旧都 Ⅰ

 冬であるのに麗らかで澄みきった青空の下。陽光を透かす白金の髪は、少女が歩を進めるたびにふわりとたなびいた。まろい頬を撫でる一陣は春の訪れを予感させたが、しかし未だ冷え冷えとしてもいる。

 規模こそ首都には劣るものの、約六百年前に遷都されるまでは王都・・であったという歴史を誇るルト。国内第二の都市の賑わいは、少女を魅了してならなかった。

 ルオーゼ王国の前身である古代王国の支配者たちから、その裔である第一王朝の王たちへ。第一王朝断絶後のおおよそ百年の動乱を経てからは、国王親族封アパナージュリナ公爵領として第二王朝の所有物となり、既に斬首された最後の王の弟に受け継がれたルト。旧都とも称される街は、主の息吹が途絶えてもなお繁栄し続けるのだろう。

 遙か昔は凱旋式が行われたやも知れぬ大通りを歩むは、美々しくも勇ましく武装した兵ではなく、毛皮の襟巻や外套を纏った市民たち。セレーヌの二つか三つ年下であろう少年は、虫を誘う花のごとく甘やかな香気漂わせる菓子店の中へ。未婚の娘らしく背に垂らした髪を飾紐で結わえた娘たちは、晩冬であるにも関わらず満開の花模様が咲き誇る布屋へ。礼服に袖を通した紳士たちは、近頃流行りという喫茶店なるものへと吸い込まれてゆく。

 人生のほとんどを過ごした修道院。あの面白みのない建物と同じ街に属するとは俄かには信じがたい異界の入り口は、数え上げればきりがない。興味に駆られて飛び込めば容易には抜け出せなくなった。

 生活必需品も嗜好品も。ありとあらゆる欲望を満たす街には珍かな異国の品さえも揃えられている。凝血にも似た深い朱の鳥に目を剥いた少女は、その巨大な鳥が止まり木から飛び立つ素振りを見せるどころか、翼を動かしもしないことにも驚愕した。ふと立ち寄った骨董屋の外では、雀や烏たちが身を寄せって暖を取りながらも喧しく囀っているというのに、何ておとなしいのだろう。

「ああ、それは鸚鵡の剥製だよ」

「おうむ? はくせい?」

 なんだそれは、と問いかける代わりに少女は長い睫毛を瞬かせる。時を止めた生き物に伸ばされたか細い指先は、硬く節くれだった指にそっと包まれた。

「観賞用とか研究用とか目的は色々だけれど、端的に言ってしまえば防腐処理した動物の皮だ」

 途端、少女は締められている鶏にも匹敵するけたたましい、けれども澄んで可愛らしい悲鳴を迸らせる。

「じゃ、じゃあ、これは死んでるのか!? だったらどうして目はちゃんと開けてるんだ!?」

「目は硝子だよ。生前に近い姿のまま飾るには目は必要不可欠だけど、取り除かないとすぐに腐ってしまうからね」

 道理で羽ばたき一つしない訳だが、死体を花瓶や彫像と同じに扱うなんて。悪趣味が過ぎるのではないだろうか。

 他の臓腑と同様に生命の源が抜き取られているのなら、ありえないと分かってはいる。だが万が一にでも、決して開かぬはずの嘴から、餌を求めて哀れな泣き声が漏れ出てしまったら。そしてそれが、人っ子一人起きていない、自分の側に誰もいない夜半の出来事であったら……。

「気に入ったのかい? だったら悪いけど、それは値が張るから流石に買ってやれな、」

「だだだだだ誰がこんな気味が悪い物! 夜中に見たら心臓が止まる!」

 弾丸となって店から飛び出した少女は、しかし感情に任せて往来を駆け抜けはしなかった。

「……冗談のつもりだったんだけど、気を悪くしたのなら謝るよ」

 生来の脚の長さのゆえだろうか。さして急ぎもしないのに、青年は一呼吸ほどの後には白金の鉄砲玉の隣に並んだ。彼の両の腕には、大きさも様々な袋が果実さながらにぶら下がっている。今日のフィネは焦げ茶の外套に袖を通しているから、なおのことそれらしい。

「だから、頼むから待ってくれないか。君が迷子になったら、母さんに説教されるのは俺だから」

 青年は長く重い吐息を吐き、疲れ果てているのだと訴える。彼に成っている・・・・・のは、林檎や桜桃では断じてなかった。

 首都から仕入れた流行りの品だという、幾重にも重ねた裳がうっとりするほど程膨らんだ衣服。加えて、線帯レースが縫い付けられた生成りの綿の下着。

 最初に立ち寄った店で、たっぷり半刻はかけて選び抜いた品々を、義母の前で試着する時が愉しみでならなかった。縁に黒く染められた栗鼠リスの毛皮があしらわれた手袋は、薔薇の花弁を紡いだ糸で織りなされたかのような鮮やかな紅色をしている。これを付ければ、吹雪の日にだって鼻歌を歌いながら外に行けそうだった。

 生活必需品のみならず、よくよく思い起こせば家に酷似した物があった気がしないでもない品までもが詰め込まれた袋は、今にもはちきれんばかりに膨らんでいる。欲しい物はなんでも買っていいんだからね、との義母の好意に甘えた結果であるが、少し欲張り過ぎたかもしれない。

 それに、セレーヌはフィネを酷使しすぎたかもしれなかった。出発の前にミリーに「荷物持ちとして好きなように使ってやってね」と言われはした。しかしセレーヌはかれこれ一刻と半分は、彼に荷物を持たせたままである。それも、鈴なりに。

