旧都 Ⅱ

 冷え切った舌を湯気を放つ好物で温める。これほどの贅沢はそうそうあるものではない。

 少女は満足の笑みを浮かべ丸く艶やかな実を眺める。一方、幼い妻の気まぐれと探求心に翻弄された青年の視線は、山と積まれた荷物に注がれていた。

「母さんもそうだけど、女の人の買い物は、本当に……」

 俯く青年の顔には疲労の濃い影がある。彼が気力を使いきってしまったのは、傍目にも明らかであった。

「……わ、悪かったな」

「いや、いいよ。長引くだろうと覚悟してはいたからね」

 流石にこれ以上フィネに荷物を持たせる訳にはいかなかったから、焼き栗がはちきれんばかりに詰められた袋はセレーヌが抱えてきた。直に触れれば火傷しかねないほど温かな栗を抱きしめたためなのか。急速に勢いが増した木枯らしが梢を揺らす公園の、冷え切った長椅子に座っていても、不思議と寒さは感じない。むしろ暑いぐらいだった。

 身体を冷やすといけないから、と帰宅を促す夫を押し切ってまで、少女がこの公園にわざわざ足を運んだのは理由がある。

 一見だけでは判別しがたいが、葉を全て落とした尖った枝に紛れるのは、古代王国時代や第一王朝の王たちの宮殿に付随する塔。ルトが王城から発展した城塞都市であるからこその風景である。市のほぼ中央に位置するこの公園は、元々は王城に付随する庭園であったのだ。

『いつかあなたも見物に行けたらいいわね。本当に立派なお城だから』 

 前院長のしんみりとした一言こそが、セレーヌが修道院の外にも世界は広がっているのだと気づく切っ掛けだった。亡き女性は俗世から離れる前、それなりに名のある貴族に嫁していたらしく、セレーヌに俗界での様々な経験を語ってくれたのである。

 おおらかかつ博識であり、様々な人生の荒波を乗り越えた彼女の話は、何度耳を傾けても飽きなかった。口うるさい今の院長や信心深い母は俗世の垢を嫌っていたので、あまり大っぴらにはできない話題ではあったけれども。

 焼き菓子の香ばしい匂いと薬草の清しい香気に、古びた本が発する黴と埃の臭いを少々。慕わしい人が世を去って一年の月日を経てもなお忘れがたい独特な香りは、セレーヌの輝かしい思い出にも立ち込めている。

『もしも何かが違ったらあなたは……』

 深い皺に埋もれた穏やかな目を潤ませ、まだ幼かった自分を抱きしめた老女が望んだから。それこそが、セレーヌが自宅・・と決して近くはない王宮の一部に――七百年前は、粒ぞろいの宝玉が納められた宝物庫さながらであったという庭に赴いた真の理由である。

 院長さまは、こうしてここにきたわたしの姿を見て、喜んでくれているだろうか。

 物思いに耽りながらでは、切れ目に指先を食い込ませんとしても、艶やかで硬い皮はつるつると滑る。どころか少女の小さな掌からすり抜けさえした実は、長い脚を投げ出し全身で疲労を訴える青年の腿の上に転がりさえしたのだ。

「君の手は皮膚が薄くて柔らかいから、皮が上手く剥けないんだろう?」

 セレーヌが返事をするよりも先に、その名の焦げ茶の表面は剥ぎ落され、淡い黄色の中身が姿を現した。ほら、とさも当たり前のように淡い薔薇色の唇に栗を押し当てる青年に、多少の戸惑いも抱かなかったと言えば嘘になる。これはフィネが剥いたのだから、彼が食べるべきではないか、と。

「要らないなら俺が食べるけど、」

 だが、淡白でありながら濃厚な滋味を連想させる匂いを放つ物体を、ひょいと奪われてはたまらない。けれどもセレーヌの口内に収まるはずだった実は、既にフィネの舌の上に乗せられてしまっていた。

「わたしの栗が……」

 半ば反射的に伸ばした手は虚しく宙を切るばかり。

「他にも沢山あるんだから、そんなにしょげることないだろ?」

「でも、あの栗は他のより大きかった!」

 初めて毛を逆立てた仔猫のごとくいきり立つ少女であるが、生来目尻が垂れた双眸では、つり上げたところでさしたる迫力は生じなかった。事実、セレーヌの怒りの的である青年は忍び笑いを漏らし、

「袋の下の方にはあれよりも大きいのがきっとあるさ。見つけたら君に譲るから」

 ふわふわと柔らかな絹糸の髪をそっと撫でる。毛髪越しに感じる掌は硬く暑い皮膚に覆われていて、これならあの炭火のような栗を触っても平気でいられるはずだ、と納得できた。

「もうそろそろ、君でも素手で触っても大丈夫だろう」

 促されるままに適当な一粒を手に取る。待ちに待った実は噛みしめずともほろりと崩れ、空の胃まで流れてゆく。口どころか身体中にじわりと広がるぬくもりと深い味わいを二度三度と求めていると、揶揄いめいた忠告が頭上から降って来た。

「あんまり急ぎ過ぎて喉に詰まらせないでくれよ」

「――分かってる。わたしは子供じゃない」

「それならいいけど、ここで喉を詰まらせても周囲に水はないからな。もしかしたら、」

 死因が焼き栗なんて、面白いことになるかもしれない。やや薄い唇の右端のみを吊り上げた青年は、成る程セレーヌよりかは一粒一粒を丹念に味わっていた。

 空腹であるとはいえ、あまりがっついていると思われるのは恥ずかしい。まだ仄かに温かな袋の中に指を射し込むのはもう止めるべきだろう。それに、胃に食物を詰め込み過ぎて昼食が入らなくなったら、家でセレーヌとフィネの帰りを待つミリーを悲しませてしまう。

