わたしは貴方の幸運な花嫁 Ⅰ

「では、正当な用件なしには二度と私の目の前に現れてくれるなよ」

 嫌悪感をありありと滲ませた声に覚えた苛立ちが命じるままに、少女は種々雑多な感情に顔を歪めた中年の男をねめつける。

 ご丁寧に教えられずとももう用事は済んだのだから、これ以上の長居などする訳ないだろ。

 淡く開いた朝露を含んだ桃色の薔薇の花弁の唇を再び閉ざしたのは、

「ええ、もちろんです。こんな時間に、事前の約束もなしに押し掛けたのですから、これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきません」

 悪趣味なほどに大きな宝石が目を引く指輪を嵌めた指が投げ捨てた・・・・・証書を拾い上げ、懐にしまいこんだ青年の丁重な礼だった。

「貴方のご厚意に感謝いたします、市長殿。では、よい一日を」

 丸一日水すらも摂取していない身体では、もう指一本動かすのさえ難しい。だのに少女ができる限りの大股で不愉快な邸宅から遠ざかったのは、堪えがたい怒りのため。

 この北方の国の王制が斃れて早一年。王党派であったために現政権に更迭された前市長と入れ替わりにその座に就いた現市長は、密告によって前任の地位どころか屋敷をも手に入れたと評判の人物である。よく手入れされてはいるがそここに置かれた彫刻が煩わしい庭といい、本物なのか鍍金なのかはともかく金や黄金色が多用された内装といい、彼の住まいは趣味がいいのか悪いのかよくわからない屋敷だった。

 亡き院長曰く元々は貧しい職工の子であったという現市長が悪趣味なまでに己の屋敷を飾り立てるのは、代々の貴族の生まれであったというの面影を消し去るためなのか。はたまた別の思惑があるのかは判ぜられないし、取り立てて興味もない。少しは空腹が紛れるかと道中の慰みに熟考していただけだから、いずれ忘却の彼方に押しやられてしまうだろう。しかし喉に痞えて嚥下しきれない感情はしばらくは忘れられそうになかった。退去したばかりの館の、けばけばしい薔薇模様の壁紙の細部は、早速薄れ初めたのに。

 ふと通り過ぎた道を振り返ったセレーヌに何を考えたのか。高い位置から落ち付いた低音が降ってきた。

「腹が減っているのかい?」

 それもそれで間違いではないが、自分が先程まで悩んでいたことが急激に馬鹿らしくなってしまい、少女はけぶる睫毛に囲まれた緑を瞬かせた。

「どうしてそう思ったんだ?」

「君があんまりにも眠たそうな目をしているから、空腹も相まって今にも倒れそうなぐらい疲れているのかと、」

 頭二つ分以上も上にある、薄く引き締まった唇の端が緩やかに持ち上がる。道端に転がる瀕死の小動物に、死後のせめてもの安楽を願って手向けるような侘しげな微笑は、慈悲の気配を漂わせてはいるが――むしろそれ故に残酷ですらあって。

「気遣ってもらったのはありがたいけど、一つ言っておきたいことがある。――わたしの垂れ目は生まれつきだ」

「そうなのかい。覚えておくよ」

 揶揄われただけなのか、それとも本気だったのか。どちらにせよ本音が見えない囁き同様に、吸い込まれるというより呑みこまれそうな深い青の双眸からも、青年の心情は一切窺えなかった。

 ――こいつに付いて行って、本当に大丈夫なんだろうか。

 ふとこみ上げた不安は小さな心臓をしばし忙しなく脈打たせ、指先を食い込ませた掌はじんと疼いた。だが、それがどうしたと言うのだろう。

 後ろで一つに括られた青年の鳶色の髪は、暗い牢の中では古び黒ずんだ血のようだった。けれども朝日を透かす彼の毛髪は赤銅色に輝いている。

 セレーヌの歩むべき道はフィネの手を取った瞬間から決められてしまっていて、後戻りなど決してできない。ならば無益にくよくよと悩んでも仕方がないし、それ以上、セレーヌの趣味には合わなかった。

 物思いに耽っているかのごとく遠くを眺めるフィネという青年について、現時点でその外貌を除いて分かることはただ一つ。長身に見合う長い脚を持つ彼と共に歩むのは、小柄なセレーヌでも難しくはないということだけだった。


 ぎこちない雑談もついに途切れ、空腹も手伝ってか互いに黙々と脚を動かすばかりとなった頃。目的の場所はついに若葉の瞳の前に姿を現した。

「ほら、あれが俺の――そして、今日から君の家にもなる家だよ」

 朝方だということを抜きしても人気の少ない郊外に聳えるのは思いのほか立派な邸宅で、少女は元来大きな双眸をさらに大きく瞠らずにはいられなかった。

 平民が住まうにしては大きな家は、程よく手入れされた庭園と黒鉄の柵に囲まれている。あえて自然に近いままに保たれているのだろう庭を彩るのは、果樹や常緑樹と季節の草花だけでない。普通の民家に相当する大きさの小屋まであった。

