旧都 Ⅲ

 紐解いた包みから取り出した衣装を、姿見の前で華奢な肢体に押し当てる。すると小さな胸どころか身体全体が、天にも舞い上がらんばかりに踊り出した。

 牛乳と木苺の汁を混ぜ込んだかのような桃色に、地平線近くの薄青。セレーヌの虹彩より幾分か薄い緑に、熟れた杏の橙。白に近い金の髪に滑らかな乳白の肌のセレーヌには、明るくて柔らかな色が良く似合う。と仕立屋に勧められるままに買い求めた衣服の山の中には、麗らかな色彩とは趣を異にする一着が紛れていた。

 淡い灰色の天鵞絨ビロードは織り目細かく艶やかで、光の加減によっては銀色にも輝く。セレーヌはまだ十三歳とはいえ、フィネの妻になった。だから人妻らしい品格のある服もあった方がいいだろうと手に取った衣装であるが、買ってみて正解だった。

 袖口と裾に取り付けられた漆黒の縁飾フリルは感嘆の吐息が漏れるほど艶やかで。薄墨の衣服のそこかしこに施された黒糸の刺繍の、装飾文様めいた精緻さを引き立てている。襟元に取り付けられた縁飾と同じ生地の幅広の飾紐リボンは、セレーヌの平らな胸にも幾分かの華やぎを添えてくれそうだった。

『それは君には必要ないんじゃないか?』

 セレーヌと同年代の少女用らしき、膨らみかけた乳房を支える鋼が入った補正下着コルセット。修道院にいた頃は想像すらできなかった品に心惹かれ指を伸ばせば、傍らの青年に曖昧な微笑を向けられた胸は、確かにいささかも膨らんでいない。いうなれば平原。大平原である。だが、そのうち成長し出すかもしれないのだから、あんなに即座にセレーヌの関心を退けなくとも良かったのでないだろうか。

 そういえば、必要があればセレーヌの問いかけにもにこやかに答えてくれた服屋の女主人の目は、フィネの発言の直後は氷柱よりも凍てついていた。彼女の、致し方なしに補正下着を元の場所に戻したセレーヌに向ける眼差しは、変わらずに優しかったのに。

 市長の屋敷を訪れた際とは異なり、フィネはごく普通の恰好をして、死刑執行人であるという身の上を隠していた。なのにどうして、腐敗し悪臭を放つ肉に注ぐにも匹敵する、凄まじい目で睨まれていたのだろう。さして重要ではない疑問ではあるが、謎が解けないとどうにも気分が塞いでしまうから、後でミリーに訊ねてみるといいかもしれない。……などと、知らず知らずとはいえ夫を窮地に追い込む少女の耳は、控えめに扉を叩く音を捉えた。

「……どうした? 何か用があるのか?」

 一人で衣服をとっかえひっかえして悦に浸っていたと知られると、全身の血が沸騰しそうになるので、扉を開けるのはほんの少しだけ。

「母さんが菓子を焼いたから、珈琲と一緒にどうかと思って呼びに来たんだけど、邪魔だった、」

「――いる! 食べる!」

 少女はその僅かな隙間から瞬く間に身を乗り出し、これなら部屋の中を見られずに済んだだろうと安堵の溜息を吐く。しかし彼女の小さな頭の上には、造花の飾りが可愛らしい頭飾りが鎮座していたのだった。


 甘やかな金色を湛えた陶器から、甘い中身を一掬い。とろりと流れる雫は匙から白磁の器に垂らされ、黒い漣に呑みこまれる。

 珈琲は遙かなる大陸西部南方の乾いた大地で育まれ、彼の地を植民地として支配する砂漠の帝国を経て北方に齎される。この飲料は、伝来した当初は専ら王侯貴族の、更に限定すれば男だけに赦される嗜好品であったらしい。

 女が珈琲を飲むと子供が産めなくなる。あるいは、肌が黒い子供が産まれる。等々現代の考え方からすれば馬鹿げた噂が囁かれていたためなのだが、さる偏屈だが理性的な貴族がこの迷信を一笑に付したのだ。

 もはや亡き彼はこう言った。砂漠の帝国の後宮では珈琲が淹れられぬ日はない、が女奴隷たちは皇帝の子を産むし、その中には白い肌の赤子もいると。

 かくしてこのほろ苦くたも香ばしい芳香をまれた漂わせる飲料は、まず上流の夫人たちにも広まった。そして、ひたひたに水を注がれた器から中身が溢れるように、下の階級へと伝播したのである。

「今日は人が沢山いたな。聖人祭の時期なのかと思ったぞ」

「ここは旧都だからね。首都には負けるけれど、そこらの街は足元にも及ばないさ」

 蜜が溶け残らぬように黒い液体をかき混ぜ、更にその上に牛乳を注がねばとても口を付けれないセレーヌとは対照的に、フィネは砂糖の一匙も加えていない一杯を好む。

 甘味とまろやかさの力を借りなければただの苦味の集合体でしかない液体を、フィネが一切手を加えずに飲み干すのは、何度目撃しても不思議な光景だった。

 室内であっても首筋を剥きだしにするのは寒いのだろう。男にしては長い髪はそのままに、飾り気に乏しいが仕立ては良い衣服を纏うフィネは、ごく普通の青年であった。襯衣シャツに怪しい赤褐色の斑点が散ってさえいなければ、死刑執行人であるなど説明されなければ分からないだろう。もっとも、セレーヌはフィネの仕事場・・・に出向いたことはないので、処刑場での彼の様子など想像もできなかった。まして死刑執行人とはどのよな役割を担い、あるいは押し付けられるのかすらも。

