旧都 Ⅳ
執拗に口内に残る風味はさながら泥。地獄の瘴気をも連想させるえぐみに苛まれた舌は、しばらくはひりついたままだろう。何らかの方法で漆黒の焔――ではなく液体に痛めつけられた舌を癒さない限りは。
朝露に濡れた若葉の瞳は、二つの茶器に隠れた壺を見出し輝く。ミリーの嫁入り道具の一つであるという、薔薇の蕾を模した持ち手が可愛らしい薄紅の陶器。その中に蓄えられているのは、無論花の蜜であった。正確には、花の蜜を蜜蜂が集めたものなのだが。
樫の木製の
荒地に染み渡る金色の雨は何にも代えがたい恵みであった。長く雨に恵まれなかった土地に滋雨を齎し、季節外れの雹によって死の縁に追い込まれた収穫間際の
「君、本当に苦い物が苦手なんだな。たかだか珈琲の一口や二口でそんなに慌てるなんて」
ふっくらとした頬を緩ませ、元来垂れ下がった目元をさらに垂れ下げた少女を見下ろす青年の目尻には、笑いの発作の名残があった。
大まかには父親に似たのだというフィネのやや細い双眸は、すっきりと切れ上がっていて。成る程ミリーのはっきりとした目とは、受ける印象がまるで異なっていた。ミリーを獲物を追って草原を駆ける虎とすれば、フィネは気配を殺して手負いの兎の絶命を待つ鷲と評したくなる。剣を連想させるが鋭いのとも違う、あえて例えるならば血塗れの――
緩やかに伏せた薄い目蓋の奥で広がる情景は、幻であるはずなのに奇妙に鮮明であった。目の前の夫の気まぐれによって救われなければ自身が辿るはずだった末路はあまりに生々しい。
「あ、あんまりにも熱くて、舌を火傷しそうになったから、驚いただけだ」
華奢な背に奔った悪寒を誤魔化すべく声を張り上げると、青年はなお一層愉しげに口元を吊り上げた。
「熱かった、ねえ。君のの直ぐ後に入れた俺の分は、息を吹きかけなくとも普通に飲めるぐらいに冷めていたけど」
どうやら空になったセレーヌの茶器に二杯目を注いでくれたのはフィネだったらしい。ありがたくはあるが、それならそうときちんと教えてくれればよかったのに。
「……う、うるさい! ――そうだ。お前、自分の分の珈琲にはなにか入れたんだろう!?」
羞恥に震える細い指は、食卓に膝を置く青年の傍らにひっそりと佇む硝子瓶を指し示した。生前の父親も愛飲していたという蒸留酒の、燻されたかのような香気をフィネもまた気に入っているらしく、夕食の後に一杯空けるのは彼の日課でもある。香りづけに、と黒褐色の液面に琥珀色の雫を垂らすことも幾度かあったのだから、今回もそうしていてもおかしくはない。
「水と湯を混ぜた時みたいに、酒と珈琲を混ぜたら酒が冷たい分珈琲はぬるくなる。そうだろ!?」
餌を取り上げられた仔猫のごとくいきり立つ少女に青年が向ける目には、幽かながら穏やかな光が灯っていた。
「俺はそんなことしてないし、仮にそうしたところで風味づけの一滴、二滴ぐらいで温度が変わるはずはないだろう?」
吊り上げられたままの口元は、愉快でならないと雄弁に物語っている。
「……だったら沢山混ぜれば」
「そんなことしたら匂いで分からない訳ないだろ?」
ほら、と含み笑いと共に差し出された器からは、それらしい匂いはしない。
「少し呑んでみればはっきりするよ」
成る程もっともだと白磁の縁に小さな唇を付けた少女は、はたと動きを止めた。蜂蜜も牛乳も加えられていない珈琲を、果たして自分はもう一度飲み干せるだろうか。
「どうした? やらないのかい?」
本音を言えば自信はまったくないが、ここで引き下がるとフィネに負けたようで嫌だった。意を決し、薄桃の舌でちろと舐めた液体は味も香りも濃縮した泥沼そのものであった。
「……」
敗北を自覚すると、あらぬ難癖を付けていた先程までの自分の振る舞いが急に恥ずかしくなった。こみ上げる羞恥心は乳と甘味でまろやかにした液体と共には嚥下しきれず、搾りたての乳さながらに肌理細やかな肌には、木苺の汁が混じった。
