首都 Ⅰ
風雨に晒され象牙色に変化した白壁を覆う蔦の緑が。蔦の緑に映える
気泡が混じった硝子窓越しに覗く春の首都。その町並みを彩るは、分厚い外套や獣の毛の襟巻ではなく、軽やかな木綿や艶やかな絹だった。麗らかな季節に相応しい衣装が陽光に照らされると、花にも負けぬ色彩がより際立つ。
白っぽい毛髪の金色は日差しを受けて常より強まり、天頂に坐す太陽に似た輝きを放った。蟀谷より上の高い位置で二つに纏められた毛髪は、少女の好奇心に同調してふわふわと動く。長い髪に縁どられた丸い頬は、髪を括る飾紐よりも淡い――巴旦杏か桜桃の花の薄桃色に上気していて、少女の喜びの大きさを率直に表現していた。春の女神の微笑みに誘われて顔を出した若葉そのものの瞳も。
他にすることがないから仕方なく、という様子で外界を眺めていた青年は、過ぎ去った冬の夜空の青を宿した双眸をもの言いたげに細めた。
「君、午後からはあちこちを見て回るって意気込んでただろう? パルヴィニーはルトよりも人が多いから、」
「あまりはしゃぐなと言いたいんだろ? ――少しぐらいいいじゃないか。わたしはここに初めて来たんだから」
少女はあっさりと忠告を受け流し、再び透明な板に額を寄せる。そして待ち受ける心弾む一時を想ってまろやかな口元を綻ばせた。
真冬の寒さがぶり返し、家の中にいてもなお呼気が白く染まる二月半ばの日の午後。セレーヌはミリーと共に暖炉の前に陣取り、凍えた手に軟膏を塗っていた。少女のか細い指は寒気に弱く、手入れを怠るとすぐにひび割れてしまうのである。
「
その点、義母がセレーヌには意図を解し得ない笑みとともに差し出した薬は、肌理細やかで繊細な肌にもよく馴染んだ。
「セレーヌちゃんの皮膚は薄くて傷つきやすいんだね。あたしとは大違いだ」
長年の家事によって鍛えられたミリーの手の皮膚は分厚く、逞しい。幼いセレーヌの頭を良く撫でてくれていた前院長の手が仄温かく優しい老木だとしたら、ミリーは飴色になるまで大切に使い込まれた樫の食卓だろう。いずれも幼さとは無縁の、歳月を経た風格がある。少女は労働に向かない己の掌と義母のそれとを見比べ、いつか自分も義母のような立派な主婦になりたいものだと夢想した。
「わたしも早くお義母さんみたいになりたいです」
「やだねえ、あたしをそんなにおだてても何も出せな――ああ、そうだ。秋に作り置きしておいた栗の砂糖漬けがあった。もうすぐ午前の間食の時間だから、茶でも淹れようかね」
よっこらしょ、といかにも中年らしい声を上げた女は名残惜しげに、けれども素早く炉端から立ち上がって台所に向かう。少女は
天空からふわふわと舞い降りる粒を認めた途端、セレーヌはしんみりと溜息を吐かずにはいられなかった。家の中でもなお他者と寄り添っていなければ凍えるまでに寒いのに、フィネは未だ仕事から帰らないのだから。
人間の血と涙と苦痛が沁みこんだ笞に似た青年は、広場に設けられた晒し台の傍らで鞭を振るっているのだろう。街の処罰を担う死刑執行人は、命で償わせるほどではない微罪にも裁きを下さなければならない。ゆえに、回数は街の裁判所が罪状や情状酌量の余地を考慮して決定するが、フィネは幼い頃から父の助手として晒し台の側に立ち、罪人を鞭打っていたらしい。
セレーヌはフィネの執行の詳細が綴られた手紙を受け取る光景を目の当たりにしたのだが、あれは嫌なものだった。
薪代を節約すべく、居間に集合したベルナリヨン家の面々は、めいめいそれぞれの趣味や仕事に没頭していた。女は編み物に勤しみ、青年は見慣れぬ先の尖った刃物を磨く最中。少女は肩甲骨に掠めるまでに伸びた鳶色の髪を編んでいた。こうしている方が温かい、との理由で家の中では下ろされている髪は男にしては長いから、弄りがいがあるのである。
「なあ。お前はどうして髪を伸ばしてるんだ?」
鳶色の毛先に毛糸玉を突く仔猫のごとくじゃれる少女は、己のものよりもやや硬い毛髪に幅広の飾紐を結んだ。いわば先日の頭飾りの一件の意趣返しであるが、青年の虹彩と同じ濃紺は、彼のやや赤みがかった頭髪によく映えた。
「どうしても何も……。ただの慣習だよ」
こそばゆいから止めてくれ、と妻の努力と拘りを一種で無に帰した青年は、濡れたように艶めく刃物を机に置く。
「俺は一人息子だからね。煩わしいから切りたいけど、母さんが煩いんだ」
