぜてもらったのに。

「そういえば、知ってるか?」

「何をだよ」

「お前んとこの副市長さんの親戚のナントか伯爵様が、また・・何か――司祭や修道士たちが卒倒しちまいそうな法律を作るんだと」

「知らないな。そんなことは初めて聞いた」

 雑談はセレーヌにとっても馴染みのある領域に踏み込んでいたが、口を開くと中身が出てきそうなので、ひたすら唇を閉ざすしかなかった。

 現在のルオーゼにおいては貴族の爵位もただの名誉称号に過ぎないものとされているが、以前は民草は三つの身分に分けられて統治されていた。王が立つ三角形の頂点をなすのは聖職者たち。その次は貴族。そして上二つの階級を支えなければならないのは、有象無象の平民たちである。

 貴族の特権の廃止を成功させはしたが、未だ階級差別の名残を払拭しきれていない世の中で、虐げられていた民の憎悪が次に向かうのはどの身分か。――答えは分かり切っている。聖職者階級だ。国王からの課税を免除される一方で、農民たちからは十分の一税を取り立て、一部は大貴族並みの豪奢に埋もれていた司祭や修道士たち。セレーヌも、彼ら全てが腐敗し神への信仰の熱意を失っているとは考えていない。事実、文字を知らなかった貧しい人々に無償で教育を与え、病人を看護するための施療院を備えている修道院もある。けれども今のルオーゼの聖界が断罪の刃を――膿み爛れた患部を切り離す小刀を必要としているのもまた真実であった。

 セレーヌはもう生まれ育った修道院には戻らない。だからかつての居場所どころか、聖会の根幹をも揺るがす法案が可決されつつある現状も、すこぶるどうでもいい。だが、心残りがない訳ではなかった。

 新たに生み直された国を揺るがす潮流は、セレーヌの大切な人が眠る地をも押し流してしまうのかもしれない。だとしたら、もしものことが起こる前に、一度くらいは前院長の墓に花を供えに行きたかった。

 修道院の敷地内にある、ひっそりとした墓地。死者が眠るという不気味さと、修道院に在籍している限り機会は幾らでもあるという事情も手伝って、セレーヌは何とはなしに墓参りを避けていた。それに、墓地に向かおうと考えるだけでも、セレーヌはいつも体調を崩してしまう。

 どんな偶然なのかと自分でも驚いている事情もまた、薄情な行為を後押しした一因であった。しかし万が一、前院長に感謝の花を捧げぬまま、セレーヌを実の娘のように可愛がってくれた女性の墓が無くなってしまったら。きっと、後悔するだろう。悔んでも悔やみきれないぐらいに。だからルトに帰ったら必ず、自分が生まれ育った場所に足を運ぶのだ。絶対に、そうしなければならない。

 固い決意は膨満した胃の腑を刺激し、食物を逆流させる。口内に広がる酸味は柳の眉を顰めさせた。

「……う」

「大丈夫か?」

 青年は吐き気を堪えるために口元を手で覆った少女のか細い肩に手を置き、

「食べ過ぎたんだな。今日はもう寝た方がいい」

 早めの就寝を促す。元々長時間の徒歩のために疲弊していた肢体は一刻も早い休息を望んでいたので、セレーヌは今度の忠告には素直に従った。これ以上起きていても苦しいだけだし、寝て起きたらすっかり楽になっているかもしれない。

 来客用に整えられた寝台は夜の空気を吸って冷たく、少女に懐かしい女の肌を思い出させた。愛情の抱擁を望んで近づく小さな娘を邪険に払いのけた女の、常人よりも低めの体温を纏ったか細い指先を。それだけがセレーヌが知る彼女のぬくもりだったから。

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