 あの中には、一体なにがあるんだろう。

「ああ、そこには近づかないほうがいい」

 ふとした興味に駆られて褪せた茶の煉瓦の小径からはみ出した足を制した呟きは、どことなく冷ややかであった。

「そこは俺の仕事場の一つだからね。これから食事をしたいのなら中を覗くのはやめておくべきだ」

「……分かった」

 こくりと首を振った少女の小さな頭に、大きく硬い掌が置かれる。

「この時間帯なら、母さんはもう朝食を拵え終えてるだろうから、君の空腹も直に治まるはずだよ」

 わざわざ腰を折り、背が低いセレーヌと目線を合わせた青年の面に広がった笑みは、純粋に優しかった。

 親切な一面を示した途端に冷淡な顔を見せ、酷薄な笑みを湛える一方で哀れみ深く双眸を翳らせる。謎めいていて捉えどころのない青年の貌は、表面上の変化にこそ乏しいものの、存外目まぐるしく移り変わっていた。

「ただいま、母さん。朝食の準備できてるかい?」

 フィネが躊躇いも熟考もせずに家に入った以上は、セレーヌも彼に続かなくてはならない。

「ああ、お帰――」

 空っぽの胃を刺激する芳しい匂いが立ち込める食堂で青年と少女を出迎えたのは、栗色の髪をひっつめた恰幅がいい中年の女性の、硬直した顔であった。息子が見知らぬ少女を連れて帰宅したのだから、当然と言えば当然の反応である。

「……フィネ、お前、その子、誰なんだい?」

 太い指どころか全身を戦慄かせながらセレーヌを注視する女性は、大柄な体躯といい、きりりと上がった眉と夜の青の虹彩といい、成る程フィネとどことなく似ていた。この女性こそ、道中で説明されたフィネの母親ミリーだろう。

「……それは後で説明するから、取り敢えず食事を摂らせてくれないか? 俺もこの子も腹が減っているんだ」

 母親の天地を揺るがしかねない驚愕もなんのその。青年はこれまた一切の躊躇もなく、家長の席と思しき椅子に腰かける。よく伸びた脚を投げ出し、母親にかけられた石化の魔術が解けるのを待っていた――もっとも、ミリーにまじないをかけたのは他ならぬ彼なのだが――青年は、やがて痺れを切らしたのだろう。黙って座っていた方が彼にとっても良かっただろうに、あろうことか自分で食事の用意をし出した。

 こんがりと焼けた麺麭の一切れを咥えながら、茶器にほとんど黒に近い茶色の、セレーヌは名前も味も知らない飲料を注ぐ。次に、ぐつぐつと煮えたぎった鍋から琥珀色の液体を平皿に注ごうとしていたところ、

「いいから、そのお玉を置くんだ。そして、あたしの質問に正直に答えるんだよ。そしたら、事の次第によっては赦してあげるからね――あの子、一体誰なんだい?」

 ようやく魔法から解放された女が、息子の手から使い込まれた調理器具を奪い取った。

「あの子の名前はセレーヌで、生まれてからずっとファヴィアンの女子修道院で暮らしていたらしい」

 それが一体どうしたのだと言わんばかりの、いささかうんざりとした口調で紡がれたのは、セレーヌのこれまでの人生で間違いはない。間違いではないのだが、ミリーはもっと別の説明を欲していたのだろう。

「……そういうことは後でいいんだよ。あたしが知りたいのは、お前が見ず知らずの女の子を突然家に連れてきたのはどうしてか、なんだ」

 案の定、ミリーは怒り心頭といった面持ちで息子の胸倉を掴む。尋問をする彼女の瞳では、疑惑と確信の劫火が渦巻いていた。

「ごめん。何回も繰り返すけど俺もこの子も腹が減ったから、そういうことは食べた後でもいいだろ? 話せば長くなるし」

 呑気に咀嚼していた麺麭を嚥下した青年は、悪鬼にも勝る迫力をものともせず、のらりくらりと母の追求からの逃避を試みる。だが、その試みはすぐに泡沫に帰した。

「いいわけないだろっ、この馬鹿息子が!」

 鈍く輝くお玉は鳶色の後頭部目がけて勢いよく振り下ろされたが、青年は熟練の動きで頭を横に傾け攻撃を回避する。そうして母親の逞しい手首を掴んだのだが、猛牛と化した女性の勢いは衰えない。

「あたしは確かに昨日“そろそろ孫の顔が見たいから、近いうちに嫁探しを始めてくれ”とは言ったよ! だけど、“女の子を誘拐してこい”なんて言った覚えはこれっぽっちもないんだ!」

 彼女の親指と人差し指が震えているのは、激高のためなのだろうか。何にせよ、紙すら通せない僅かな隙間を指で作るやいなや、怒れる女性は素早い動作で息子の襟首を掴み、狼狽える彼の身体を揺さぶった。ミリー自身も女性にしては背が高いが、大柄なフィネを片腕のみで持ち上げるだけでも一苦労だろうに。感嘆の溜息を禁じ得ない、見事な腕力であった。

