首都 Ⅳ

「誰かあいつを捕まえて! あれ私の手提げなのよ! 宝石も入ってるの!」

 指輪を幾つも嵌めた指と金切り声は、一目散に駆けだす薄汚れた恰好の青年を指示していた。成る程、青年は、擦り切れた襤褸に包んでいるが逞しい肉体には似合わない甘ったるい薄桃色の、セレーヌの目にもいささか装飾過多に映る鞄を掴んでいる。件の青年が外見からはとても想像できぬ、少女趣味極まりない小物を好んでいるという可能性もなくはないが、あの鞄は彼の物ではありえないだろう。

「あー、そこの君! 止まって! 思い止まって! 今ならまだ未遂ってことで済むから! 済ませるから!」

 とにもかくにも、衝撃は漣のごとく鮮やかな青に身を包んだ憲兵の許まで伝播した。慌てて掏摸を呼び止めた憲兵たちだが、彼らの説得が逃げる青年の心に届いている可能性は限りなく低かった。と言うのも、掏摸の青年はあからさまにルオーゼ人ではないと――万年雪を戴く峻厳なる山々で隔てられた、南方の出身であると如実に物語る容姿をしていたのである。

 ルオーゼを始めとする大陸中部北方の国々や、森林地帯を超えた東のイヴォルカ地方の国々が崇める唯一神教の故地でもある南方ナスラキヤ地方。ルオーゼに先んじて革命を起こし君主制を廃した彼の地は、様々な民族が混在する騒乱の火種でもあった。

 異民族や異教徒の頸木に繋がれる羊として。囲いの中で飼いならされながらも、毛の下に誇り高き魂を隠し続けた南方の民。海峡を越えてやって来た大陸西部南方の砂の帝国の支配を退け、数千年振りに統一の主権の下に成り立つ国を建てた彼らだが、その平和はたったの五十年で崩壊してしまった。どころか、その後に誕生した共和国も軍事独裁政権の台頭により、東西に分裂してしまったのである。

 神の名の下の平等という革命の原理を掲げ、貴族階級の追放や無差別大量処刑を始めとする、数々の極端な政策に奔った東。君主制を復活させるまではともかく、古の支配者であり征服者である大陸西部の民の末裔や、その教えの信奉者たちを弾圧し虐殺する西。分裂から数十年の歳月を経た現在でも幕が降ろされぬ東西戦争は、数多の瓦礫の山と大量の難民を生み出した。

 故郷から離れざるを得なかった民のうち裕福な者は、大陸の東部から中部を蛇行する大河ヤールを北上し、氷の帝国で安息を得た。しかし船代を購えぬ者たちは、己が足で険しい山々を越えルオーゼに逃げ込まざるを得なかったのである。苦労に苦労を重ねてようやく安全な地に辿りついたはいいものの、言葉も通じない難民が掴める職は限られている。最底辺の日雇い。もしくは、近年設立された軍需工場といった、苛酷を極める類のものだけだった。

 南方に輸出するための――故国を焼き、同胞を物言わぬ肉塊に変えるための武器の製造で得た薄謝とはいえ、日々の糧が保証されている者たちはまだしも幸福な部類に入るだろう。職を求めて首都まで流れ込んだはいいものの、望みを叶えられなかった南方移民たちは、東の外国人街周辺に貧民窟を形成してしまったのである。セレーヌたちの目前で起きた事件の犯人たる青年も、そうした哀れむべき者たちの一人なのだろう。

「返してちょうだい! だいたい、あんたみたいな薄汚い居候の貧民が宝石を持ってて何になるの!?」

 どうにか男を追いかけんとした夫人だが、地面に掠めるまでの長さの裳裾が仇となったのだろう。山を真似ているのかどうかは知らないが、ごてごてと髪を盛った上に、更に造花を挿した頭のせいで、身体の均衡を崩してしまったのかもしれない。着飾った夫人が前のめりにつんのめる様は、良くできた道化芝居のようで、いささか滑稽でもあった。白粉を厚く塗りたくった顔を真っ赤に染めていきり立つ様は、こう評してしまっては悪いが猿に似ている。

