わたしは貴方の幸運な花嫁 Ⅲ

 整理整頓を不得手としていた亡き父の遺品の整理と、拷問器具の後片付けには骨が折れた。

 父は、元々は現在も母が使用している寝室で、母と同じ寝台を使用していた。だがその身を病に蝕まれてから、部屋を分けたのである。夜半、止まらぬ咳や吐血で母の眠りを妨げては悪い、と。

 父の提案に隠された真意を察するのは容易であったから、フィネは父の決定を覆そうとはしなかった。父はきっと、衰弱していく自分の姿を母の目からできる限り隠したかったに違いない。うつる病気ではないのだから、と当初は反対していた母も、次第に何も言わなくなった。

 父の臨終の場である一室には、父の面影が濃密に残っている。主を喪ってなお、彼在りし日そのままに留め置かれていた寝台の上に、病み衰えてもなお大柄な男が横たわっていないことへの違和感を覚える程度には。

 病に喘ぐ男がせめてもの暇潰しのために持ち込んだ書籍は、今なお足の踏み場がないほどに床に積み上げられていた。大きさも厚みも様々な本の群峰から、幼き日に父が読み聞かせてくれた一冊を発見すると胸に広がる感傷を抑えきれなくなる。

「母さん、これちょっと見てくれ」

 青年が長身を屈め拾い上げたのは、「効率的な人体の活用法について」との表題と肉色の表紙が生々しい一冊であった。なぜこの表題でこの色の表紙にしたのだろう。

「これ、母さんが嫁いでくる時に持たされた本じゃないか? うちの倉の本にしては表紙が派手だし」

 世間からの蔑視と拒絶故に、婚姻相手の選択肢が非常に限定されている死刑執行人の一族の例にもれず、フィネの母ミリーもその道の・・・・家から父に嫁いでいた。ルオーゼ全土の死刑執行人を束ね、ルオーゼ全土の死刑執行人の頂点に立つ、都の死刑執行人の一族――母の実家は、課された役割を果たす傍ら、副業・・の研究にも熱心に勤しんでいた。その傍ら代々の当主は、子孫のために数々の覚書を残たのである。フィネの手の中にあるのは、いわば先祖の知恵と探求心の結晶であった。

 身寄りのない死刑囚は、死後その衣服どころか肉体までも死刑執行人の掌中に収まると定められている。ゆえに母の実家――ひいては、母の実家に代表されるルオーゼの死刑執行人どころか国外においても、死刑囚の髪が切り取られ、鬘屋に売られるのはごく一般的なことだった。もちろんフィネもそうしている。

 毛髪に負けず劣らずの需要があるのが脂肪で、吹き出物に切り傷、その他様々な症状への特効薬として高値で取引されていた。だがフィネの母方の曽祖父のように、採取した人脂から作った軟膏に貴婦人受けする花や果実の香りをつけ、暴利を得た者は稀だっただろう。この軟膏、フィネが母の実家に修行に出されていた時分は、二つ年上の従兄と一緒によく作らされていたものだった。フィネにはその経験はないが、嗅ぎ覚えのある匂いを纏った夫人とすれ違った際は、製造法と材料を思い出して果てしなく萎えたと従兄がぼやいていたのが懐かしい。

「俺が首都にいた頃は甘橙オレンジの花とかが流行ってたけど、今はどうなんだろうな。はっきり言って、俺は薔薇だろうが紫丁香花リラだろうが大差ないと思ってるけど、女はこういう違いに煩いだろ? 所詮は人間の脂なのに」

 ゆえに、母への問いかけともつかない独白を吐きながら、やや黄ばんだ貢を捲ってしまう。

「あと理解できないのといえば、女の服や化粧品に対する拘り。あれはどうにかしてほしい。嫁に行く前の従姉ねえさんに、“この紅よりあの紅の方があたしに似合うかしら?”とかなんとか色々尋ねられたけど、あんなのどれも同じだろ? なのにどうして無意味に時間を浪費するんだか」

 そこには、容器にちょっとした造花の飾りを付けると令嬢が喜んで買うだの、訳の分からない一文が載っていた。幾度となく目にしたが、理解はついぞできなかった現象・・である。もう一度繰り返すが、どんなに上辺を誤魔化した所で、あれは所詮人間の脂肪なのだ。

「そういえば、たまに何種類かの香水を一緒に付ける人いるけど、あれも止めてほしいよな。本人にとってはいい匂いなんだろうけど、鼻が曲がりそうになるから少しは周りの人間のことも考えてほしい。ま、それだって夏場の解剖室に比べれば、」

「お前は、少しは真面目に掃除をする気があるのかいっ!?」

 本をひったくられたのは、花畑みたいなものだけどと口角を持ち上げかけていたまさにその時であった。

「だいたい! お前さっきから好き放題言ってるけどね!」

 元来上がり気味の眉をさらに釣り上げた女は、取り上げた本の角を躊躇いなく息子の肩めがけて振り下ろす。

「女が少しでも綺麗になろうとして努力してるのに、頼まれてもないのに口出しするだなんて、お前には百年どころか千年早いんだよ!」

「俺は別に、そんなつもりは」

 危うい所で攻撃を回避した青年だが、むしろそれ故に女の怒りはいや増した。

「お前は昔っからそうだったけど、やることと言えば読書か剣の稽古ぐらいの、女心を理解しようともしない朴念仁になって、」

 一撃、二撃。そして三撃。

 目にも留まらぬ速さで危険物――背表紙の幅が中指の第一関節までに匹敵する書籍など、凶器でしかない――を振り回す母は、鼻息も荒く突進する牛そのもの。……などと呟けば、再び剣を持ちだされるに違いなかった。

