挿話 過去 Ⅱ

 積み上げられた煉瓦塀の向こうの世界は、わたしにとってはやはり異界も同然。いや。本来ならば、わたしたちが属する場所こそが、大多数にとっての異界なのだろう。

 一般に修道院といえば、俗世と縁を切ってただ祈りのためだけに生きる人間が集う場所だと認識されているし、事実そういった傾向は確かにある。けれどもわたしたちの手首には、細く頼りないけれども確かな繋がりの糸が絡み付いていて、その糸は用意に断ち切れるものではないのだ。その証拠に、わたしたちの修道院に、遠くから巡礼に来た客人が一夜の宿を求めることはたびたびある。そういった場合には、清らかな信心を備える旅人を快く迎え、温かな食事と粗末だが清潔な寝台を提供する決まりだった。

 また、特別な用事が出来た際は、院長さまの許可を得て外出をすることもできる。

「じゃ、行こうか」

「ええ」

 だけど今のわたしとオーリアは院長さまにお伺いもせず、裏門からこっそり俗世に足を踏み入れた。本当は、こんなことはしてはいけないし、ばれたらお叱りを受けるのは間違いないのだけれど。

「ごめんなさいね、オーリア。わたしの我儘に付き合わせたりして」

「ううん、いいんだよ。わたしも、正式な修道女になる前に、色々なものを見てみたいと思ってたから」

 陽気に大口を開けたオーリアは、どこからともなく小さな袋を取り出し、その中身を掌に広げた。陽光をぎらりと鈍く反射する丸く小さな金属。どことなく不吉に輝く物体は、紛れもなく銅貨だった。

「それ、どうしたの?」

 個人財産の所有を禁じられる修道女が、それも見習いのわたしたちが持てるはずのないものを、オーリアは何故所持しているのだろう。それも、誇らしげな顔をして。 

 掌の上の三枚と引きかえにできるのはほんの些細な、例えば露店の焼き菓子や新鮮な旬の果実のいくつか程度のものだけれど、それでもわたしは戸惑ってしまった。とうに自らの意志で定められた戒律を破ろうと決めていたのに、わたしたちの小さな秘密が慣れない銅貨の存在のために、何か罪深いものに変じてしまうようで怖かった。

「驚いた?」

「ええ、とても」 

「あのね、今日のことをこっそり話したらね、会計係のエリーヌさんがくれたの。……見習い以外はみんなたまに――もちろん院長さまにばれないようにだけど――やってることだから、あんたたちも楽しんできていいでしょうって」

 だけど胸の中に蟠った不安は、オーリアが得意げに胸を張るとたちまち消えてしまった。俗世ではきっと、こういうことを指すのに「魔法のような」という言葉を用いるのだろう。

 真夏の苛烈な太陽ではなく、春の柔らかな、重なる葉の間から零れ落ちる日差しのようなオーリアの笑顔。雀斑が散る頬に浮かぶ表情は、いつもわたしを元気づけてくれる。今回のことだって、わたしは、オーリアの励ましと協力なしには実行に移さなかった。いや、移せなかっただろう。  

 わたしの口下手はかなりのもので、生まれた直後から寝食を共にしてきたお姉さまたち相手にすら、時に口ごもってしまう。わたしは、オーリアのように頭に浮かんだ言葉をそのまま舌に乗せることはできない。どんな些細なことでもあれこれじっくり考えてしまう性分なのだ。そして相手が自分を待ってくれていることに気づくと、早くしなければと気がせいてしまい、形になりかけていた心の動きを見失ってしまう。何を言いたいのか分からなくなっている時に、怪訝そうに寄せられた眉などが視界に入ってしまうと、頭の中はもう真っ白になる。

『“街に行ってみたい、ね”……あなたはまだ若いし、これからの人生のために色々なものを見てみたいという気持ちは分かるわ。でもね、』 

 そんなわたしが、院長さまを相手に街に行ってみたい理由を述べられるはずはなかった。院長さまはただでさえお忙しいのだから、つまらないことで煩わせてはいけない。

 わたしは戒律を破って俗世に踏み込もうとしている今になっても、なぜ自分がこれほどまでに外を、西の外国人街を構成する何かを求めているのか分からなかった。他でもない自分のことなのに、ちっとも。……もしかしたら、わたしとオーリアとも共通する、それなりに特異な生まれが関係しているのかもしれないけれど。

 あの場所に行ったって、既に手放してしまった、そもそも最初から与えられていなかった面影なんて探しようがないのに。

 このまま修道院に留まって信仰の道を進むか、市井に下って誰かの妻となり母となるか。二つの選択肢のうち、歩むべき道はもう決まっている。けれど、胸の内にもやもやとした蟠りを抱えたままでは、神の花嫁にはなれない。わたしたちの主や尊い預言者さまにのみ捧げるべき心に、ほんの少しだけとはいえ、醜い黒い染みを残したままでは。

「いつまでもぼうっとしてないで、さっさと歩く! じゃないと日が暮れちゃうよ」

 ――いつもの内省に沈んでいたわたしを今に引き戻したのは、耳慣れた溌剌とした声だった。

「……そうね。それに、お姉さまたちに見つかったりしたら大変だわ」

 差し出された手はやはり温かく、わたしの小さな手をすっぽりと包んでくれた。

「じゃ、行こう」

 本当は自分一人で先に進む事もできるのに、いつもわたしの手を引き、時に共に思い悩んでくれる友人。

 オーリアがいてくれるなら、長年密かに育て続けた悩みを断ち切ることもできるだろう。

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