血と春の聖歌
田所米子
第一部 黒
序 私の妻になっていただけますか、お嬢さん
闇は
少女は指先から暗黒に溶けてしまいそうな闇に慄き、空腹に苛まれながらも柔らかな唇を噛みしめる。けれども、飢餓感と一体化した恐怖が、僅かな鉄錆の風味などで追い払えるはずもなく。元来は色艶良く可愛らしい唇は凍てついた空気に苛まれ、すっかり蒼ざめてしまっていた。
新年を迎えて二月あまりの歳月が経過したとはいえ、北方に位置するルオーゼ共和国は未だ冬の支配下に置かれている。加えて、セレーヌの感覚が正しければ
――イディーズ! あの女、よくも……!
冷え切った小さな肢体を温めるのは、平板な胸の裡で燃え盛る憤怒のみ。ゆえに少女は華奢な肩を震わせ、平らな胸の裡で渦巻く怒りを奮い立たせる。
激怒する少女が身じろぎするごとに二本の三つ編みが揺れた。質素な修道服の上に緩やかな弧を描きながら広がるふわふわと柔らかな毛髪は、豪奢な黄金と清純な白銀の狭間。類まれな白金色をしている。しかし彼女の珍らかな髪の輝きは、格子すら浸食する暗黒を駆逐するには及ばなかった。
萌え出でたばかりの若葉の瞳には露にしては温かな滴が浮かび、溢れ出た一滴がほろりと零れ落ちる。少女はごしごしと目を擦り、涙を隠すために丸く小さな膝に額を当てた。
分かっている。独りきりの牢の中で泣き喚いたとしても、嗤い嘲る者などいるはずはないのだと。けれども分別がついていない幼子でもないのに――十四回目の誕生日を数か月後に控える少女は、本人の認識はともかく、未だ子供の範疇から抜け出せてはいないのだが――涙を流すなど、意地と矜持が邪魔してできそうになかったのだ。
怖いよ。おかあさん、院長さま、助けて。
少女は薔薇の蕾の唇を噛みしめ、誰より愛する母親と亡き前院長の面影に祈りを捧げる。セレーヌは亡き彼女をもう一人の母親として慕っていたから、もしかしたら今回も助けてくれるかもしれないと縋らずにはいられなかったのだ。しかし死者への祈りは実を結ばず、掠れた鼻声の反響はたちまち儚く消えてしまうばかりで。小さな胸の中の
せめて、一時課が始まる前にあのふざけた女にいきなり叩き起こされてからどれ程の時間が経ったのか把握できれば。そうすれば、この頭頂から爪先までをも漆黒に染め上げるような恐怖も、幾ばくかは和らぐかもしれないのに。
物心ついた頃から暮らしていた女子修道院。前院長が死去してからは牢獄と化した神の家の外に無理やり連れだされ、得体のしれない馬車に放り込まれる寸前に見上げた空は、夜の名残が濃密にうかがえる濃紺であった。
セレーヌのほんの十四年足らずの人生は、受け入れがたい運命によって、地獄の炎も及ばぬ闇に呑みこまれんとしている。
「あなたはもうこの国には要らないどころか、害悪らしいのよ。そう判断されたんだから、仕方ないでしょう?」
あの腹立たしい女は、驚愕のあまりしばし呼吸も忘れたセレーヌを見下しながら、顔面と鳩尾に拳をめり込ませたくなる笑顔でそう告げた。だが、今にも千切れてしまいそうなセレーヌの神経を奇妙に生々しく逆なでしたのは幻聴。もしくは全くもってありがたくない神の思し召しという物だろう。どうせならば、あの女ではなく母の声を聞かせるぐらいの気を利かせてほしい。
焼け付くような祈りも虚しく、今一度少女の鼓膜と心を揺るがせた幻は、母の呼び声ではありえなかった。
「だから、今まで生かされていただけでもありがたいと思って、唯一神がいらっしゃる楽園に逝きなさい」
改めて考えてみても全く意味が分からない。だが不愉快な言葉は鈍器そのもので。
修道院という狭い世界で生きてきたセレーヌとて、牢獄に放り込まれた者の末路ぐらいは想像できる。けれどセレーヌはまだ死ぬわけにはいかない。大好きな彼女との再会すら叶わぬまま、この世から去らなければならないなんて。そんな理不尽な事があっていいはずはないのだ。
「……これが外れれば」
追い詰められた少女は稚い拳を忌々しい格子に打ち付け、できる限り自身の運命に抗おうと試みる。
「く、そっ」
しかし細腕と柔肌で鍛え抜かれた金属に太刀打ちできるはずもなく。搾りたての
