第十二話 女性

 突然耳元で大きな音が鳴って、僕は一気に目覚めて飛び起きた。

 枕元のスマートフォンを取って画面を見ると、ちょうど朝の六時だ。部屋中に鳴り響いていた甲高いアラームを止めて、いくつか設定していた保険のアラームを次々とオフにした。

 この時間ならまだ夜勤明けの店長がいるはずだと、僕はバイト先のコンビニへさっそく電話をかける。思ったとおり、店長が心なしか眠たそうな声で電話に出た。僕はクビになる覚悟で、今日はどうしてもバイトに行けないこと、そして、これからほとんど出られなくなるかもしれないことを伝えた。

 最初は「困る」の一点張りでお互い引く気を見せなかったけど、僕が何度も何度も謝り続けると、ようやく諦めたのか店長は黙る。


「――そっか。まぁ下川くんには、今まで色々と無理を聞いてもらっちゃったからね」

「本当に急で、すみません」

「組み直すの大変だけど、なんとかするよ」

「すみません。ありがとうございます」


 そして、いつでも戻れるように籍だけは残しておくね、と店長は言ってくれた。

 ただでさえ急な休みで迷惑をかけて、そのうえ次の出勤は未定だなんてすごく勝手なことを言ったのに。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


「僕は音楽のことはよくわからないけど、まぁ夢が叶うのはいいことだと思うよ。僕の学生時代なんかもさぁ――」

「す、すみません。僕、これからインタビューがあって……」

「インタビュー? へぇ、なんだかプロみたいだね。それじゃ頑張ってよ」


 長くなりそうな予感がして、慌てて話を切り上げた。名物の長話もしばらく聞けないと思うと、なんだか少し寂しい。

 電話が終わって、僕は暗い廊下を忍び足で通り抜けて、キッチンのテーブルに置いてあった食パンを一枚取り出して部屋へ戻った。もうすぐあの人・・・が起きてきて、仕事に行く準備を始める時間だ。もうずっと顔を合わせていないし、こないだから僕に話しかけてくる気配はない。

 店長が言った〝プロ〟という言葉が耳に残っている。電話がまだ続いていたら、もうプロです、と言えただろうか。いつか胸を張ってあの人に言える日は来るのだろうか。これから先<下川八百太やおた>という存在がどんどん一人歩きしてしまうような、そんな予感を感じながら、食パンにかじりついた。




 十時を過ぎた頃、そろそろこちらへ来てくれと柳沢社長からメールがあった。カメラが回るわけではないから、気楽にしていていいとも。

 新人の僕がインタビューでどんなことを聞かれるのか、ある程度予想はできた。音楽を始めたきっかけ、そしておそらくデビュー曲になる、こないだ投稿した曲のこと。どう答えるかを頭の中でまとめながら、僕は事務所へ向かった。

 電車の中で、家を出る前にスマートフォンに入れたケイレヴの曲を聴く。メタル色の強いラウドロックサウンドと、<Kayケイ>さんのオーラそのものをあらわしたような華麗な歌声。驚いたのは、中性的な見た目からは想像できない<Natsuナツ>さんのく、ゴリゴリと押し潰してくるようなベース。

 正直、ヴィジュアル系はチャラチャラしたイメージがあったけど、ケイレヴは音の質感も世界観も、どちらかと言えば硬派な部類だと思った。

 昨日と同じようにビルの入り口から中に入って、individualismインディヴィデュアリズムのドアの前で息を整えて、ノックする。すぐに「どうぞ」と、おそらく柳沢社長の声が聞こえてきて、そっとドアを開けた。

 中に入ると、島田さんが柳沢社長に深く頭を下げていた。ただならないピリピリした空気が伝わってきて、挨拶をするタイミングどころか、それすらためらってしまう雰囲気だ。柳沢社長は一瞬こちらを見て、またすぐに島田さんに向き直る。


