首都 Ⅲ
街区によって聳える建物の様式のみならず、行き交う人々の衣服の意匠や容貌も異なる外国人街は、ルオーゼを取り囲む国々の縮図である。いわば自国の中の他国の入り口には、北の隣国において崇拝が盛んな聖女の純潔と聖性を顕す真白が翻っていた。処女雪と紛う布地に、王冠を戴いた盾と薊の紋章が優美なノルバ王家の紋があしらわれた旗の隣では、高貴な紫で彩られた、太陽を表す黄色が翻っている。
前足の片方を上げ、鋭い牙を覗かせた有翼獅子と竜は、ここから先はルオーゼであってルオーゼではないと咆哮しているのだろう。しかしいかに猛々しくあっても、布目に閉じ込められた獅子を恐れるのは、分別もつかない幼子ぐらいのものだ。
「この目で見るのは初めてだけど、ほんとに掲げてるんだな」
細い喉から絞り出したのは、呆れを通り越していっそ感嘆に近づいた囁きであった。
春の若草の双眸が仰ぐ、向かい合う幻想を住まいとする獣たち。厳めしい一対の片割れたる獅子は、西の隣国の民が
遥か七百年前。本家の王が子を儲けぬまま家臣に弑された際、現在のトラスティリアを国王親族封として与えられていた分家の当主には、正妻との間に娘が一人いた。
この分家の姫君はルオーゼ貴族の男を夫にしてさえいれば、王妃の座を与えられていたのは間違いないだろう。だが稀代の野心家であった彼女は、王妃の冠程度では満足しなかった。自らが統治者になりたいとの野望を抱いていた姫君は、第一王朝最後の王亡き後の混乱をむしろ好機ととらえ、速やかに宿願を現実にするための行動を始めたのである。
具体的に何をしたのかと問われれば、姫君はまず自らの玉座にはだかる敵となりうる妾腹の弟を殺害し、次いで不仲であった当時の夫をも亡き者にした。この夫は必ずや自身が実権を握る上での障害となるだろうと判断して。
こうして姫君は、新たに帝国時代から続く名家の、御しやすい気質の男を伴侶として迎えた。そして女性相続を許す帝国時代の継承法の復活を宣言し、ゆえに我こそが正統なる後継者であると――この大陸中部北方の女王であると主張したのである。もっとも、姫君の主張は完全には受け入れられず、彼女は現在のトラスティリアに該当する領土のみを支配する形となったのだが。それでも彼女は、現在まで続く西の隣国の王家の祖となったのだ。
姫君が黒絹の髪を花や貴石ではなく、黄金の冠で飾ったその瞬間。いと麗しき女王の誕生を言祝ぎ響き渡った歓声こそが、トラスティリアという国の産声であり、ルオーゼ第一王朝の断末魔の悲鳴となったのである。
しかし、ルオーゼの慣習に従えば断絶した――男系の子孫が途絶えた王家の末裔は、その身に流れる建国王の血を理由に、たびたびルオーゼの領有権を主張してくる。ルオーゼどころか、一時期はルオーゼの一部であったノルバの支配権まで。ゆえに、現トラスティリア王家の血筋をひけらかす意図を隠そうともしない意匠は、ルオーゼやノルバの民の間では甚だ不評であった。もしかしたら、斃された王家の紋である聖杯と樫の枝の紋よりも嫌われているかもしれない。
ルオーゼという国を作った初代の王は確かに偉大である。だが、その血を受け継ぐ西の隣国の支配者に膝を折るぐらいなら、首都を灰燼に帰せしめた方がまし。これが、大多数のルオーゼ人の主張であった。
「俺が首都で修行してた頃もたまに燃やされていたし、暴動事件に発展して死傷者も出たものだけどな」
西の隣国の旗の意匠が「甚だ不評」で済んでいる間はまだ良かった。だが、北海の支配権と交易による利益を巡って対立する昨今のノルバとトラスティリアの関係に触発され、ルオーゼの軍隊が出動したという事件までも起こってしまったのだから、もうどうしようもない。
事の始まりはたわいのない難癖であった。
――トラスティリアの旗が掲揚されている位置が高すぎる。これではまるで自分たちの旗が、女王陛下そのものが見下されているようで不愉快極まりない。
抗議すべくトラスティリア人街の代表の屋敷に乗り込んでいったノルバ人の一団と屋敷の主の舌戦は、広場での殴り合いを経て両国海軍による戦闘にまで発展してしまったのである。
「レイスと二人で現場に行ったけれど、取っ組み合って罵り合うノルバ人とトラスティリア人は中々の見物だったな。あんな醜態は滅多にあるものじゃない」
まるで遠足の思い出を語るかのように穏やかに微笑まれても反応に困るのだが、無反応を貫くのも悪いので、取り敢えず適当に頷いておけば良いだろうか。
「そ、そうなのか……。ところで、お前が言う食堂まであとどのぐらいなんだ?」
かつてフィネが頻繁に通ったという食堂は、向かい合う幻獣の厳めしさが悠久の歴史の重みを醸し出す旗の奥にある。先程までノルバ人街をうろついていたのは、昼食までの暇潰しでもあり、本当の目的はむしろこちらだったのだが、急激に近寄りがたさを感じてしまったのは何故なのだろう。
顔つきには多少の趣の違いはあれど、ノルバ人とほとんど見分けがつかないルオーゼ人である。自国の中の異国に足を踏み入れた途端、武器を掲げた黒髪の集団に囲まれないとも限らなかった。もういっそ、ノルバ人とトラスティリア人の街区は、首都の西の端と東の端に分けてしまえばいいのに。