細長い金属は非力な少女の力では揺るがず、憎悪すら抱かせるほどの強固さを保ち続ける。ならばと痛みを堪えて立ち上がり、か細い脚にあらん限りの力を込め、立ちはだかる敵に勢いよく足裏を押し付けたのだが……。
「――っ!」
爪先を強打してしまい、じんと広がる激痛に悶えるはめになった。
少女は痛みに喘ぎ、独房の床の上でごろごろと転がる。なけなしの気概は、格子同様冷え切った床に根こそぎ奪い取られてしまった。燻っていた焔は瞬く間に冷気に蝕まれ、虚無感と徒労感に占領される。凋落した希望の果実の味は鉄錆のそれに似ていて、眦から零れ落ちる雫よりも塩辛かった。
涙が生々しいひび割れに染み入る際の疼き。耐えがたい飢えと疲労と寒さ。様々な苦痛との戦いによって疲れ果てた少女は、とうとう唯一の安楽に手を伸ばす。次に目を覚ました時こそがわたしの終わりなのだと絶望しながら。
「君がセレーヌ・ディルニなのか?」
底なしの闇が打ち破られたのは、蛇のごとく忍び寄ってきた眠気に屈服してからどれ程経った頃のことだったのだろう。
「まだ十かそこらの子供じゃないか。……一体何をやったんだ」
温かな橙色の光がまろやかな頬の涙の痕を暴き、耳慣れぬ低い声が深淵を彷徨っていた意識を呼び覚ます。僅かばかりの光を取り戻した双眸は光源を探り、やがて呆れ顔でこちらを見やる人影を捉えた。
ほとんど一日独りきりで冷え切った独房に閉じ込められていたから、今はとにかく灯りと人のぬくもりが恋しい。少女は一切躊躇せずに、どこの誰ともはっきりしない人物にできるだけ近寄り、
「お、とこ?」
やがて驚きに目を瞠った。なぜなら
前院長曰く平均よりも著しく小柄だというセレーヌよりも頭二つ分は背が高い男は、痛ましげに真夜中の青の瞳を細めている。彼はしばしの沈黙の後、陽気を装った――けれども陰鬱さを振り払えていない口ぶりで揶揄うように問いかけた。
「俺が女に見えるかい?」
静謐な口調に秘められた感情は、少女の誇りを著しく侵害し、同時に生来の勝気を刺激した。一見穏やかに、だがほんの少しの苦味を口の端に纏わせて微笑む男は、セレーヌを哀れんでいる。だからこそ癇癪を起こした幼児をなだめるような物言いで
「いいや、全く。……“男”なんて本の挿絵や聖人の像でしか知らなかったから、お前が男か自信を持てなかっただけだ」
怒りという潤滑油を得た舌は、慄いているはずなのに滑らかに虚勢を紡いだ。言外に、だからこれ以上わたしを馬鹿にするなという意図を込めて。
「そんなことより、お前は誰なんだ?」
「フィネ・ベルナリヨン。――これでもまだ分からないかい? ベルナリヨンと名乗れば、この街の人間なら大体は分かるはずなんだけど」
「生憎わたしは生まれた時から修道院にいて、今日までは敷地の外には一歩も出たことがなかったんだ」
「そうかい。それなら仕方ないね」
フィネと名乗った青年はそれきり口を閉ざし、見つめ合う二人の間には侵しがたい沈黙が垂れ込める。迷いと諦観がせめぎ合う視線は橙色の炎ばかりに注がれていて、自分から更なる会話を促すなどできそうもなかった。
少女は、青年によって深い森に置き去りにされてしまったような心細さを抑えながらも、夜にも劣らぬ濃紺を睨み付ける。しかし心臓が百回脈打つまで待っても、彼は時折ちらとこちらを見やるだけ。格子を挟んで対峙する二人の肉体の距離は無いに等しいのに、心はどこまでも隔たっているのだ。
不安の炎を煽る風は数瞬ごとに勢いを増し、吐息で吹き消せるほどだった火種を大きくする。芯からの熱と緊張に燻された頭はぼんやりと霞んだ。
「お前はわたしに何か用があるんだよな?」
熱に浮かされて紡いだ問いかけに、男は幽かに微笑んで応える。
「そうだね。俺は君を殺しに来たんだよ」
その瞬間、己が耳を疑った。疑わずにはいられなかった。何でもない、それこそ今日の天気のように呟かれた宣言は残酷そのもので。規則正しく脈打っていた胸は早鐘と化し、全身からは厭な汗がどっと噴き出す。
「俺はこの街の死刑執行人として君を殺すように市長に命じられてね。公開はせずに、人目につかない早朝に処刑しろ、と。俺はこれでも官吏だから、上司の命令には従わないといけないんだ」