その理由はそれこそ唯一神か医療を司る天使のみが把握しているのだろうが、幼少期においては、女よりも男が病にかかりやすく、また死亡しやすい。そのため女の服を着せるとまでは行かずとも、病弱な男児や一家の跡取り息子に
「そんな決まりがあるのか。……知らなかったな」
「決まりなんて大層なものじゃない、ただの俗信だからね。だいたい、俺の従兄もそうだけど、今じゃやってない奴の方が多い。あいつも同じ跡取りで、しかも都の死刑執行人なのに」
つまり、不満げにぼやく青年の男にしては長い髪は、普段の扱いはどうあれ母親から愛されている何よりの証なのだ。
「お前は昔から何かあればすぐそれを言いだすねえ。――何遍言っても分からないみたいだけど、他所は他所、うちはうちだ。言っとくけど、その髪は子供が産まれるまで切るんじゃあないよ」
鉤針を操る手を止め一喝した母の隠された心情を、フィネは理解しているのだろう。青年はこの時ばかりは反論を一切せずに、再び刃物と向かい合った。逞しい背に流れる赤銅色が短くなるのは、遠い未来のことだろう。
騒ぎ出した胸を宥めるべく、少女は深く深く息を吸う。
「フィネ・ベルナリヨンはいるか」
天候とは裏腹に温かで穏やかな空気を切り裂いたのは、唐突に割り込んできた尊大な呼び声であった。
閉ざされたままの扉の向こう。ベルナリヨン家の扉の把手に触れる事すら厭わしいとばかりに突っ立っている男は、市役所の役人なのだろう。いわゆるきちんとした格好をしていることからも、彼のおおよその経歴や地位は察せられる。一方フィネは来客と同じ官吏ではあるが、髪は纏められておらず、上着はただ羽織っただけという非常にだらしない恰好をしていた。おまけに、襯衣はいつもの返り血つき。客人を迎えるには相応しからぬ格好のフィネだが、それでも目前の男より頭一つ分以上も背が高かった。
「御用をお伺いしても?」
その彼が浮かべた微笑には、友好など一切混ざっていなかった。だがそれでも、憮然とした面持ちのままの役人よりは、表面のみとはいえ礼儀を示しただけまだましだろう。あろうことか役人は、妻であるセレーヌも見ている前で外套の隠しから取り出した手紙を投げ捨て、フィネを跪かせてそれを拾わせたのである。セレーヌがもしも同じ立場に置かれたら、対峙する男の突き出た下腹に踵をのめり込ませていたかもしれない暴挙であった。
自分よりも目線が低くなった長身の青年を見下す男が浮かべた表情は、セレーヌがマリエットの次に嫌う女の、聖典の貢並みに薄っぺらな笑顔に酷似していて腹立たしい。……そういえば、イディーズは今頃、一体何をしているのだろう。大方、前院長が亡くなった途端、我が物顔で入り込んだ院長室で聖典でも読んでいるのだろうが。
「では、用は果たしたぞ」
その言葉を合図に、青年はようやく立ち上がった。
「君には分からないだろうけど、あのオッサンの天辺禿げ会うたびに酷くなってるから、笑いを噛み殺すの大変なんだよな……」
今度来た時は抱き上げて見せてやろうか。
軽やかに。揶揄うように問いかけた口ぶりとは対照的に、手紙に付着した汚れを払う青年の双眸は覗き込んでも一切の感情を伺わせず、薄く氷が張った湖面を連想させた。
「さっきのことは君が気にしなくてもいい。俺の髪と同じようなものだから」
ごくごく稀にいる怖いもの知らずや物好きを除けば、
「……冷気が入って寒くなったから、珈琲でも飲むか」
セレーヌは修道院という特殊な環境で育ったから、死刑執行人に対する世間の悪意にあまり直面したことがなかった。だが、いわれのない忌避や蔑視は、世間知らずの少女にはその深さすら想像できぬ根深く恐ろしいものなのだ。降り積もる雪は人々に踏み固められるうちに氷となったのだろう。
そろそろあいつも帰ってくるはずだよ、と義母に促され用意した軽食と飲み物は、今が食べ頃、飲み頃である。少女は逸る心のままに曇った硝子に文字を――「早く帰って来い、フィネ」の一文を綴ったが、帰宅した彼に発見されでもしたら顔から発火しかねないので、慌てて全てを拭い去った。水蒸気に覆われていた窓は一時失われていた透明さを取り戻し、より鮮明に外界の様子を伝える。
