首都 Ⅴ

 闇色の帳が一度落ちれば、数え切れぬほど歩んだ帰路すらも、時に魔物や追い剥ぎが跋扈する死出の道となりうる。

「悪い。俺一人の時よりも時間がかかることを失念していた」

 故に、青年は夕暮れの次の時間の色彩を宿した双眸を細め、引き締まった唇の間から気だるい吐息を漏らしたのだろう。市民の動きと太陽の傾きから大まかな時間帯を知った彼が足を留めた途端、午後四時を告げる鐘の音が薄暮の面紗を纏った空の下で鳴り響いた。

「どうしたんだ?」

 少女は陽光に透かした若葉の目を瞬かせ、頭上遙かにある顔を仰ぐ。確かにフィネの言う通りに陽は傾きつつあるが、それがどうしたというのだろう。これから真っ直ぐにジュジェ家に戻れば、夕食には十分間に合うだろうに。

「君、もしかして覚えてないのかい?」

 物問いたげに細い首を傾げた少女の様子に、青年は僅かながら目を眇める。しかし数瞬の後、ああと得心が言ったように呟いた彼の濃紺の視線は、小さな手からぶら下がった包みに注がれていた。


 セレーヌたちは一面の荒野の只中に咲く大輪の薔薇のごとき二人連れと遭遇した後、かなりの時をかけて外国人街周辺を散策していた。付近の骨董店通りは、年頃の少女の心を鳥の羽のごとくくすぐる、可愛らしい小物を商っている店舗でひしめいていたのである。

「見てくれ! これ、綺麗だと思わないか?」

 乳色がかった青緑の硝子が嵌めこまれた真鍮の細工は細やかで、若葉の眼差しは人間の手が生み出した温かな輝きに縫い止められてしまった。遠方の地からの舶来品というだけで、多少古ぼけてすらいる髪留めを妙に魅力的に感じてしまうのは何故だろう。

 ルオーゼの主要貿易国の中で唯一教えを共有しない帝国アルラウトは、有力な諸侯の投票で皇帝を選ぶ、選帝制という奇妙な慣習を有する国であった。海峡で隔てられた大陸西部の北方に位置する彼の国は、数多の領邦と自由都市と、そこに住まう起源が異なる民という子を養う母であり、またその子が住まう家でもある。皇帝とはいわば、数多の言語が飛び交う集合住宅の管理人でもあるのだ。

 帝国という名の集合住宅の、一つとして同じものはない部屋で笑いあい、時に罵り合うのは、多くは昼に見かけた美女のような赤い髪に、琥珀や黄玉トパーズのようで温かな褐色の虹彩をした民たちであり、逆を言えばアルラウトの外では赤毛はあまり見られない。けれども若干とはいえルオーゼにも西方の帝国の特徴を有する者がいるのは、遙か昔――遡ること千年は前に、同じ大帝国に支配されていたという過去を共有するため。

 既に斃れて久しい大帝国では、あちらこちらから集めた兵士を各地の要塞都市に配属させていた。慕わしい故郷から離された兵卒はやがて異郷の言葉に馴染み、そのうちの幾人かは血を違える妻を得て子孫を遺した。そのため本来は金や栗色の髪をしているルオーゼ人に、黒や赤に近い髪を持って生まれる者がいても、何らの不思議もないのである。天使の名を持つ美女はもちろん、フィネのルオーゼ人にしては赤みが強い毛髪も、亡国の異民族統治政策の名残として挙げられるかもしれない。

「これは確かに君が好きそうだな」

 長身を屈めて髪飾りを摘まんだ青年は、濾した陽光さながらの白金の頭部に髪飾りを近づけた。

「それに、とても似合うよ」

 引き締まった口元を幽かに緩めた青年の鳶色の毛髪は、春の日差しを透かして赤銅色に輝く。ルトでは亡き父親ともども、罪人の血で染めているなどと根拠のない陰口を叩かれているという髪は夕映えのようでもあった。

 ――千年も前の祖先の足跡なんて辿れるはずないけれど、もしかしたらお前には西方出身の先祖がいるんじゃないか。

 少女が薔薇の蕾の唇を開いた瞬間、頭二つ分以上も上にある顔に刷かれた笑みは霧さながらに曖昧であった。

「……今日の記念に買ってやろうか。帝国は今内乱中で、最近は物流も途絶えがちだから、気に入ったのなら買っていった方がいい」

 フィネの言う通り、海の向こうの国は、非常事態の真っ只中であった。皇帝を選ぶという名誉を与えられた最も有力な諸侯たる選帝侯のうちなんと三つが、独立と信仰の自由を求めて同時に皇帝の喉元に刃を突き付けたのである。つまり、セレーヌが一目惚れした品は今を逃したら二度と出会えないのだが、こうも無駄遣いを重ねていいのだろうか。