「……前々からなんとなくそれっぽいとは思ってたけど、まさか図星だったなんて、」

「母さんは、たった一人の息子をそんな目で見てたのかい?」

「この子は確かに人形みたいに可愛いけど、だからといって、十歳になったばかりぐらいの女の子を、なんて。それも修道女見習いの子を、なんて……!」

 悔恨はかっ、と裂けんばかりに見開かれた眦からとめどなく流れ落ちる。

「頼むからその疑惑は今すぐ捨ててくれないか? でないと話が進まない」

 青年は淡々と「母親からの変態呼ばわりは結構堪えるな」と抗議している。

「大切に育てた一人息子が年端も行かない子供を毒牙に掛けるような変態だったなんて。――ああ、どうして!」

 彼の母の激怒は、好意的に評すれば落ち着いているが悪く言えば冷静すぎる抗議の煽りを受け、ますます激しく燃え盛っていた。「これじゃ天国の夫に顔向けできないよ!」との悲嘆は、聴いているこちらの骨身にも沁みた。状況が許せば、しっかりとした肩に手を置き手巾ハンカチを差し出したくなるぐらいには。ただ、現在の状況ではセレーヌは何をしても事態を悪化させてしまうだろうから、ひとまずはおとなしくしておくのが吉である。

 それにしても、フィネといいミリーといい、どうしてセレーヌを十歳の子供と見間違えるのだろう。


 あの市長の部屋でセレーヌの年齢を知ったフィネは、

「へえ。君、十三歳だったのか。小さいから十歳ぐらいだと思ってたのに」

 と零した。すると書類に署名していた市長は手を止めた。

「……君は十歳だと思っていたのに、セレーヌ・ディルニに結婚を申し込んだのか?」

 そうしてぼそりと嘲りに満ちた文句を吐き出したのだが、その際の市長の目は筆舌に尽くしがたかった。

「僭越ながら、法的には問題ないかと」

「ああ。法的にはないな。法的には・・・・

 腐敗し、悪臭を発する塵の塊。あるいはその塵に湧いた蛆の大群に投げかけるかのような、容赦のない蔑みの眼差しは、セレーヌの語彙では表しきれない。とにかく凄まじい目だった。


 ――などと回想に耽っている間に、母と息子の争いはひとまず決着がついたらしい。というのも、ミリーは足音も荒くどこかに立ち去ってしまったのだ。

「母さん?」

 どさりと乱雑に投げ出された青年は、慌ただしくどこぞに走り去った母親を呼ぶ。程なくして居間に戻ってきた彼女の手には、顔がぼんやりと映る程度には念入りに研がれた剣が握られていた。一般的なものとは異なり刃先が尖っていない、風変りな一振りが。

「それ、俺の……」

「そんな細かいことはこの際どうでもいいんだよ! まずお前を殺して、そしてあたしも死ぬ! これしか育て方を間違えた責任を取る方法はないんだ! だからさっさと覚悟を決めて首を出しな!」

 予想もしていなかったと言えば嘘になるが、とにかく急激すぎる展開には、息を呑まずにはいられなかった。あの刃が首に食い込むとしたら、どんな激痛が奔るのだろう。幼い頃のセレーヌは、裁縫用の鋏を投げつけられただけでも泣き出してしまったのだから、きっと死ぬほど痛いに違いない。

「それは家の中で振り回すための剣じゃないって、母さんもよく分かってるだろ? だからお願いだから落ち着いてくれ。……よくよく話し合えば、俺たちはきっと分かり合えるはず、」

 刃を向けられた青年は暴れ馬を宥める際の慎重さでもって、暴力に頼らぬ平和的な解決――つまりは話し合いの素晴らしさを説いている。

「お前みたいな変態と分かり合いたいことなんて、あたしには何一つないね!」

 しかし効果の程はまったくもって期待できそうになかった。

 自分を助けてくれた青年が命の危機に瀕しているのだから、できる限りの努力はすべきだろう。怒り狂う女性の勘違いを訂正し、事態を円満に終結させられるのはセレーヌしかいないのだから。

「あ、あの」

 意を決した少女が声を張り上げると、濃紺の双眸で燃え立つ焔の勢いは僅かながらになりを潜めた。

「か、母さん。ほら、あの子の話も聴いてあげなよ!」

 青年は不意に差し出された助け船に大慌てで乗り込み、ほっと安堵の溜息をつく。

「お義母さま。落ち着いてわたしの話を聴いてください」

「“お義母さま”?」

「まず、わたしは二か月後には十四歳になりますから、子供ではありません。だから安心してください」

 少女は夫の引き攣り笑いを意識的に真似し、努めて穏やかに事実を述べる。

「そ、そうなのかい……? 随分小さいから、てっきり十歳ぐらいだと思ってたんだけど……」

「ええ」

 すると力を失いだらりと垂れ下がった手から剣が滑り落ちた。青年は気取られてはならぬと気配を殺して危険物を回収し、速やかに母親から遠ざける。

「わたしはわたしの命と引きかえに息子さんの求婚を承諾しました。ですから、わたしは今日からこの家の一員。あなたの娘となったのです。これからよろしくお願いしますね、お義母さま」

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