少女は思いがけず視界に飛び込んできた男らしき人影に目を瞠り、胸を躍らせずにはいられなかった。忍び寄る寒気に怖気づく手足を叱咤し、いそいそと家の内と外を繋ぐ扉を開く。そしてあくまで偶然だという態を装って玄関先に佇む人影に「……遅かったな」と声をかけたのだが、
「これ、お宅への御届け物です。パルヴィニーのジュジェさんからの手紙が一通」
明るい緑の瞳が映したのは心待ちにした青年ではなかった。フィネと同じ年頃の市の郵便物の配達を担う青年は、端を摘まんで手紙を差し出している。彼は腕を目いっぱい伸ばすことでセレーヌと――死刑執行人の妻と――距離を取っているのだ。
「あ、そうですか」
セレーヌの返事が、この雪の中わざわざ手紙を配達しに来てくれた青年に手向けるには素っ気ないものになったのは、吹きつく寒風のためだけではなかった。彼は業務を終えると、足早にベルナリヨン家の敷地から立ち去っっていった。そんなに急ぐと足を滑らせるのではないか、と危惧してしまうまでに。もっとも、その忠告はあえてただ思うだけに留めたのだが。
「ただいま」
うっすらとした赤みを纏った鞭を片手に青年が帰宅したのは、それから数分後のことだった。フィネは髪や外套に付いた雪を払い、絶妙な頃合いで準備された珈琲に風味づけの蒸留酒を垂らす。
「そういえば家の前の道で額を抑えて呻いてる人がいたんだけど、雪が降ると足元がおぼつかなくなるからいけないよな」
こんがりと焼けた塩漬け豚肉を挟んだ麺麭を黒褐色の液体で流し込んだ青年は、少女から差し出された手紙の宛名に、彼にしては珍しく晴れやかな声を上げた。
「母さん、レイスから手紙が来たよ」
レイス・ジュジェは、結婚前のミリーと同じ姓を持つことからも分かるように、彼女の兄の息子。つまりフィネの二つ年上の従兄である。首都パルヴィニーの死刑執行人として元国王夫妻の首を刎ねた彼は、フィネの友人でもあるらしい。
「おー、どれどれ。ちょっとあたしにも読ませてみな」
眼前で楽しげに文を共有する親子の姿は、小さな胸の奥を疼かせた。彼らに今までセレーヌが知らなかった側面があるのは当然。セレーヌにだって、誰にも悟られないように必死に秘め隠してきた、何にも代えられない望みがある。けれどもこの家の一員となって初めて感じた寂寥は、あまり心地よいものではなかった。
「セレーヌ。君も読むかい?」
「ああ、いいのか?」
だが平静を取り繕ってやや癖があるが十分に丁寧な文字に目を落とせば、劫火は瞬く間に消え去ってしまった。
――結婚おめでとう。お前に先越されるなんて思ってなかったから、驚くあまり椅子から転げ落ちちまったぜ。
軽快な調子で綴られた文章は、極めて軽快に締めくくられていた。春になったら嫁を見せに来いよ、と。
「そういうことだから、寒さが和らいで雪が解けたら都に行こうか」
青年の面に広がった控えめな微笑みは、白金の頭を縦に振らせた。セレーヌだって世間一般の少女並みに、音に聞く「ルオーゼの冠」をこの目で見てみたいと何度もお思っていた。六百年の長きに渡って王都であり続け、これからもルオーゼ第一の都市の座に居座り続けるであろう都市とは、どのようなものだろうかと。
今からぼちぼち旅支度を整えておくかと独り言つ青年の傍らで、少女はまだ見ぬ都の町並みを脳裏に描こうとあらん限りの想像力を駆使する。
「でも、旅慣れしてる俺はともかく君は初めてだから、馬車で揺られるだけでも疲れるだろう。そういう時は、我慢せずに教えてくれ」
死刑執行人は時に、居住している街の近隣の都市の処刑の手伝いに赴く。大規模な犯罪の結果として多くの罪人が一度に処罰されると決められた場合、一人だけでは手が足りなくなるためだ。フィネは実際、半年前の元国王夫妻処刑にも助手として参加したらしい。
首都は少年の頃のフィネや、若かりし頃の義母が過ごした場所でもある。身近な人々の息吹が残る街への好奇心は、初旅への不安を吹き飛ばした。セレーヌの期待を知ってか知らずか、今年のルオーゼの春の訪れは遅れたが、やがて旅立ちの日はやって来た。
「いってらっしゃい、セレーヌちゃん。土産を忘れたらどうなるかわかってるんだろうね、フィネ?」
「……勿論だよ、母さん」
セレーヌとフィネはミリーに見送られ、馬車に乗り込む。そして二日余りがたごとと揺られて、華の都へと辿りついたのである。
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