 ……などと白金の頭を傾かせる間すらも与えず、店主に代価を支払った青年は、いつになく気前が良かった。

「あっちの方も少し見てみたらどうだい? 面白そうな物が並んでるだろ?」

 買い求めはしなかったものの自鳴琴オルゴールの澄んだ音に耳を傾け、異国情緒溢るる布地を手に取っている間の時の流れは、日常の流れを小川とすれば瀑布そのもの。進められるままに。もしくは義母への土産にするのだと買い求めた品々ではちきれんばかりの手提げに詰められているのは、異国の品ばかりではなかった。

「この鐘が鳴っている建物に――大聖堂に行っていると、レイスの家に戻るまでに日が暮れてしまう」

 青年は申し訳なさそうに澄んだ金属音の源を仰ぎ、貴重な時の浪費を悔やんでか眉を顰める。

「大聖堂? わたしたち、そんなとこに向かってたのか?」

 少女もまた、どんなに遠ざけたくとも耳に忍び寄る鐘の音に、細い眉の間に皺を刻まずにはいられなかった。

 パルヴィニーの奉納教会。通称「万聖人のための教会」は、ルトのかつての王宮をも再建させた建築王が建設を計画した教会である。神と聖人たちによる守護を民衆の目に見える形で表すことを意図された建物は、当時最高の技術によって育まれた、永久に枯れ果てぬ石の花であった。壁面を飾る聖人たちや怪物の石像は今にも動き出さないのが不思議なほど。光を様々な色合いに染める色硝子が嵌められた薔薇窓は、見事の一言に尽きる。

 決して少額ではない旅費を費やしたのに、大聖堂の妙なる美を己が目で確かめられない。ごく普通の少女ならば泣き言の一つや二つを漏らしても不思議ではない状況なのだが、

「わたしはそういうのにはあまり興味がないから、別に見れなくてもいいんだぞ」

 セレーヌはむしろ安心しながら、諦めを装った歓喜を吐き出した。大聖堂の尖塔の存在は現在地からでも確認できるが、細長い四本の青灰色の棒にしか見えないのも事実。確かにどんなに急いでも、ここから聖堂に辿りつく頃には夕闇の帳は既に落とされてしまっているに違いない。

「そうかい? 悪いね」

「気にするな。なんせわたしは修道院育ちだから、礼拝堂なんて四歳の頃には見飽きてたんだ」

 大聖堂に赴かねば首都を訪れたことにはならず、とまで囁かれる神の家。それはきっと目玉が飛び出るまでに壮麗な建物なのだろう。けれどもセレーヌは煌びやかな建築には心惹かれなかった。はっきりと断言してしまえば、そんな所には行きたくなかった。自分から母を奪った神などを讃える建物などに、どうしてわざわざ足を運ばなければならない。どれほど祈ってもセレーヌの願いを聞き入れてくれなかった神など、乞われたって褒めたたえてやるものか。

「じゃあ、適当な店でパルヴィニー名物の菓子でも買って帰ろうか」

「うん」

 安堵のためにか薄い頬を緩ませる青年の指先には、食料品を商う屋台が軒を連ねている。香辛料に漬けられた炙り肉の香りに混じる、焦がされた牛酪と砂糖の芳香は少女の胃を呻らせ、白桃の頬を熟れた林檎にした。

「すみません、これ二つください」

「あいよ。じゃ、ちょっと待っててくれ」

 小麦粉に牛乳と卵を加えた生地は、さながら溶岩のごとく熱せられた鉄板の上に広がる。赤ら顔の店主は粘度のある液体を器用に薄くのばし、特殊な道具を使って裏返した。そして仕上げに砂糖を振り、香ばしい生地を焦がした砂糖カラメルで覆えばもう出来上がりだった。

「焼きたてあつあつが一番だから、歩きながらでもいいから食っちまいな!」

 生成りの紙越しの焼きたての生地の熱で細い指先を温める。少女は助言に従い大口を開いて、湯気を立てる菓子に被りついた。あえて洗練を追求しないからこその素朴で心温まる風味は、何度食べても飽きないだろう。

