わたしは貴方の幸運な花嫁 Ⅱ

 縺れに縺れた誤解を解きほぐすのは、一回も船を漕がずに朝課を終わらせるにも匹敵する難事であった。

「……お前という子は、こんな純粋そうな子にやらしいことをしようなんて企むだけじゃなく、言いくるめて自分に都合がいい嘘まで吐かせるなんて! どこまで性根が腐ってるんだい!?」

 セレーヌが心を込めて説明しても、衝撃の第二波の余韻から立ち直った女性は息子にあらぬ疑いを抱き続ける。ぎらぎらと光る夜の双眸は、うんざりと項垂れる青年がどこぞにしまい込んだ剣に負けず劣らず物騒だった。

「このままじゃ陽が沈んでも埒が明かない」

 荒れ狂う胸の裡を遠慮なくぶちまける母親とは対照的に、頑なに沈黙を守り続けていた青年は、ついに自ら嵐と向かいあう。そして彼が暴風雨を鎮めるとっておきの護符として取り出したのは、非常識だと謗られ、門前払いされるのも覚悟で取得した結婚証明書だった。

 額縁に入れて飾ってもいいぐらいに上質な生成りの一葉には、丁寧ではあるがどこか神経質な文字でこう認められている。ルト市の死刑執行人フィネ・ベルナリヨンとセレーヌ・ディルニの結婚を認める、と。ゆえにセレーヌとフィネは、神の前で誓ってはいないが、紛れもない夫婦なのだ。セレーヌとフィネの結婚を可能にしたもう一つの決まりについては、流石にミリーには説明は不要だろう。

「母さんも知ってるだろ? ちょっと前から、市長に、もしくは市庁で認められれば、教会で式を挙げずとも結婚できるようになったって」

「あ、ああ……。そうだったね……。でも、お前……」

 血のように赤い洋墨が生々しい市の紋章の印と、証文の末に添えられた証人の名を太い指の先でそっと撫でた女の肩が震えているのは、動揺のためなのだろうか。今年で二十四になる息子がこんな手の込んだ悪戯を企てるはずがないし、企てたところで実現するはずはない。この大都市の頂点に立つ男の助力が得られるはずはないと悟ったのだろう。

「これで分かっただろう、母さん? 俺は幼女を無理やりどうこうしようなんて考える下種じゃない。そもそもこの子はもうすぐ十四歳だし、俺とこの子は結婚したから法律上は、」

「……もういい、分かった。これ以上は長くなるから、この話はひとまずなしにしてあげるよ……」

 覚束ない足取りで調理場に向かった母の背を見やる青年の面には、幽かながら勝ち誇ったかのような笑みが広がっている。だがセレーヌは目撃してしまった。

「結婚すりゃ十三歳が相手でも大丈夫だと思ってるだなんて。あの子のためにも、今すぐにでもあいつの性根を叩き直さなきゃ……」

 思いつめたようにぶつぶつと呟く女性の、鬼気迫る表情を。固い決意はほとんど囁き同然の声で紡がれていたため、彼女の息子の耳には届かなかっただろうが。

「遠慮せず、たくさん食べてね、セレーヌちゃん」

 何はともあれ、ようやくありつけた肉汁スープは少し冷めてはいたが、香味野菜と香草、そして何より牛肉の風味が濃縮されていて、非常に美味だった。

「君、ほとんど一日食事を摂ってなかったんだろう? 胃に負担がかかってしまうから、もうそれぐらいにしておいた方がいい」

 生命の危機を回避し――きれたのかどうかはまだ怪しいが――セレーヌと同じ食卓に着いた青年に諌められなければ、はしたないと承知しつつも四杯目のお代わりをしていたかもしれない。

「……そ、そう、なのか?」

 食卓にはまだ、木の実のごとく濃厚な白黴乾酪チーズや果実の砂糖漬けといった、魅惑の品々が並んでいる。美味への未練を断ち切れないでいると、耳に馴染みつつある低音が朗らかに轟いた。

「別にそんな顔をしなくてもいいだろう? 君はこれからは、望めば何回だって、好きなだけその乾酪を食べられるんだから」

 引き締まった唇の端に笑みを刷いた青年は、セレーヌが閉じ込められていた牢に現れた際の彼とはまるで違う。母親との乱闘の際に解けた髪はそのままに、仕事用の外衣を脱ぎ捨てた彼は、やはりごく普通の青年だった。