「どうした? ……君、もしかしてトラスティリア料理は嫌いだったのかい?」
「いや。……嫌いというか、食べたことがないから分からないけど……」
「だったら、好きか嫌いかはっきりさせに行こう」
そこはかとない生命の危機の予感に足を止める少女とは対照的に、青年の歩みに迷いはない。
「大丈夫。海戦で負けて以来、トラスティリア人たちも少しは大人しくなっているらしいから」
セレーヌの覚えがある限り、こんなに説得力のない大丈夫を耳にしたのは初めてである。だが薄い腹がきゅるきゅると哀れっぽく啼いた以上は、広く逞しい背に続くに他は無いのだ。
結果から言えば、怖気づきながらも入った料理屋は大当たりであった。
「はい、お待ちどうさま」
波打つ黒髪を鮮やかな模様の布で纏めた娘は、血入りの腸詰と豆の煮込みを生唾を呑みこんだ少女の目前に置く。
「あたしの父さんが腕によりをかけたサラファドル名物よ。しっかりご賞味していってね」
悪戯っぽく琥珀の片目を瞑り、甘橙と
トラスティリア王国はサラファドル地方。西の隣国の最南端たる地には遙か昔は「黒き者たち」と呼ばれ差別されていた、来歴不明の少数民族の子孫が多く暮らしている。もっとも、歴代の為政者による苛烈な弾圧をも交えた同化政策のため、彼らは良くも悪くも支配者の文化や言語に馴染んでしまったそうなのだが。とはいえ、例え父祖の言葉を失い唯一神に帰依する身となっても、彼らは美しく特徴的な髪や肌を保持し続けるのだろう。
絶妙に配合された香辛料の風味と肉の旨味に頬を緩めつつ垣間見た毛髪は、黒曜石に似て艶やかで。セレーヌが黒髪の女と聞いて思い浮かべるのはただ一人。小気味良く酔っぱらいたちを追い払い、時に喧嘩の仲裁もする娘はマリエットには似ても似つかない。なのに頭の奥が幽かながら締め付けられるかのように疼くのは何故なのだろう。
「お客さん、ご注文は?」
弾ける声に釣られ視線で辿った先には、家族連れらしき男性が佇んでいた。
「おとうさん、わたしおさかながたべたいわ!」
父の手を握る少女の虹彩が、地平線近くの空の青を宿しているかは分からない。けれども癖のない黒髪を垂らし、処女雪の肌に映える濃い青を纏った娘の微笑は直視に耐えなかった。
「……さっきから手が止まっているけど、口に合わなかったのかい?」
やっぱり君の舌には辛すぎたのか、と口角を吊り上げた青年の隠された意図を察するのは容易かった。フィネは言外に、セレーヌの味覚が子供じみていると揶揄しているのだ。
「そ、そんなことない! ただ、少し考え事をしていただけだ」
慌てて最後の腸詰めに被りつけば、小さな口はそれだけでいっぱいになる。
「……君、その食べ方は少しはしたないぞ」
フィネは何故だか頬袋一杯に木の実を詰め込んだ栗鼠の面相になったセレーヌの口元を注視していた。
「折角パルヴィニーに来たのに外国人街ばかりにいてもなんだから、店を出たら大聖堂見物にでも繰り出すか」
香り高い紅の酒の最後の一滴をも飲み干した青年の提案の仔細を吟味もせずに、舌ではなく首を縦に振る。そして少女はどうにか最後の塊を胃の腑に収め、
「右の口の端に汁が付いてるよ」
「そ、そんなこと分かってる! 今拭おうとしてたんだ!」
白桃の頬を熟れた木苺にしながらも席から立った。
「食べ過ぎで動けないのなら、俺が君を抱えて移動してもいいけれど」
行き交うトラスティリア人の様子に目を奪われるセレーヌの様子に、あらぬ勘違いをしたのか。
「子供じゃないんだから、自分が食べれる量ぐらい分かってる!」
わざとらしく屈みこんで手を差し出してきた青年の無礼な申し出は右から左に受け流し、少女は歩を進めるごとに変わりゆく街並みを眺める。程なくして異国から自国に
パルヴィニーには二つの外国人街があるが、それらは元王宮にして現官邸や付属する兵舎、さらに首都観光の目玉である大聖堂を挟んで西と東に位置している。先ほどの西の外国人街でもちらほらと巡回していた憲兵の制服の鮮やかな青は、空に突き刺さった縫い針のごとき聖堂の尖塔が大きさを増すにつれ、ちらほらどころではなくまざまざと目につくようになったのだ。
「なあ、フィネ。この先には何かがあるのか?」
「目ぼしいものは大聖堂や果物市場や骨董品店通りぐらい。あとナスラキヤ人とイヴォルカ人の街もだな」
「じゃあ、どうしてこんなに兵士がうろちょろしてるんだ? もしかしてまた暴動が、」
あくまでさりげなくを装いながらも決して警戒を緩めようとしない男達の様子に不安を掻きたてられ、傍らの夫の袖を掴んだ少女の頭に、青年の硬い手が置かれる。
「何も心配することはない。ここは、俺が生活してた頃からこうだったから。ただ、」
ここを歩く時は、少し用心した方がいい。
青年の囁きを裏付けるかのごとき甲高い悲鳴が、少女のほど近くから迸ったのは、呆気にとられた小さな足がしばし静止した直後であった。
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