 折りたたまれているとはいえそれなりの大きさと量を誇っていた焼き菓子は、少女の口内にぺろりと消え去った。けれども少女はもう一つの店主のお勧め――木苺の砂糖漬けを包んだ一品に手を伸ばす。

「全部は食べない方がいい。夕食が入らなくなるから」

「わたしは子供じゃないんだから、そんなこと分かって、」

「なかっただろう?」

「……ま、まあ、そういうことにしておいてやる!」 

 少女の右手は目的のものを掴む寸前で動きを止め、行き場を失って華奢な身体の脇に垂れ下がった。触れれば折れそうだと人々に錯覚させる、人形のそれに似た腕。その先の手首は、成人した男ならば両方を合わせても楽に掴めてしまえるほどに作り物めいている。柔な掌が硬い皮膚の肌触りを知った途端、甲高い叫びが黄昏の静寂を切り裂いた。

「い、いいい、いきなり、何するんだ!?」

 頬どころか耳まで紅潮させた少女は、ばくばくと脈打つ胸に手を当てる。心臓が薄い肉を突き破って飛び出してくるのではないかと、怖くなったのだ。

「何って。……人が多くなってきただろう?」

 セレーヌは細い髪を振り乱して慌てふためいているのに、細い手を捕らえた青年は握る手を放そうとしない。

「た、たた確かにお前が言う通りだけど、それとこれに、いったい、どんな……」

「万が一はぐれたら大変だから、昼間のあの人達みたいに腕をとまではいかなくても、手を繋いだ方がいいだろうと思ったんだけれど、嫌だったかい?」

 心臓に負担を掛ける行為は首都の人込みに慣れぬセレーヌを慮った故であり、それ以外の意図などありはしない。冷静すぎる弁論は蟠りを解きほぐしはしたが、動揺は治まらず、動悸の勢いは速まるばかりであった。もしも今、耐えきれなくなった生命の源が張り裂けてしまったら、間違いなくフィネのせいだ。

 ――院長さまやお義母さんとは、全然違う。

 遠い過去と今の近くの過去にセレーヌの手を握ってくれた女たちのものとは違う、骨ばった長い指に、剣を握る者特有の鍛えられた皮膚。夫婦として共にあるはずなのに、日常生活では滅多に触れ合わぬ夫の肌は、少女の全身の血を、小さな頭を沸騰させた。初春の夕暮れであるはずなのに、身体が熱い。いつの間に自分は煮えたぎった生姜と酒入りの紅茶を飲み干したのかと勘ぐってしまうぐらいに。

「嫌なら、離すけれど」

 応えを催促しているのか、己が手の甲を撫でる指先に沸き起こる感情は、嫌悪ではなかった。

「……べつに、」

「良く聞こえないから、もう一度言ってくれないか?」

 小虫の羽ばたき同然の声量で囁けば、返されたのは当然の文句であった。しかし、赤みを増した光に照らされた横顔は、どことなくだが常よりも楽しげである。

「――お、お前がわたしとこうしたいなら、ジュジェの家に帰るまでは、こうさせておいてやっても、いい、けど、」

 しどろもどろに舌の根は縺れながらも、少女はどうにか小さな胸の裡で渦巻く想いを吐き出す。

「だけど、家に帰るまでなんだからな! 忘れるなよ!」

 咆哮する獅子を真似て吼えたのは、そうしないととても立っていられそうになかったからだった。

「はいはい、分かったよ」

 素肌に触れている手は、両手足の指では足りぬ数の人命を露と散らした、血塗られた手である。己が夫となった青年が初めて罪人を処刑したのは十六歳の頃で、それから最低一年に四人は屠ってきたのだと、セレーヌはミリーに教えられた。

 更に、死刑に至らぬ刑罰の執行者でもあるフィネは、人の耳や指を切断し皮を剥ぎ、公衆の面前で鞭を振るいもする。絞首や斬首などを除外しても、自分に仄かな熱を与える青年によって苦痛を味わわされた人の数は膨大なものになる。だが、それがどうしたというのだろう。

 世間では、直接触れれば地獄に堕ちるとも囁かれる指をそっと握りしめる。するとセレーヌは顔どころか耳までも熱湯に放り込んだ海老さながらに赤くなったのに、傍らの青年が落ち付き払ったままであることが少し悔しかった。

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