 人生で初となる買い物に浮かれに浮かれていた少女であるが、熱狂が覚めればほろ苦い後悔が顔を出す。申し訳なさに初々しい唇を噛みしめた少女は、しかしすぐに伏せていた面を上げた。

「あそこで焼き栗が売ってる! あれで最後にするから!」

 修道院では中々どころか滅多にありつけなかった好物の匂いを、少女の鼻は鋭敏に嗅ぎ取ったのだった。


 女にとってはこの上ない愉悦であれども、興味のない男にとっては緩慢な拷問に等しい行為。その名も買い物の発端は、朝食の席でのたわいもない会話だった。

「ねえ、セレーヌちゃん」

「はい。何ですか、お義母さん」

 セレーヌの名の後に続く姓が、母から受け継いだものから、夫となった青年の家名になって早五日。少女は既にベルナリヨン家に溶け込み、新たな日常を満喫してもいた。

 義母が作る料理は修道院の薄味のそれとは比べられないほど味わい深く、食事中にひたすら聖典の朗読をされないのも、開放的で好ましい。自由に会話をしながら、自分が好きな物を、好きなだけ食べられる。こんな爽快感は、神の名の下に設けられた規則に縛められるこれまでの生活では赦されていなかった。

 何より、ここには暇さえあればセレーヌの粗探しをする口うるさい女がいない。セレーヌは、自分を実の娘のように可愛がってくれる義母ミリーの、さっぱりとした気性が好きだった。

 少女があどけなく微笑むと、目前の女性のきりりと引き結ばれていた唇も開かれる。

「やっぱり、あたしの昔の服はセレーヌちゃんには大きすぎるね。裾上げするにも限界があるから、そろそろちゃんと買いに行かないと」

 義母の指摘に、少女は二重三重に折り曲げた緑の布地を握り締めずにはいられなかった。なんせ、普段着にしている――ミリーはいつか娘が生まれたら入用になるだろうと考え、自身の娘時代のとっておきの服を取り置いていたのだ――義母のおさがりはセレーヌには大きすぎるのだ。指先まで隠す袖を折り、そのままでは床に引きずる裾を捲ればなんとか着用できはする。けれどもふとした拍子に垂れ下がる布は邪魔で仕方がなかった。同年代の少女と比較しても、その華奢さと背の低さが際立つセレーヌである。少女であった時分から長身で大柄だっただろうミリーとでは、体型が違いすぎるのだ。

「服の型の古臭さもどうしようもないしさ。これだって、三十年前は流行りの意匠だったんだけどねえ」

 躊躇いがちの嘆息は、少女の心をざわつかせる懐旧を帯びていた。

 セレーヌが譲り受けた衣服は目まぐるし流行の変遷によって、時代遅れの不名誉な冠を被せられた。けれどもミリーにとっては、娘時代の思い出が沢山詰まった、唯一無二の品である。思い切りのよい彼女とて、自身の青春時代の思い出が詰まった衣服を、あっさりと捨て去るのは難しいだろう。 

「大切に仕舞っといたから生地は傷んでないけど、あたしはもう着れないから思い切って捨てちまおうかね。でも……」

 少女は憂いと迷いによって掻き消された言葉の続きを察し、あくまでもさりげなくを心がけて桃色の花の蕾をほころばせる。

「でも、こんなに綺麗な模様の服なのに捨てるなんて、もったいないですよ」

 ミリーはきっと、心の奥では既に衣服の処遇を決めていたのだろう。けれども自分の判断に自信が持てなかったから、誰かの後押しを――これはまだ取って置くべきですよ、という提案を欲していたに違いない。

「そうかい? セレーヌちゃんがそう言ってくれるなら、そうしようかね」

 案の定、義理の母は晴れやかに頬を緩める。その仕草は、彼女の若かりし頃の面影を偲ばせた。花園を模した緑はセレーヌの白金色ではなく栗色の髪にこそ良く映え、はっきりとした顔立ちを引き立てていたのだろう。ミリーがこの服を気に入っていた理由が分かろうというものだ。

「あたしもねえ。若い頃は今の半分ぐらいの細さの、それなりに綺麗な娘だったんだけど」

 少女はきらきらと目を輝かせながら義母の昔語りに耳を傾ける。現在は立派な主婦である彼女がどのような娘だったのか興味があったのだ。首都で生まれ育った彼女ならば、修道院育ちのセレーヌには想像もつかない体験をしているに違いない。

 しかし黙々と朝食を平らげていたフィネは、喉に魚の小骨が引っかかったかのごとく凛々しい眉を寄せた。どうしても無視できない違和感があるのだ、と言わんばかりに伏せられた目は、口などよりもよほど雄弁に疑問を発している。

 青年はややして呑みこめない小骨の正体を発見したらしい。彼は失念していた重要な事を思い出したかのような、朗らかな調子で口を開いた。

「母さんが細かったなんて、嘘だろ? そういえば伯父さんが、母さんは昔から変わらないって、」

 途端、鈍い音が――和やかな雰囲気に水を差す失言が制裁に遮られた際の衝撃音が、爽やかな朝の空気を揺るがせた。少女は香ばしい麺麭と共に動揺を咀嚼し、低い呻き声はあえて無視する。今のはフィネが悪いから仕方がない。

 溢れんばかりに木苺の蜜漬けが乗せられた麺麭は小さな胃の中に消え、蜂蜜を垂らした牛乳の器は空になる。しかしなおも、強かに踵を打ち付けられた足の甲の痛みを堪える青年の安否を気遣う声は響かなかった。

「ほら、つべこべ言わずにさっさと準備しな!」

 ややして、母さんが付き合ってやればいいのにとぼやきながらであるが、フィネはセレーヌと出会ったあの日の漆黒とは違う外套を羽織った。夫婦で初めての外出である。

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