旧都 Ⅴ

 上質な製紙の上で筆記具を躍らせるのは労働を知らぬ繊細な、だがペンで鍛えられた男の指。年相応の年輪が刻まれた手が伸びる袖口は、紫水晶の袖口カフス釦で留められていた。水滴のごとく丸く磨かれた水晶は燈火の残照を反射し艶めく。燃え盛る炎に舐められた芯はか細い断末魔の叫びを残して燃え尽きた。

 男は執務机の椅子から立ち上がり、あらかじめ用意させていた予備の蝋燭に火を灯す。こういった些事は召使に任せてしまえば良いと主張する輩もいるし、それこそが使用人たちの仕事でもある。だが男は、書斎に家族と古くからの使用人頭以外の者に出入りされると、どうしても集中できない性質なのだ。とりわけ読書中はできる限り放っておいて欲しかった。

 今にお体を壊されてしまいます。どうかわたしどもから仕事を奪わないでくださいませ、と己が身を案じてくる使用人たちには申し訳ないことをしていると理解してはいる。だが、いい加減に諦めてほしかった。

 紅に、また朱に揺らめく光に半ば凍り付いていた手をかざせば活力が蘇る。今度こそ論文を形にしてしわねばと意気込み、いざ思索の海に飛び込まんと深く息を吸った時。

「精が出るわね、あなた」

 知の格闘に励む際、男が自室の扉を開けることを許す数少ない一人――数多の歳月と苦楽を共にした妻の上品で美しい声が耳を打った。珍かな白銀の髪を結い上げた彼女は湯気を立てる茶器、薄い塩漬け肉や野菜を挟んだ麺麭の軽食を携えている。真珠と黄玉トパーズを連ねた髪飾りは、煌めく清流めいた癖のない髪にぬくもりを与えていた。結い上げられずに残された横髪の一房がさらさらと涼やかな音を立て、華奢な肩から流れ落ちる様は、数十年連れ添っても見飽きない。

「この論文の表題タイトル“選帝制の起源について”で合っているかしら?」

「惜しいな。正解は“ 選帝制とその・・・起源について”だ」

「ああ、そうね。……こちらの文字には何年経っても慣れないわ。私たちのものとはまるで違うんですもの」

 男の経歴は、古くは私兵を率いて国内外の戦地を駆け巡っていた帯剣貴族――しかもその筆頭と目される公爵家の当主としては異質であった。

 後継であった兄の存在ゆえに、男は幼少時から武ではなく知を極める道を志し、両親もまたそれを許し援助してくれたのだ。青年時代は都の大学に籍を置き、家督を継ぐまでの短い間とはいえ外交官となってからは、派遣された国々の歴史風俗の研究に情熱を傾けていた男。その異国趣味の最たる例だとして、今なお社交界で囁かれるのは妻であった。ルオーゼの南方に位置する山岳地帯出身の、故国から追放され貧窮していた世襲貴族の娘を妻とした当時は、大変な騒ぎになったものである。王家とも縁ある名家の子息が貧民の・・・娘を娶り高貴なる血脈を穢すとは、と。 

 当時兄は既に、意にそぐわぬ王命により赴いた戦地で得た破傷風によって還らぬ者となっていたから、周囲からの反発は暴風雨さながらに凄まじいものであった。だが男は、出身地の民族衣装に身を包んだ若かりし頃の彼女に出会って以来、彼女以外の女を伴侶とするなど考えることすらできなくなったのである。

 在りし日の妻は、地上に舞い降りた雪の精と見紛うまでに麗しかった。眩いばかりの清廉な美貌は、一人息子が成人し二年前に身を固めた現在でもなお色褪せていない。

「あの子たちは元気にしているかしら? レティーユはまめに手紙をくれるけれどジリアンは全くだから、たまに心配になるのよ」

 男と妻は共和制になった後も私有地として所有することが許された領主館で暮らしている。先祖代々の館には愛着があるし、溜めに溜めこんだ資料や書籍とは別れがたいからだ。一方、息子夫婦は屋敷から既に離れ、華の都の屋敷で蜜月を謳歌していた。四年前に士官学校を卒業しその後大尉の位を得た息子は、首都を守る憲兵団の中隊を束ねる役目に就いているのだから、生活の拠点を首都に置くのが当然である。

「便りがないのが元気な証拠だと昔から言われているだろう? ジリアンは昔から用事がなければ文をしたためないし、あれもあれで多忙なのだろう。ルベリクは相変わらず離宮から抜け出そうとしていると聞くし」

「……まあ、ねえ。あの子の事情は理解しているつもりだし、“新婚夫婦の生活を邪魔するのは気が引ける”なんて同居を断ったのも私だけど、でもやっぱり週に一回の手紙ぐらいは欲しいのよ。変な鍛錬に精を出す余裕があるのなら、少しは母親に構ってくれてもいいでしょう?」

 睡蓮の花弁めいた唇がつんと尖ったのは、我が子を案じる母心の現れである。

 暇があれば本と睨み合う男とは似ても似つかぬ活動的な息子は、まだ十にも満たぬ幼児であった頃から、時間が許す限り体術の稽古に励んでいた。領地・・の森の樹をついに殴り倒したのだと、男と妻と養女を呼びに来た息子の満面の笑みは決して忘れられないだろう。妻と瓜二つの白皙の美貌の息子が、若干細目であったとはいえ白樺の幹を己が拳のみで砕き、あまつさえいつか熊に挑むと宣言したのである。