 例えば、今セレーヌの目の前にはミリー手製の焼き菓子が並んでいる。編み籠に盛られた一枚一枚は、ただの一瞥だけでも義母が拵えたのだと判別できるぐらいには分かりやすかった。真夜中の森のようなフィネや、その森で音もなく羽ばたく梟を連想させる死刑執行人という定めとは大違いだ。

 艶出しのために卵黄を塗り、飾りつけに薄切りの巴旦杏アーモンドが乗せられただけの、親しみやすい風貌の甘味は、齧れば濃厚な発酵牛酪バターの風味が口いっぱいに広がる。さくり、ほろりと砂のごとく崩れる菓子は、しかし砂とはかけ離れていて美味だった。

「君は本当に美味そうに食べるんだね」

「そういうお前は? もう要らないのか?」

 本音を言ってしまえば、もっと食べたい。できるのなら独り占めしてしまいたいのだが、少女は己が欲望を封じ込め、とりわけ丸く大きな五枚を向かい合って食卓に坐す青年に差し出した。

 今日は散々フィネを振り回してしまったのだが、照れくさすぎてごく自然に礼を述べるなど、羞恥心に遮られて到底できそうにない。だからこそ言葉ではなく行動で。大層まどろっこしく、そも伝わるとも限らないとは承知しているが、感謝しているのだとフィネに伝えたかったのだが、

「いや、いいよ。俺は、甘い物にはそれほど興味はないから」

 青年は細やかな想いをあっけなく退けた。行き場を失くした菓子を掴む少女はむっつりと黙し、恐るべき速度で焼き菓子の繊細な触感を堪能する。要らないのだと明言されたのだから、一人で平らげても問題はあるまい。後でやっぱり分けてくれと乞われても知るものか。

「君、身体はとても細いのに、よく食べるね。口に入った物がどこに消えていくのか不思議なくらいだ」

 青年は頬袋一杯に団栗を詰め込んだ栗鼠の面相になった少女に苦笑を漏らす。

「わたしは育ち盛りの食べ盛りだからな」

「そうだね。でも、君と同じ籠から菓子を摘まんだ――君が口に入れた菓子に触れたかもしれない俺の指が、死体の腹を割いて臓物を取りだした指だってことは、いくら子供でも分かってるだろ?」

 引き締まった口角は穏やかに緩められたままなのに、研ぎ澄まされた刃じみていて鋭い双眸と視線がかち合うと、何故だか背筋がぶるりと震えた。暗がりでは黒に近づくほどに深い紺の瞳は、セレーヌではなく食堂の壁の更にその先の、庭に設けられた小屋を見つめているのだろう。

 死刑執行人は一般の労働者と比すれば遙かに高額な賃金を受け取っているものの、罪人を屠っていればそれで生きていられるほど甘い職業でもない。時に拷問吏としての役割も委ねられる死刑執行人であるが、もしも手元が狂って、口を割らせる前に被疑者を絶命させてしまえば。それ即ち失職の憂き目に遭い、家族を路頭に迷わせることを意味する。ゆえに、彼らは引き取り手がない死体を解剖し、人体についての――人間をより長く苦しめるための知識の習得に励んできたのだ。

 自分がベルナリヨン家に嫁いだあの日にも、小屋には夫となった青年が腹を開いた亡骸が安置されていたのだとも、セレーヌは既に説明されていた。死刑執行人の、もう一つの重大な責務についてと共に。

 腐敗が始まったために罪人専用の墓地に葬られたという死体の運搬に、セレーヌが立ち会うことはなかった。それが気が利くとは評しがたい青年なりの思いやりであるのだとは、教えられずとも察せられる。なのになぜ、フィネは既に終わったことを蒸し返すのだろう。

「そういえば、そうだったな……。でも、手はちゃんと洗ったんだろ?」

 やっぱりこいつが考えてることは分からない。

 少女が躊躇いながらも応えを紡いだ途端、青年の口角は非対称に吊り上がった。嘲るようであり、哀れむような笑み。どこか残忍ですらある喜色は、血塗れの親の亡骸の近くで呆然と佇む仔鹿目がけて銃弾を放つ猟師。もしくは深い森に彷徨い込んだ幼児に遭遇した人買いのそれでもある。しかし口元を抑え、逞しい肩を抑える青年はやがて堪えきれずに破顔し、ついに食卓に突っ伏した。

「な、何なんだ!? わたしはそんなに笑われなきゃいけないようなことは言ってないぞ!」

「何だも何も……。君、本当に気づいてなかったのかい?」

 長く節くれだった指に示され自分の頭を触ってみてようやく、頭飾りを外していなかったのだと気づいた。この分だときっと、セレーヌが一人で着せ替えごっこに興じていたことも、見抜かれているのだろう。

「君がそんなのを被って……頭に花を咲かせてるのに真面目腐った顔をするから……」

 つまり、フィネは自分を密かに道化にして愉しんでいたのだ。薄々感づいてはいたが、このフィネという青年は随分といい・・性格をしている。もちろん、文字通りではない意味で。

 似合っているからそのままでもいいんじゃないか、との雑な慰めなど聴かぬ振りをして、出来る限り素早く頭から造花を外す。燃える頬を夜の眼から隠すためにも、よく確かめもせずに手近な器を引き寄せた少女は、数瞬の後に裂けんばかりに眦を開いた。二杯目の珈琲に、蜂蜜と牛乳を入れ忘れていたのである。

「に、にがい!」

 一度口に入れた物体を吐き出すなど行儀に反するし、不作法極まりない。根性で舌を刺す苦味を全てを飲みこんだが、舌先に残るえぐみはしばらくは消えないだろう。

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