「一体どうしてなんだい!? ヴァルマンは普段はああだったけど、あたしの誕生日と結婚記念日には花束を用意してくれてたんだから、お前も少しは父さんを見習ってほしいもんだよ! なのにお前は図体がでかいところばっかりヴァルマンに似て……」

「図体がでかいのは母さんも同じだろ?」

「失礼言うんじゃないよ、この馬鹿息子が!」

 長年の経験で培った勘を頼りに全ての攻撃を躱せば、母はようやく諦めてくれたらしい。ぜいぜいと荒く乱れた息を深呼吸して整えると、やがてぽつりと呟いた。

「あたしが親戚連中に頼みこんで紹介してもらった娘たちとは、見合いを一回したきりで、その後誰にも会おうとしないしさ! あっちはせっかく乗り気だったのに!」

 現政権の発足とほぼ同時に父が亡くなってからしばらくの母は、目も当てられないほどに沈んでいた。しかし、根が陽気な母であるので、早くも父の死から一月後には気丈に笑っていたのである。いつまでも塞いでたらヴァルマンに心配されるからね、と。それだけならば何らの心配もいらない。だが、母が父の喪失を紛らわせるためにのめり込んだのは二十年来の趣味の園芸ではなく、フィネの結婚相手の斡旋であったのだから、迷惑極まりなかった。

「それについては悪いと思ってるけど、どうしても気が乗らなかったんだから仕方ないだろ?」

 育ちがそうさせるのか、それとも血によるものなのか。母が紹介してきたのは、いずれも母と同じ系統の女ばかりであったため、フィネは即座に断った。

 血脈と嗣業を受け継がせる次代を生み出すため、極端に限定的な選択――妻として娶れるのは、同業者の娘のみと評しても過言ではない――を繰り返してきた父祖の行動は、幾世代もの時を経てある結果に収斂した。つまり、国内においては、血縁関係にない結婚相手を見つける方が困難になってしまったのである。

 フィネの父母もその御多分に漏れず、系図を辿ればまたいとこ同士に当たる。だから父と母は互いにどことなく似ているのだろう。いとこ同士の婚姻は法律で禁じられているから、かなり際どい関係であった。

 恋愛結婚をした父母は、間に時に罵声が、稀に皿が飛べども概ね仲睦まじかったので問題はない。が、自分たちが上手くいったからといって、息子に親類の娘を押し付けようとするのはやめてほしい。家の中に母が二人、ではフィネの居場所がなくなってしまう。

「まあそれについてはもういいから、ちゃんとあたしの忠告を覚えておくんだよ」

 片付けなど忘れて互いの言い分をぶつけあっていた母と息子であるが、ようやく本来の目的を思い出した。自分たちは、新たな家族となった少女のために整頓に勤しんでいたのではなかったか。

「一々繰り返されなくても分かってるよ。だいたい、俺はそんな変態じゃないって何回も説明したじゃないか」

「どうだかねえ。あの子は人形みたいに可愛いから、お前が変な気を起こしてもおかしくないし。とにかく、あの子に変な事したら、このあたしが承知しないからね」

 まだ初潮も来ていないようなガキに手を付けたところで、俺が得することなんて何一つない。

 危うく吐き出しかけた本音を押しとどめたのは、脳裏にちらついた幻影であった。未来の死刑執行人の務めとして、従兄と共に澱んだ紅の網が這う皮膚を切り裂き、臓腑を取りだした小さすぎる亡骸。その肌に散っていた痕跡はただただおぞましかった。実例を知っているからこそ、母は不必要にあの少女の身を案じているのかもしれない。

「理由や経緯はどうあれ、結婚したからには出来る限り幸せにしてあげるんだよ。それが男の甲斐性ってもんだ」

「……分かってる。言われなくとも責任は取るさ」

 それからは母に次々に手渡される荷物の運搬に専念した。

 一体どこから取り出したのだろう。最後の山をフィネの自室に移動させると、母は少女趣味極まりない小物で部屋をごてごてと飾りだした。

「ああ、やっぱり女の子はいいねえ。どっかの馬鹿息子と違って可愛がりがいがある。あたしも一人ぐらいは女の子を産んでりゃ良かったとちょっと後悔してたけど、これから楽しくなるよ」

 飾紐リボン線帯レースに刺繍布。加えて甘ったるい小花模様や桃色の品々に、亡き父の名残は侵食されていった。その様に寂寥を覚えなかったと言えば嘘になる。しかし鼻歌を唄う母の横顔は楽しげで、青年は僅かに頬を緩ませた。父が亡くなってはや一年。死者の吐息を留め続けるのは、もう潮時だったのだ。

「よし、ひとまずはこれでいいかね」

 満足げに頷いた母に目線で促され、この部屋の新たな主となった少女が待つ居間に向かう。

「あらま、ほんとに寝ちゃってるよ」

 なんて可愛い。まるで白い仔猫みたいだ。

 母が感嘆の溜息を漏らしたように、フィネの妻となった少女は、寝椅子の上で丸くなっていた。今日は彼女の人生で最も慌ただしい一日だっただろうから、無理もない。

 青年は細心の注意を払い、意識を手放した身体を抱きかかえる。眠る少女の目を覚まさぬようにそっと彼女の・・・部屋の扉を開け、寝台に横たえた。安らかに目を閉じる少女は、かつてこの部屋の主だった男には似ても似つかなかった。

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