 その晩の妻は、あの子は一体何を目指しどこに向かっているのか、と息子の将来を案じるがあまり一睡もしていなかった。もちろん男とて、何物にも代えがたい宝である一人息子を進んで獣の餌にはしたくはない。ゆえに男は数年後、首都の士官学校に息子を入学させたのである。

 妹を大層可愛がっていた息子は、レティーユと離れたくないと随分と抵抗した。ごねる息子を説得・・するには少なからぬ労力を要したが、無事に卒業し軍部に職を得たのだから結果的には良かったのだろう。

「離宮はジリアンの管轄ではないが、あの子たちもあれの首が斬り落とされるまでは安心できまい。しかし処刑が終われば、ジリアンにも少しは余裕ができるさ」

「そうね。あの子も色々大変だから、仕方ないのかしらね……」  

 桜貝の爪で飾られた指先が、蔓にも似ていて繊細な茶器の取っ手を摘まむ。妻の指も取っ手も、不用意に触れればぽきりと折れてしまいそうにか細い。しかし陶器はともかく、男が愛する妻はそのような頼りない存在ではないのだ。

「そういえばあなた、七日ぐらい前に慌てふためいた飛脚からとっても大切そうな手紙を受け取っていたでしょう? あれは何だったの?」 

 ――まさか、また政変が起こったなんてことはないわよね?

 現に、冗談めかして口元を綻ばせる女の、ルオーゼでは稀な薄紫の瞳には知性の輝きが宿っている。王制廃止を推進し、現在の国政を担う議会に名を連ねる男の屋敷に届くのは、息子からの手紙よりも議会からの報告書の方が多い。

「あれの娘が死刑執行人と結婚したらしい」

 聡明な妻であるから「あれ」が指す人物についての詳細な説明など不要であろう。その娘についても同様である。

「そもそもあの娘の斬首については、議会でも意見が分かれていたからな。ルトの市長などは、万が一にでもあれが返り咲いた場合、責任を追及されて処罰されてはと以前から及び腰でもあったようだし。そこにルトの死刑執行人が現れて――まあ、体のいい厄介払いということだ」

 哀れな娘の死骸ではなく、ルトの市長からの結婚報告書を受け取った議会の面々は、さぞかし驚愕したことだろう。もしかしたら泡を吹いて倒れた者もいるかもしれない。しかし首都の議場でどれ程の騒ぎが起きようとも、旧都の娘がその騒動を知るよしはないのだ。

 権力に任せて娘を死刑執行人から奪い、首都に移送して今度こそ処刑を遂行させることもできた。それこそ、ルトの死刑執行人の従兄にあたる男にでも。しかし、か細い首から吹き出した雫が都の石畳を紅に染め上げるに至らなかったのは、刑吏に対する謂れのない蔑視故に他ならない。

 ――黄金の杯に蓄えられた葡萄酒とて、汚泥が混じれば泥水と同じ。これでもうあの娘は、社会的には死んだも同然。あの娘がいずれ息子を生み落としたとして、死神に膝を折る者などいやしない。

 ――しかしもしもあの娘が他の男の胤を身籠っては大事ですから、その死刑執行人には精力剤でもくれてやってはいかがです? 

 ――聖杯が常に泥水で満たされていれば、葡萄酒を注いだところで溢れ出るのみ、ということですな。

 議場で飛び交ったとは信じがたい低俗かつ愚劣な発言ゆえに、儚く散る定めを強いられていた命は救われたのである。ルオーゼの旧貴族階級どころか他国の王侯にすら流れる血統を根絶やしにするなど不可能であるから、線引き・・・のためにもあの娘は生かされたのだろう。彼女をも連座させるとすれば、首都の死刑執行人の刃を濡らす露とならねばならやもしれぬ者は議会にも幾人かいる。他ならぬ男もその一人であった。

 どちらにせよあの娘の身元を証明するのは、文書庫の最奥の鍵を掛けた棚に保管されている証明書のみ。言い換えれば、その三枚を焼き払ってしまえば、六百年の長きに渡り連綿と受け継がれてきた血脈は途絶えたも同然なのだ。

「そもそも、あの人の前にまず娘さんを処刑しよう、なんてむごすぎたのよ。あの人はともかく、娘さんは何も知らない、ただの無力な女の子なのに」

 銀細工めいた長い睫毛に囲まれた神秘の貴石が見つめるのは、彼女がその目に映すことは無かった、遠い日の無情な情景なのかもしれなかった。ルオーゼに先んじて君主制が崩壊したのはともかく、程なくして旧支配階級の弾圧と処刑が始まった南方の共和国。魔の手から逃れるべく故国を捨てた妻の親類には、間に合わなかった・・・・・・・・者も大勢いる。その中には、帝政崩壊当時は十を二つか三つ越えたばかりだったという少女もいるのだから、妻は喪った従妹の影を重ねるがゆえに、より一層あの娘の行く末を憂いていたのかもしれない。もっとも、彼女が悼んでいるのは全く別の人物であるかもしれないが。

「……幸せになってくれればいいわね」

 祈りにも通ずる真摯な囁きに、男は細い手を握りしめずにはいられなかった。生命への冒涜としか評しようのない悪癖の毒牙に掛かり、奇跡的に生還したものの、悪夢が終わってもなお苦しみ続けたという哀れな修道女。おぞましい一日が齎した者を受け入れきれなかった彼女への贖罪になど、なりはしないのに。

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