「ちょっと! そこのあんた、そんなところでぼさっとしてないでさっさと医者を呼んで来なさいよ! ほんっと貧乏人って機転が利かないわね!」

 女性はその際に足をくじいてしまったらしく、苦しげに眉を寄せながら金切り声を上げた。

 加害者と被害者。恵まれた体躯の青年と、か弱い女性。同国人と異国人。掏摸と、彼の標的である女性の身の上のどれをとっても、本来ならば掏摸を袋叩きにし、女性に救いの手を差し伸べて当然である。しかし、セレーヌを始めとする周囲の者が微動だにしないのは、この一々癇に障る物言いのせいなのかもしれなかった。

「ほら。あんなことに巻き込まれたくなかったら、こういう場所で考え事をするのは控えた方がいい」

 フィネもまた、人波に阻まれてはいるが確実に遠くに走り去っている掏摸を教訓とし、世慣れしていない妻の注意を喚起するだけ。ぽんと頭に手を置かれた少女はそれもそうかと忠告をありがたく頂戴し、事の成り行きを見守るに任せた。ちらとだが窺えた懸命な形相といい、一目で貧困に喘いでいると察せられる服装といい、きっと何がしかの事情を抱えているのだろう、とセレーヌは掏摸の青年に同情してしまったのだ。どうせこの女は他にも沢山の装飾品を持っているだろうから、宝石の一つや二つを失ったところで大して困らないだろう、と。

 ――面倒事に巻き込まれたくはないから、この事件には関わらないでおこう。

 観衆の心が一つに定まったその時、白銀の旋風が白昼に奔った衝撃に固まった人々の塊を切り裂いた。

「申し訳ありませんが、退いてください」

 どよめく周囲の者たちの間を割って進む人物の身のこなしは、豹か鹿のごとくしなやかで、力強い。伸びやかな四肢が跳ねるごとに、細く整った顎に触れる長さで切り揃えられた銀糸が揺れる様は、まるで神話の一幕だった。つまり、瞬く間に掏摸の青年との間合いを詰め、自分より一回り体格がよい彼を取り押さえた人物は、とんでもない麗人であったのである。

「頼んだぞ」

「了解しました!」

 容姿に似合わぬ並外れた剛力の持ち主らしき麗人は、片手で掏摸を引きずり、縄を構える憲兵に引き渡した。

「……気持ちは分からなくないが、こんなことをしていてはナスラキヤ人全体の印象が悪くなるばかりだ」

 すっきりと通った鼻梁の下の、濡れたような薄い唇から憂愁が漏れると同時に、周囲の男の幾人かもまたほうと感嘆の吐息を漏らした。癖のない白銀に縁どられた白皙の美貌はどこか冷たげ。どこか神秘すら感じさせる玲瓏な貌に近寄りがたい印象を受けるのは、整った唇の紅と鮮やかな対比を成す双眸のためなのかもしれなかった。

 銀線細工フィリグリーを連想させる長い睫毛に囲まれた瞳は磨き抜かれた青玉そのもので。その場に佇む女たちは凛とした輝きにうっとりと魅入られていた。自分の手には決して届かないと理解していながらも、至上の絹で織りなされた衣装や貴石を連ねた首飾りを夢見る女の心情とは、このようなものなのかもしれない。

「……なんて素敵な方なのかしら。でも、」

 ――女性なのかしら? それとも殿方?

 紅潮した頬に手を当てた娘がほうと呟いた疑問に、セレーヌも同意せざるを得なかった。質はよいとはいえ男物に袖を通した銀髪の麗人は、その涼やかな――男としてはやや高く、女としては低めの声音も相まって、男女どちらであるのか判別できないのである。奇異ではあるが人々を魅了する風貌の神秘性をいや増す恰好も、彼女・・ほどの佳人ならば、分不相応な欲望を抱いた男に言い寄られた苦い経験があるのだろう、と納得してしまう。

「たまげた美人だな……。おい、後でちょっと声かけてみねえか?」

「よせよ。俺たちじゃ反撃されて終わりだぞ」

「でも、もしかしたら、イケるかもしれねえだろ……?」

 夫人に手提げを渡すべく屈みこんだ美女は、不埒な欲望を囁き合う男に吹雪をも圧倒する冷ややかな侮蔑をちらと向けたのだが、その流し目もまた一枚の絵のようだった。

「どうぞ、ご婦人」

「あ、ありがとう……」

 にこりともせずに黒い手袋に覆われた手を差し出す仕草は流麗で、彼の人物は上流に属する家の子女であることは明らかだった。

「礼には及びません。今日は非番とはいえ、市民の安全のために奉仕するのが僕の使命なのですから」

 痛みなど最初からなかったかのように立ち上がり、お礼にあそこで食事でも、と近くの食堂を扇で示した女性を冷淡に拒絶する物言いから、セレーヌは彼女はであったのだとようやく理解した。そういえば、彼は男にしては細身であるが、並みの男と同じくらいには背が高い。