「島ちゃんキミ、彼にお茶のひとつも出さなかったそうじゃない」

「あっ……も、申し訳……」

「困るのよね~、いつまでも新人気分じゃ」


 島田さんは消えてしまいそうな声で何度も「申し訳ありません」と謝っていた。

 柳沢社長は大きく息をついたあと、テーブルに移動して椅子に座る。


「<八百太やおた>クン、そんなとこで突っ立ってないで。さ、そこに」


 そして、僕を向かいの席に座るようにうながした。


「今回の話、急でごめんなさいね。昨日も行けなくて。ちょっと、トラブルがあってね」


 柳沢社長は書類をチェックするようにパラパラとめくりながら、島田さんを嫌な目で見た。


「このあと事務所に取材のかたがいらっしゃるわ。ボクはちょっと出ないといけないんだけど。あとのことは島ちゃんに任せてあるから、三人でよろしくやってちょうだい」

「三人?」

「……あら、な~んにも聞いてないのね」


 再び島田さんを、さらにきつい目つきで睨む。


「実は今日、もう一人呼んであるの。最近ウチに入った子だから、キミと同期になるわね」


 そう言われて、僕は昨日のことを思い出してしまう。楽しみにしていたレーベルメイトとの出会いは、僕が思っていたものとは違っていて、少しショックだった。

 ふと書類をめくる手を止めた柳沢社長が、にんまりと笑いかけてくる。


「<りんちょこ>っていうんだけど」

「えっ……!」


 柳沢社長の口から飛び出した意外な名前に、僕はびっくりしてつい声を上げてしまった。


「し、知ってます。僕、前にコラボしていて」

「やっぱりそうよね~。そう思って二人をぶつけたのよ」


 予想外の展開に、色んなことが頭の中から飛んでいきそうになる。同時に、一気に緊張で胸がドキドキした。<りんちょこ>さんもindividualismインディヴィデュアリズムに所属して、まさか今日こんな形で会うことになるなんて。

 話してみたいと思ったことは一度や二度じゃなかったけど、名前からしてきっと女の人だろう。うまく話せるか、だんだん不安になってきた。

 柳沢社長はテーブルの上で書類の束をトントンと揃えると、それを鞄に入れて立ち上がった。


「じゃ、ボク行くから。あとは頼んだわよ~」

「お疲れさまです!」


 僕がそう言おうとしたら、島田さんが大きな声で返した。

 柳沢社長が出て行ったとたん、島田さんの目から涙がぼろぼろとこぼれる。突然泣き出した島田さんに、僕はどうしたらいいかわからなくて、どう声をかけようか必死で考えた。


「わ、わたし、<りんちょこ>さんと<八百太やおた>さんに、本当に申し訳ないことを……」


 すると、島田さんのほうから声をかけてきた。


「あの、なにがあったんですか?」

「今日のインタビュー、本当は別のアーティストが受けるはずだったんです。でもわたし、スケジュールを押さえるのを忘れていて。先方はもうカンカンで……代わりにお二人を出すことで、社長が話をつけてくれたんです」


 取り出したハンカチで涙をきながら、島田さんは言う。


「二人は期待の新人、ですから」


 島田さんにそう言われて、僕はなにも言えなかった。自分で自分を軽蔑しているような、そんな意味が込められていたような気がしたから。

 僕が黙っていると、島田さんははっとしたように「すみません」と謝ってきた。


「わたし、この通りダメな人間なので、どこにも就職できなかったんです。それで、父の知り合いの柳沢社長に拾ってもらって。音楽のことは、まだまだ勉強中なんですけどね」


 困ったように笑う島田さんを見て、僕は妙に納得する。

 正直、初めは違和感があった。柳沢社長やケイレヴのメンバーの中にいる島田さんに、僕はなんとなくしっくりこないでいたのだ。


「暗くなっちゃってごめんなさい。ふつつか者ですが、これからもよろしくお願いします!」

「いえそんな、こちらこそ」


 お互いに恐縮してぺこぺこと頭を下げ合う。

 マネージャーといっても、まだ僕と同い年くらいだ。営業や宣伝、アーティストの管理はきっとすごく大変だと思うし、僕にはまねできない。

 そんなやり取りをしていると、事務所の扉がノックされた。島田さんがどうぞ、と入るようにうながす。


「失礼します」


 扉が遠慮がちに音を立てて開き、黒く長い一房の髪を垂らしながら、眼鏡をかけた女の人がひょっこり顔を覗かせる。

 そのままゆっくり姿を現すと、黒いワンピースにパーカーを羽織った大人しそうな女の人だった。二十代後半か三十代前半くらいで、ケイレヴのメンバーや洋香ひろかさんと同い年くらいに見える。