「君はまだ子供なんだから、珈琲が飲めないだけでそんなに悔しがる必要はないと思うけどね」
余裕たっぷりにセレーヌの物よりも一回り大きな茶器を口元に運ぶ青年は、どうしたら先程までのセレーヌの醜態を忘れてくれるのだろう。
「……お前こそ、どうしてなんだ?」
少女はみっともなく赤らんでいることは間違いないしの面を、濃紺の眼差しから隠すべく俯く。彼女が面を伏せたまま持ちだしたのは、この家に迎えられて以来ずっと抱え続けてきた疑問であった。
「お前はどうしてわたしなんかを妻にしたんだ? わたしはお前のおかげで死なずに済んだけど、お前はわたしと結婚しても得することなんか何一つなかったはずだ。そうだろ?」
すると青年の双眸に嵌めこまれた夜空からは、唐突に月が隠れた。貝のごとく閉ざされた唇の代わりに彼の心情を代弁しているのは、茶器の持ち手を撫でる長い指なのだろう。だがフィネの内面は夜闇の最中から忍び寄る梟そのもので、察するのは容易ではない。
陶器の縁で這い回る指先は清潔で、幾度となく血潮に浸されたのだとは信じられなかった。すらと伸びているが骨ばった指の腹が弄ぶ口は、先ほどセレーヌが唇を付けた所である。その事実に気づいた途端、何故だか小さな胸の奥がざわついて、フィネの手をこれ以上直視していられなくなった。セレーヌは恥じ入るべきことなど何もしていないのに。
憤っているでも、また驚愕しているのでもないだろうに黙する青年が、見ない方がいいとセレーヌに諭した小屋の中。既に犯罪者用のうらぶれた墓地に運び込まれた亡骸とはまた異なる、見てはいけないものがこの世にはある。
ひたひたと忍び寄る息苦しさは細い喉元を締め付け、あの日首筋に添えられた指の冷たさを思い起こさずにはいられなかった。硬い皮膚に覆われた手が、両手足の指の数を超える人間を屠ったのだということも。
「くだらない――と言いきってしまったら君に失礼かもしれないけれど、本当にどうってことない、個人的な感情の問題だ」
永遠にも感じた沈黙の果てに、ぽつりぽつりと紡がれた響きは密やかに流れる涙に、あるいは鞭に裂かれた柔肌のあわいから滴る紅の雫に似ていた。乾ききった口腔を潤す唾液の仄かな甘味に、不快な鉄錆の味が混じる。頬を叩かれ、口内から出血した訳ではないのに。
――どうして消えないの? どうして、どうして……。
目の前の男はあの女ではない。両者ともに青い瞳を備えてはいるが、青い虹彩はルオーゼ人には有り触れているし、その色合いの深さは対照的だ。長くも短くもない鳶色の――頭髪と同じ、酸化し黒ずんだ血潮のごとき褐色の睫毛は、薄い頬に濃い影を落としていたそれとはまるで異なる。けれどもセレーヌはもう耐えられそうになかった。
「……そんなに喋りたくないなら、別に、」
もう、いい。
縮こまった喉から漏れ出たものは声というよりも掠れた悲鳴に近く、終わりは小虫の羽ばたき同然だった。鮮血と苦痛が滴る想いを他者に伝えるには足りない。
緩やかに目を伏せた青年は、少女の異変に気づかぬまま、一度は閉ざした唇を開く。
「あと、母さんが“そろそろ結婚しろ”って煩かったからね」
「ふうん」
「母さんはあれで人の好き嫌いが激しい。だけど君のことは気に入っているみたいだから、結婚して良かったとは思っているよ」
「そ、そうなのか」
明るみに出された答えは予想外に平凡であったが、緊張に強張っていた四肢からは未だ力が抜けない。
「セレーヌ。もしかしたら君は、俺たちの一員となることがどういうことなのかまだ良く分かっていないのかもしれないけれど、世間的にはとんでもないことなんだ」
齢に似合わぬ苦労を重ねたのだと察せられる応えには悔恨の棘が生えていた。柔らかだが鋭利な、
「大昔のことだけれど、ごく一般的な環境で育ったお嬢さんでさえ、求婚を断って火炙りを選んだぐらいだ。なのに修道院育ちの君が俺と結婚したのはよっぽどの理由があるんじゃないか?」