 この青年が罪人を屠るという嗣業を父祖から受け継ぎ、既に四肢全ての指の数を合わせても足りない程その職務を全うしたのだとは、とてもではないが信じられない。

 聖典にも時折その存在が記載されているが、死刑執行人とは人間が神に創造されるとほぼ時同じくしてこの世に生じた職業の一つなのだろう。ただし、彼らはその他の由緒正しい職に就く者たちは対照的に、遍く者たちに差別されてきた。それは、王制が廃止されて一年の歳月が過ぎたこの国においても同じ。

 罪人を屠って多額の収入を得る死刑執行人は、周囲の者からは会話すら忌避されるまでに蔑視されているのだと、セレーヌは聴かされた。この一族の一員となった以上は、セレーヌもこれからそのように・・・・・扱われるのだと。三日月を頂く夜そのものの双眸に暗い翳りを落とした青年から。誰を。いや、何を呪っているのかと問いかけたくなる暗い声で、新たな家族の誕生を祝福するかのごとく微笑まれながら。

 根深い差別の対象となる死刑執行人一族の者は、人生の節目においても様々な困難に直面する。彼ら一族の出産は産婆すら介添えを拒絶し、死後には亡骸が納められた棺桶を担ぐ者を集めるために心付けを配らなければならない。だがそれらの苦労すらも、最大の困難――結婚には及ばなかった。

 真っ当な・・・・人々は街中の嫌われ者の一族の一員となることを恐れる。ゆえに死刑執行人たちの結婚相手は、同じ職業に就く他の家柄出身の娘に限られていると断言しても過言ではないが、常に都合よくそのような娘が存在するとも限らない。そのために彼らは時折、特別に与えられたある権利を行使する。死刑執行人には、結婚相手の不足を解消するための手段として、死刑に処せられる女に無罪放免と引き換えの結婚を申し込むという慣習が存在するのだ。実例など数えるほどしか存在しない慣例ではあったが、フィネがその権利を行使してくれたおかげで、ありもしない罪を背負わされ散らされる定めであった命は救われたのである。

 それでも君は生きたいと望むのか、と再三自分の意思を確かめてきた青年の手を取ったことに後悔は微塵もなかった。夫となったフィネや義理の母であるミリーとはうまくやれたらと思っているし、無論そのための努力を惜しむつもりもない。だが、セレーヌは究極的には、母以外の人間に嫌われたり陰口を叩かれても一向に構わないのだから。しかし、疑問が無い訳ではなかった。

 フィネが何を考えて自分を妻にしたのかは分からない。ミリーの存在を説明されるまでは、家事をさせるためなのだろうかと勘ぐっていたのだが。セレーヌ以上に家事に通暁している母親がいる以上、この推量は外れたと言わざるを得ないだろう。

 ならばフィネは一体なぜ……。などと考えていると、いつのまにやら目蓋の厚みはそのまま重さだけが増し、ついに少女は勢いよく額を机に打ち付けてしまった。

 がしゃらっ、と匙や皿が飛び跳ねた音がやたら威勢が良いのが恥ずかしい。じんと疼く額だけでなく顔全体を手で隠したのは、無論羞恥に赤らんだ頬を隠すためだったのだが、

「君は子供だからもう疲れただろう? 体力が回復するまでゆっくり寝ているといい」

 生憎しっかりと目撃されてしまっていたらしい。

 ――こいつは、そういえばさっきも、わたしを十歳の子供だって言ってたな。

 肌理細やかな薄桃色の頬が怒りで膨らむ。生来の薔薇色を取り戻した唇をつんと尖らせて反論する少女の姿は庇護欲をそそる小動物のようで愛くるしいが、大人の余裕とは縁遠かった。