「お待ちしてました! 急で本当に申し訳ありません、<りんちょこ>さん」


 島田さんがそう呼んで、僕は思わず腰を上げる。大きなリュックを背負っているし、てっきり取材の人かと思っていた。それに、別世界の住人みたいなオーラの<Keyケイ>さんを見たあとだからか、正直どんな人を見ても普通の一般人に見えてしまう。

 すると僕の視線に気づいたのか、こちらを見た<りんちょこ>さんと目が合った。


「……<Linリン>さん?」


 <りんちょこ>さんはうかがうように首をかしげながら、僕のもうひとつの名前を呼んだ。

 立ち上がってはいたものの、僕はこの場で頷くことしかできなかった。いざ本人を目の前にすると、歩き方を忘れてしまったみたいに動けない。


「会えるの楽しみにしていたんです、わたし」


 そう言って<りんちょこ>さんはこちらへ歩いてくる。


「リアルでは初めまして、<りんちょこ>です。コラボではお世話になりました」

「は、初めまして。こちらこそ……」

「社長から聞きました。これから本名でご活躍されるそうで。今日はよろしくお願いします、<下川八百太やおた>さん」


 <りんちょこ>さんが握手を求めるように手を差し出してきて、僕はためらいながらその手に触れると、ぎゅっと握られて一気に恥ずかしくなった。


「もうすぐですよね? 取材のかたがお見えになるのは」

「あ、そうですね。もうすぐかと」

「わかりました。少し準備させてください」


 島田さんにそう聞いたあと、<りんちょこ>さんは重たそうなリュックからノートを一冊取り出して、確認するようにページを指でなぞっている。

 気弱そうにも見えた外見とは裏腹に、ハキハキとして礼儀正しい人だ。島田さんよりもマネージャーらしく見えてしまって、僕はなんだかおかしくなってしまった。




 それからしばらくしてインタビューの人が事務所へやってきて、僕は驚いた。ネットでフェスのライブレポートを何度も見たことのある、音楽情報サイトSWEETスウィート SCREAMスクリームのスタッフさんだったからだ。

 インタビューはどうやら、僕と<りんちょこ>さんの対談形式らしい。始まる前に<りんちょこ>さんが「大丈夫ですよ」と、僕の緊張をほぐすかのように優しく言ってくれた。

 ボイスレコーダーが回されてインタビューが始まると、<りんちょこ>さんが僕をリードするように会話を進めてくれた。途中、僕のデビュー曲のタイトルを聞かれて島田さんを見ると、案の定顔を真っ青にしている。戸惑っていると、<りんちょこ>さんが「リリースまで秘密なんです」と、うまく流してくれた。

 スタッフさんの話によると、僕がこないだ投稿した曲がデビュー曲になるらしい。僕の思ったとおりだった。まさか、スタッフさんから教えてもらうことになるとは思わなかったけど。あれは、自分・・でもよく作れたなと思うくらいインパクトのある曲だから。


「――それで<八百太やおた>さんは、最初は<りんちょこ>さんのためだけに曲を?」

「はい。唯一僕のアップを楽しみにしてくれていて、そのあとコラボもさせてもらって。それがきっかけで、たぶん一位に……」


 そしていまは、僕がRAMPANTリァンペントで一位になるまでの経緯と、<りんちょこ>さんとの関係を聞かれている。


「リアルで嫌なことがあったときも、すごく励まされたんです。メールとか、コメントとか」

「かけがえのない存在なんですね」

「本当に感謝しています。<りんちょこ>さんのおかげで、僕の人生は変わりました」


 僕の目線はスタッフさんに向けたままだったけど、<りんちょこ>さんに伝えたかったことを全部言えた気がする。隣に座っている<りんちょこ>さんがどんな顔をしているかは、恥ずかしくて確認できなかった。