「もっとも、半分だけとはいえ彼らと同じ血を持つ者としては、あの言い草はどうかと僕は思いましたが。正直、不愉快でした」

 先ほど自らが取り押さえた男と同じ、南方の系譜に連なることは確実な――清らかな白銀の毛髪は、山脈の向こうの国では理想の美女の条件の一つに挙げられている――美青年は、屈辱に肩を震わせる女を振り返りもせずに、同僚らしき男達の許へと歩んでいった。

「なんだ、野郎か。期待して損したな」

「ああ、全くだ。見惚れてた時間返してほしいぐらいだ」

「あー、でもあれだけ綺麗だったら男でも……」

 身勝手な不満を喚き散らしながら退散する男たちとは対照的に、妙齢の女たちは両目を鼠を狙う猫のごとくぎらつかせて美青年を包囲する。

「先程のご活躍、お見事でしたわ!」

「憲兵隊に所属されている御方だとお見受けしますが、普段はどの街区の巡回をしてらっしゃいますの?」

「御雄姿から受けた感激を詩に認めて送りたいのです。もしよろしければ、明日のこの時間に、」

 ある者は逃してなるものかとばかりに美青年の衣服の袖を掴み、またある者は恥じらいの紅を叩いた面をしおらしく俯かせながら、狩りに勤しむ女たち。しかし彼女らの姦しい輪は、程なくして割り込んできた烈火によって蹴散らされてしまった。

「こちらにいらしたのね!」

 引き締まった腕を掴んだ彼女の波打つ髪は、燃え盛る炎そのものの、触れれば火傷しそうな緋色。肌は繊細で肌理細やかな白磁で、小さな卵型の輪郭に納まった、ふっくらとした唇の珊瑚色と穏やかな双眸の金緑が良く映えた。

「今日は私の買い物に付き合ってくださるはずだったのに、急にどこかに行ってしまうなんて、酷いわ」

「ごめん、レティーユ。一応声を掛けたつもりだったんだけど、」

 レティーユとは「神の炎」を意味する天使の名から採られたのだろう。その名の通り見事な赤毛をしどけなく結い上げた女性は、首から下もまた素晴らしく均整がとれていて、胸と腰は熟れた果実のごとく豊満だった。そのたわわなふくらみで二の腕を挟まれる形となった美青年であるが、先ほどの氷像めいた無表情はどこへやら。喜びに緩んだ頬は妖艶ですらあるが、やはり男なのだ。

「あ、レティーユさん。隊長、やっぱりレティーユさんとのお出かけの最中だったんですね」

「ええ。ちょっとお肌の手入れに使う軟膏や、あと香水とかを選びに。私の肌は私だけのものではないし、私だけで選ぶのも寂しいでしょう?」

 おっとりと海の宝石で形作られた花弁をほころばせた赤毛の美女だが、フィネは「分かりやすい牽制だな」と遠い目をして呟いた。

「よっ! 熱々夫婦!」

「……そんな。夫に満足してもらえるように、常に美しくいられるように心がけるのは、妻として当然の努めですもの。だから、そんなに褒めないでください。照れてしまいますわ」

 楚々としていながら嫣然と微笑む女性の艶めかしさに敗北を悟ったのか。美青年を捕食せんとしていた女たちは、次々に姿を消す。

私の・・夫に何か御用がおありなら、私が代わりにお聞きいたしますけれど、」

 それでもなお残っていた最後の一人も、夫には及ばぬものの十分に美しい女性の大輪の薔薇の笑みには太刀打ちできず、踵を返して走り去っていった。

「……俺たちも、行こうか」

 なぜだかげんなりとした面持ちの青年に促され、少女もまた足を進める。過ぎ去ってまだ一年足らずの王制時代。貴族と平民の間で繰り広げられていた階級闘争以上に熾烈な女の争いは、俄かには拭い去りがたい印象を小さな頭の中に植え付けたのだった。

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