フィネの発言は美しい織物で覆い隠しも誤魔化しもされていない、醜悪な現実の一端であった。今日も二人で歩いていた際に、死神は家にすっこんでいろなどと、無礼極まりない暴言を吐きかける輩と幾度かすれ違ったのである。しかしフィネはどこまでも聞くに堪えぬ侮辱に拳を握りしめるセレーヌとは対照的であった。
『あんなことに一々反応していたら買い物が終わらない』
淡く微笑んでセレーヌを諌めた青年の心は、罪人の首を斬り落とす剣を振るうために鍛えられた掌よりも硬く強張ってしまったのだろうか。
「……その女、馬鹿なんだな」
返されたのは肯定とも否定ともとれる、曖昧な微笑であった。
「そんなことより、君は俺の質問に答えてくれないのかい?」
フィネは胸の裡を打ち明けたのに、セレーヌは秘密を抱えたままでは、確かに公平ではない。
「……どうしても会いたい女がいるんだ」
少女が呼吸を整え搾り出した囁きに、青年は幽かに目を瞠る。跳ね上げられた眉は舌の代わりに続きを促していた。
「わたしは、そいつに会うまでは死ねない。絶対に、絶対に死ねないんだ。だから、」
再び蘇った女の硝子玉の如く澄んだ瞳を、セレーヌは嫌い抜いたものだった。がらんどうのくせに否定の念だけは容赦なくぶつけてきた目に心身を射抜かれる痛みは、幼かったセレーヌが常に直面していた危機に他ならない。荒れ狂う感情の波は堤防を決壊させ、奥底に大切に仕舞い込んでいた幻影を引きずり出した。
――汚らわしい。近寄らないで。
あの女に投げつけられた小さな鋏は十にも満たなかった少女の手の甲を掠めて皮膚を裂き、浅い亀裂を刻んだ。あの傷口は大した深さではなかったのに、いつまでも血が滴っていたと思う。ぽたぽたと、まるで涙のように。
自分に様々な、しかも理由のない暴力を振るった女の顔なんて、できればもう一生見たくない。セレーヌは彼女が修道院からいなくなったと分かった日など、前院長の目を盗んでこっそり諸手を上げて喜んだものだ。しかし解放の喜びは束の間の泡沫だとすぐに判明した。理由は定かではないし、誰も教えてくれなかったが、マリエットと同時に母の息遣いもセレーヌの周りから消え失せてしまったのだ。
『……そうね。あなたがいい子にして待っていれば、マリエットはいつか戻って来てくれるかもしれないわね』
一年前に安らかに息を引き取った老女は、愚図る幼子を優しい言葉で慰めてくれたが、もう待てない。これからは自分の意志と力で彼女を探し、幼少時からの飢えと乾きを満たすのだ。
「“そいつ”ね。君は一体誰を求めているんだい? 名前ぐらいは教えてくれてもいいだろう?」
「修道女マリエット」
少女は最も憎む女の名を吐き捨てる。
「セレーヌ。君はマリエットという女性の居場所が知りたいんだね?」
「そうだ」
「だったら、もしかして、その“マリエット”さんは君のお母さんなのか?」
この世の誰よりも愛し慕う母が侮辱されれば、黙ってなどいられない。母は清楚で儚げな、微風にも耐えない風情の女性だった。セレーヌに読み聞かせるために聖典の貢を捲った母の指が、我が子の頬を打擲するなどあってはならない。
「――わたしのおかあさんがあんな女なはずはない!」
青年は少女の語調の荒々しさに驚く素振りを見せたが、面に落ちた驚愕の影は一瞬で引いた。
「俺は、君の事情をあれこれ追求はしない。誰だって、触れられたくない話題の一つや二つはあるものだからね」
「……」
「だけど、君の手伝いをすることはできる。もしも君が望むなら、首都に――俺の従兄に会いに行こう。出発はあいつに手紙を出して、返事が返ってきてからでもいいだろう?」
提案は思い付きにしては滑らかに流れる。少女は突然の提案の勢いに呑まれ、しばらくはぽかんと口を開けたままだった。
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