「……残りは、やる」

 あらかたを平らげ、一つ二つの丸い実が侘しく底に転がるのみとなった袋を傍らの青年に押し付けた少女は、若葉の瞳を木立の向こうに再び向けた。

 遙か昔の君主たちの住居は、一旦は主の血脈の――正確には、王位継承を認められる男系の子孫の断絶と運命を共にしていた。守護者にして支配者を失った宮殿は破壊と略奪の憂き目に遭い、崩壊寸前まで放置されていたのだ。故に、その後再建され改築されたとはいえ、古代の詩人が競ってその美しさを謳いあげた、と伝えられる往時の繁栄は既に失われて久しい。

 過去の栄華の名残を求めるには、第一王朝の崩壊に次ぐ、空席となった玉座を巡る諸侯の争いの中を生き延びた書物や伝承を紐解くに他にない。けれども旧都の民は皆、古代から連綿と続く歴史の証人である城を、誇りと敬意をもって仰ぐのだ。数多の苦杯を舐めさせられた古城には、ここ数百年に建造された城など及びもつかない風格がある。

 滅び去った王朝の遺産たる宮殿は、修道院にいた頃に前院長の話を基に積み上げた夢の城とは似ても似つかなかったが、美しい建物であった。けれどもこの城は、やはり墓標なのだ。暗黒時代とも称される内乱のために、墓所すらも定かではなくなったいにしえの王たちの。そして、この宮の最後の主の。

 現在ルオーゼの玉座を温める者がいないのは血筋の断絶のためではなかった。既に妻ともども斬首され、共和国に捧げる贄とされた国王が、赦しがたい失策を犯したためなのである。

 最後の王は領土拡張を目論み、ルオーゼからは山脈により隔てられている南方の地に大軍を送った。戦火が絶えることのない彼の地ならば、楽に攻め落とせるだろう、と。宰相でもあった王宮付き司祭に押し切られての、軍部や民草の非難を無視しての愚行であった。

 結果的に当時の国家予算の三年分に値する戦費と、二万の兵を失う大敗を喫した国王は、夫や息子を返せと嘆く国民の喘ぎに耳を傾けなかった。それだけでなく、王は国費の損失を賄うための課税に奔る宰相を抑えようともせず、自らは妃と共に豪奢と怠惰に耽溺し続けたのである。

 やがて民衆は、人心を顧みぬ王に財産はともかく命まで搾り取られては、と蜂起した。暗愚にはこれ以上膝を折れぬ、と一部の貴族階級も平民に続いた。現在の共和制は、身分の差を越えて人々が結託し、共に勝ち取った未来なのである。

 代々の領主のために築かれた宮殿は、最期の主が断罪の刻を待つばかりの捕囚となってもなお、損なわれることなくそびえ立っている。

 前院長が子守歌替わりに語ってくれた、ルトが戴く至宝。セレーヌはその美しさを己が目で確かめたく、渋るフィネに懇願してここまで足を運んだ。けれども人影を喪った館は寒々しい壮麗さを誇示するのみで。宮殿とはあるべき人肌のぬくもりに温められてこそ、真に民に親しまれる存在になるのだろうか。そういえばこの城は、僅かながら雰囲気があの女に、マリエットに似ている。

 冷気を孕んだ一陣の風は過去の冷たさを運んできた。空気も凍る真冬に長く癖のない髪から水滴を垂らし、普段は淡い紅色をしているはずの薄い唇が蒼く染まってもなお、冷水で我が身を苛んでいた女の光景を。


「もっと清めないと。もっと、もっと……」

 彼女は頼りない首筋を、唇同様に薄紅に色づいた胸の頂を――幼児の小さな片手にさえ収まる、あるかなきかの乳房を執拗に擦っていた。セレーヌが見る限りでは彼女の肌は染み一つない、処女雪そのものであったのに。念入りにすすがれた下腹と細い腿は一切の血の気を喪失し、氷雪よりも冷え切っているのだろうと怖気づかせるほどに蒼ざめていた。雫をぽたぽたと滴らせる毛髪が張り付いているのだから、なお一層。

「ねえ、ねえ……」

 幼き日のセレーヌは目の前で繰り広げられる、ただ見るだけでも身を切られそうな苦行に耐えかねた。

「もうやめてよ、」

 沐浴室の扉の隙間を押し広げる。凍てついた一糸纏わぬ裸体にしがみつき、更なる冷気を求める腕を妨げる。しかし幼子の努力は実を結ばず、懸命な制止も虚しく腕を振りほどかれた。そしてよろめく少女は針のごとく肌を刺す冷水に突き落とされ、有りもしない穢れを拭おうともがく女の狂態を眺めたのだった。魂の奥底で凍えながら、求めても与えられなかったぬくもりに焦がれて。


 春の気配を纏った風はあの日の寒気には遠く及ばないが、骨身を、精神までを凍えさせる。 

「栗も全部食べ終わったし、そろそろ家に戻ろうか」

 大荷物を家まで運ぶために必要な根気を養った青年は、らしくなく唇を引き結ぶ少女の肩に手を叩く。瞬く間に過去から現在へと戻された少女はけぶる睫毛を揺らめかせ、ちらと宮殿を一瞥して立ち上がった。

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