挿話 過去 Ⅴ
相応の広さのある室内の光源は、ただ一つだけの灯火だった。男の下で仰ぎ見る橙色の炎は儚いほどに小さく、けれども露わにされた肌を緑の瞳から隠してはくれない。
繊細な手に縛められている両手首と脚の間の痛みは、呼吸をするごとに激しさを増した。だけど放してくれと懇願する余裕などありはしないし、震える喉はただ意味をなさない単語の断片を紡ぎ出してばかりで役に立たない。……他ならないわたしの身体なのに、どうして指一本満足に動かせないのだろう。
見ず知らずの男の眼前にはしたない姿を晒している現状も、今この瞬間に至るまでの経緯も、全てがわたしの理解を超えていた。
わたしは確かに罪を犯したのだから、罰を受けなければならない。そのことは、十分に承知している。けれど贖いのために与えらえる罰とは、懲罰房に放り込まれるとか、数日間不眠不休で神に祈りをささげるとか、そのようなものであったはずで――
最も秘め隠しておくべき、神に身を捧げた修道女にとっては無用の器官を暴かれることでは断じてなかったはずだ。
膨れた肉に内臓を掻き乱され奥深くを突き上げられるごとに、耐えがたい痛みが全身を貫いて、視界が真っ赤に染まった。強引にこじ開けられた場所からは、月のものでもないのに血が滲み出ている。そのおぞましい事実は、鼻腔をくすぐる鉄錆の匂いが教えてくれた。
「当然と言えば当然だが、やはり処女だったのか」
悲鳴を上げることもできないわたしとは対照的に、わたしを組み敷く男はくつくつと笑っていた。まるで悪魔が化けた猫が喉を鳴らすみたいに。
……もしかして、この男は人間ではないのだろうか。わたしの弱さに付け込んで、堕落の世界に引きずり込もうと目論む悪魔なのだろうか。……きっとそうだ。そうに決まってる。ということは、これは悪魔が見せる悪夢なのだろうか。わたしが心を強く保ち、悪魔の仕業に負けまいとしていれば、いつか困難は終わるのだろうか。
でも、重なる肌には現実にしかありえない温かさがある。それに、この男が悪魔だったら神聖なる神の家に近づくことなどできるはずないのに、近づけないどころか一向に消滅する様子がないのは何故なのだろう。
……もう分からない。どうしてわたしがこんな目に遭っているのかも、どうして誰も助けてくれないのかも。
『ああ、お前は黒髪だったのか』
オーリアのみに触れることを許していた毛髪を細い指先に触れられた時、わたしは思わず、神ではなくオーリアに最初の助けを求めてしまった。だけど修道院にいるオーリアに小さな悲鳴が届くはずがない。まして近くにいるはずの院長さまや司祭さまに向けた声すらも、院長さまたちには届かなかったようだった。
陸に打ち上げられた魚のように口をぱくぱくと開いて痛みを吐き出し、臓腑を抉り取られるような苦痛に涙を流す。熱い滴が流れ落ちるごとに心はどんどん冷えていって、やがて微かな呻きを漏らす気力さえ失われてしまった。
わたしが抵抗をやめた途端、悪魔はわたしの両手を自由にしたけれど、もうこの状況を覆すために何かをする気にはならない。わたしにできる唯一のことは、嵐が終わるまで人形になることなのだ。
胸と腿が触れ合わんばかりに脚を押し曲げられ、その中心を再び穿たれても、一言も発せずに黙っていればいい。
「……、……」
悪魔の舌がわたしの首筋を舐り、浮き出た鎖骨の窪みに歯を立てた。まるで子供みたいとオーリアに揶揄われた貧相な身体には、次々に焼き鏝のような唇が落とされる。噛み、突き、平らな胸のあるかないかのまろみをなぞり、頂を食む舌が気持ち悪かった。
……このままでは、わたしは悪魔に食べられてしまう。穢れが肌から魂に沁みこんで、取り返しのつかないことになってしまう。
こわい。こわい。だれか、たすけて。やっぱり、ただ黙って終わりを待ってなんていられない。たすけて。オーリア。
弄ばれている肢体の深淵と本能から湧き出る祈りが、もう一度わたしの唇を開かせた。
「たす、け」
微かな吐息が澱んだ空気を震わせた瞬間、いつの間にか忍び寄っていた指に首筋を撫でられた。滑らかな掌に首を覆われゆるゆると気道を狭められると、呼吸すら満足にできなくなる。先程までの紅い霞とはまた違う深淵の闇はゆっくりとわたしの目を覆った。
「――っ」
けれども下腹部に広がった熱が恐ろしい闇を追い払い、わたしを血の色をした苦痛の世界に連れ戻して……。
……それから、死の恐怖から解き放たれるまでのことは覚えていたくない。
残された力を振り絞って疲弊した肢体を起こし、散乱した衣服を拾い集める。ぞんざいに放り投げられたために皺が寄った修道服は、わたしとまるで同じだった。同じように蹂躙され、同じように踏みにじられている。
今は背を直接くすぐる長い髪には、髪どころか、腹部や薄い胸どころか顔のみならず口内にまでも、生臭い液体が飛び散っていた。こんなはしたない、汚れた姿を聖なる方たちに晒してはいけない。痛みを堪えてできる限り素早く衣服を纏い立ち上がると、最も穢された胎内から血と白濁した穢れが流れ出、悪魔の舌が触れた内腿を伝い、わたしの汗と涙を吸った床に落ちた。
修道院に戻ったら、一刻も早く身を清めなければならない。そうしないと、神の御前で跪いて、犯した過ちに対する贖いをすることもできない。汚泥に塗れた身体のままで、偉大なる御方の前に立つなど、赦されることではないのだから。
わたしの惨状を目にしたら、お姉さま方は悲鳴を上げるだろう。何があったのと心配してくださるあまり、涙を流す方もいらっしゃるかもしれない。わたしの身を案じてくれるのはお姉さまたちだけではないはずだ。優しくて人一倍同情心に篤いオーリアは、疲れた身体をひしと抱きしめてくれて……。
脳裏にわたしを抱きとめようとするオーリアの姿が浮かんだ途端、治まっていたはずの震えが止まらなくなった。悪魔と出会うまでは何でもなかったことなのに、また誰かの肌の温度を素肌で知らされると考えるだけで、どうしようもない恐怖がこみ上げるのはなぜなのだろう。
脚が。脚だけじゃなくて全身が震えて立っていられなくなってしまったから、鬱血の跡や歯型や爪痕が刻まれた身体を抱えてしゃがみこむ。手にした頭巾の黒さえ、靴跡と血が混じる濁りによって汚されていた。
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