「ごめんごめん。でも、本当のことだろう?」

 先程の仮初の勝利を祝うものとはまた異なる微笑を浮かべた青年は、しかしたちまち不安げに口元を引き結んだ。

「……君をこれからどこで寝かせればいいか迷うな。今すぐ使えそうなのは父さんの寝室ぐらいだけど、あそこも結構散らかってるから。一気に片付けするのは骨が折れるし、」

 長い腕を逞しい胸の前で組む青年は、とっておきの案を思いついたとばかりに手を叩く。

「仕方ないから、今日ぐらいは俺の寝台で、」

 青年が朗らかに目を細めたまさにその瞬間。鳶色の頭に降って来たのは、彼の母親の鉄拳であった。

「母さん、いきなり何を、」

 ついで、青年の耳を引きちぎらんばかりの勢いで掴んだ女性は、いぶかしげに眉を寄せる息子に何事かを囁く。

 その仔細はセレーヌには窺えなかったが、一瞬だけではあるがフィネのやや細い双眸は裂けんばかりに瞠られたのは傍目にもあからさまだった。顔色も心なしか蒼くなっている。

「……ちょっと父さんの部屋の片づけをしてくるから、君は居間の寝椅子で横になっててくれないか」

「そういうことだから、これを被って待ってておくれよ、セレーヌちゃん」

 にこやかに花柄の上掛けを差し出してくれた彼の母とは対照的に、青年の面は深刻そのもの。無理やりに作られたと一瞥で察せられる笑顔は、強張り引き攣っていた。彼の父の部屋とは、口いっぱいに苦蓬を詰め込まれたのかと心配になるほどに、物が散乱しているのだろうか。だとしたら、フィネとミリーが自分のために尽力してくれる以上は、セレーヌも手伝いをするのが道理というものだろう。大した力にならないことは自分でも理解しているが、いないよりはましなはずだ。

「だったらわたしも、」

 少女は普段以上に垂れ下がった目元を擦りながら椅子から立ち上がったが、言葉とは裏腹にその足元は今にも倒れ伏しそうにふらついていた。

 床に垂れる上掛けの端を踏みつけ、大きく傾いだ少女の肢体。その脇腹を右手で支えた青年は、自らの失態に全身の血を滾らせる少女の小さな頭に、そっと左の掌を置いた。

「俺たちが今から運ぶのは小型の拷問器具なんだ」

「へ?」

 どうして家の中に拷問器具があるんだ、との問いを発するのは流石に愚かすぎるだろう。死刑執行人は、時に拷問吏としての役割も果たしもするのだ、と既に教えられているのだから。

「だから、気持ちは嬉しいけれど、君に手伝わせる訳にはいかないよ。君がうっかり怪我でもしてしまったらいけないからね」

 むずがる幼児にそうするように、細く柔らかな白金の髪を撫でる青年のぬくもりは、意固地すぎるきらいがあるセレーヌが眠りに就く手助けをした。

「そういう訳だから、しばらく眠っててくれ」

 新たに家族となった二人の好意を素直に受け取った少女は、修道院の寝台などよりよほど柔らかな寝椅子に、白に近い金髪を散らし手足を投げ出す。

 ――お前は、少しは真面目に掃除をする気があるのかいっ!? 

 考えるのはもちろん、容赦のない罵声を浴びせかけられている青年のこと。

『――なる! お前の妻になる! だから、』

 求婚に肯定を返した際、高い位置にある顔に差したのは紛れもない驚愕の影であって。耳に心地よい低音はセレーヌの返事によって僅かに明るくなったが、肯定的な返事など大して期待していなかったのだと、雄弁に物語っていた。となれば彼は一時の戯れのつもりで、迫りくる暗黒に怯える少女を揶揄ったのだろうか。

 ありえないだろう。ただの気まぐれのために、自分には何ら利益がない結婚をするなんて。フィネは、日常の雑事をさせるためにセレーヌを救ったのだろうかと考えもしたが、主婦として研鑽を積んだ母親がいる。フィネの思い付きの原因として死刑執行人の結婚相手の選択の狭さを考慮しはしたが、我ながら納得できなかった。

 同じく死刑執行人であった父親はきちんと結婚し、フィネという息子を儲けたのだ。その気になって相手を探しさえすれば、フィネもそのうち似合いの妻を得られただろう。フィネは誰もが振り返る美男子ではないが、身なりを整えればそれなりに騒がれそうな容姿をしている。悪魔崇拝や異端信奉などの、他人を遠ざける趣味もなさそうだ。

 だとしたら、フィネはとてつもない善人で、可哀そうな・・・・・セレーヌを捨て置けなかったのだろうか。

 唐突に浮かんだ仮定は、快いものではなかった。修道院での食事や祈りの際に耳に胼胝たこができるほど聞かされた、俄かには信じがたい伝説の主人公である聖人たち。聖典の中の、本当に人間だったのだろうかと勘ぐってしまいかねないほどに理想化された彼らは、故にセレーヌの友愛の対象には決してならなかった。対して、フィネには血肉を備えた人間らしい存在感がある。ならば、ひとまずははそれでいい。

 セレーヌはフィネの機転のおかげ生き永らえ、退屈で堅苦しい修道院の規則とも縁が切れた。面倒極まりない礼拝に参加しなくてもいいし、早朝の一時課に眠りを妨げられもしないなんて、いいことずくめだ。あとは大好きな彼女さえいれば完璧なのだが、母は今頃、一体どこにいるのだろう。

 少女はわだかまった想いを持て余し、まろやかな口元を噛みしめる。滲む苦痛を抱えたまま貪る眠りは、それでも蜜さながらに甘いものだった。

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