内容にそぐわぬ、優しげでありながら淡々とした喋り方はいっそ不気味ですらあり、尻もちをついてへたり込まずにはいられなかった。
床面に接する肌から伝わる冷気は、細い体を
「今出してあげるよ」
鈍く輝くものが鍵穴に差し込まれ、あまりにも短い人生を閉ざす非常な音が轟く。フィネはおいでと穏やかに佇んでいるが、彼の招きに応じた先に待っているのは凄惨な死。そして大好きな彼女との永遠の別離である。それが分かっているのに、おとなしく応じる馬鹿などいるはずがない。
「わ、わたしは何もやってない! さっきも言ったように修道院から出たこともなかったから、殺されるようなことをやる機会もなかった! それに、」
再びその場にへたり込んだ少女は首を振り、仕方ないとでも言いたげな様子でにじり寄る男に捕まるまいと後ずさる。しかし数分の後には努力の甲斐なく腕を掴まれ、牢の外に引きずり出されてしまった。
「わたしはまだ生きたいんだ!」
窮地に追い込まれてもなお、諦めずに拘束された腕を振り回す。だが、男の掌の硬さから逃れることはできなかった。
「ここに放り込まれた人たちの大半は、もっと生きたいと願っただろうね。だけど、」
みんな死んでしまったよ。そして君もその一人になるんだ。
容易に想像できた不吉な文句の続きは、少女が抱える恐れと不安を増幅させる。
「ふざけるな! そんなこと、納得できる訳ないだろう!?」
セレーヌは深手を負った獣の仔よりも懸命に手足を動かしたが、フィネにとっては児戯に等しい抵抗だったのだろう。
「君の首は細いから、君が勇気を出してほんの少し我慢してくれさえすれば楽に斬首できるだろうし、腕には自信があるからそんなに怖がる必要はないんだよ」
片腕はいまだ捕らえられていながら果敢に、あるいは無謀にも喚きたてる少女の喉元に、武骨な指先が伸ばされる。
「わたしは無罪なのに、どうして殺されなければいけないんだ!?」
「君自身は何もやっていなくとも、身内の誰かが重罪を犯したのかもしれないね。今も昔も良くあることだ」
対照的に落ち着き払った青年の態度は、首を掴まれ火に放り込まれる寸前の猫の仔さながらにもがく少女の拳で打たれても変わらない。
「何でもするから、お願いだからわたしを助けてくれ!」
しかし、今宵発せられたいくつもの叫びの中でもとりわけ悲壮な響きと同時に、物静かな瞳は揺らめく火影を宿して明るんだ。
息を詰めて闇と光のせめぎ合いを注視する。首が痛くなるほど高い位置にある顔は炎の揺らぎによってその陰影の趣を変えていたが、やがて光明が暗黒を追い払った。
はっきりと照らし出された顔立ちを構成する、どことなく酷薄そうな印象を醸し出すやや薄い唇が緩やかに動く。
「何でもする、ね。だったら、」
投げやりに提示された条件はにわかには信じがたいもので、亡き女に「零れ落ちそうに大きい」と称賛されていた目を常よりも更に大きく瞠らずにはいられなかった。
「ここはこんな場所だし、あれだけじゃ流石に情緒に欠けているか」
沈黙をあらぬ方向に解釈したのか。青年は恭しく跪いて黒ずんだ血がこびり付いた指先に唇を落とし、黙りこくった少女に返事を促す。
柔らかく湿った肌の感触は確かにセレーヌをこちらに呼び戻したのだが、慣れぬどころか初めて触れた異性の肌は、震える舌の根を強張らせた。全身の血は沸騰し、自身の鼓動ばかりが嫌に大きく聞こえる。だが、迷っている暇などありはしないのだ。
突然に持ちかけられた提案はとても信じられないけど、それで助かるならば、どんな手段を取っても構わない。
「それは良かったよ」
簡潔に吐き出された了解の文句の端に、僅かながらの喜色が滲んでいるように聞こえたのは単なる錯覚なのかもしれない。しかし、青年に牢の外に連れられてから仰ぎ見た空は、鉛色の雲がまばらに散ってはいるものの澄み切って柔らかな蒼を湛えていた。夜は既に明けていたのだ。
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