 最後にツーショットの写真を撮られて、無事にインタビューは終わった。撮影のとき<りんちょこ>さんは目元だけを隠す仮面をつけていたけど、きっと顔出ししたくないんだろう。

 それから残った僕たち三人で、今後の活動についてやスケジュールの確認作業が続いた。本日中にindividualismインディヴィデュアリズムの公式サイトで、僕たちのデビューが発表されるらしい。それに合わせて、ブログなどでも各自発表をするように、と言われる。

 ミーティングが終わって事務所を出ると、外はもう薄暗くなっていた。そのまま帰ろうとしたとき、背後から<りんちょこ>さんに呼び止められて、これからご飯に行こうと誘われる。

 いま帰ればあの人と顔を合わせずに済むけど、滅多にない機会だと思う気持ちが勝って、僕は行くことにした。




 急に誘って申し訳ないからと、わざわざ<りんちょこ>さんは僕の最寄りの駅まで来てくれた。

 繁華街に出て、お店の前に立っている客引きの人に誘われるがままに、僕たちはチェーンの居酒屋に入る。

 電車の中ではほとんど会話がなかったけど、さすがに二時間も飲んでいると、<りんちょこ>さんは酔ってきたのか積極的に喋るようになった。


「<八百太やおた>さん、お酒は飲まないんですか?」

「はい、飲めないんです」

「ちょびっとだけでも?」

「ちょびっとだけでも、です」


 このやり取りも、もう三回目になる。

 <りんちょこ>さんはカクテルをぐいっと飲み干して、ふうっと息をついた。


「本当にびっくりしたんです。まさか、こんなにかっこいい人だったなんて」

「はぁ……」

「わたしなんて、こんな顔だから」


 これもたぶん、三回くらい言われた。最初は僕も「そんなことないです」と否定していたけど、だんだん面倒になってくる。


「わたしは別に顔出ししても良かったんですけどね。お前はデブスだからだめだって、社長が」


 会話を流そうとしてふと、初めて聞いた内容だと気づく。

 そういえば撮影のとき<りんちょこ>さんは仮面をつけていて、僕のうしろで身体を隠すような体勢だったことを思い出した。


「わたしってそんなにブスなのかな」

「い、いや、そんなことないですよ。ぜんぜん」

「……本当に?」


 僕が必死に否定すると、<りんちょこ>さんは目をうるうるさせながら聞いてくる。

 それにしても、柳沢社長は言いすぎだと思う。人の見た目を平気でけなすなんて、僕には理解できない。生まれてきてから変えようのないものだってたくさんあるのに。


「そうですよね。<八百太やおた>さん、言ってくれましたもんね。『僕の人生が変わった』って」


 <りんちょこ>さんの目から、ついに涙がこぼれて頬を流れた。

 僕はもう我慢の限界で、帰る提案をしつつ、それを無理矢理にでも実行しようと決めた。一日に二度も女の人に泣かれるのは、本当に勘弁して欲しい。

 なんとかレジまで辿り着いたけど、<りんちょこ>さんは俯いたまま僕の肩に寄りかかっていて、呼びかけたけど返事がない。とても財布を出せる状態じゃなさそうだ。僕は仕方なく二人ぶんの会計を済ませて、<りんちょこ>さんを半分引きずるようにして店を出た。


「<八百太やおた>さんって、一人暮らしですか?」

「いえ、実家ですけど」

「まだ若そうだから、門限とかあったりして」

「いえ、そういうのは……」


 <りんちょこ>さんは何度も僕の腕にしがみついてきて、その度にやんわりと振り払いながら歩いた。それにさっきからわけのわからないことを聞いてくるし、かなり酔っているんだと思う。

 スキップをしながら歩いていく<りんちょこ>さんのペースに合わせながら、ふと気がつくと、なんとなく妙な雰囲気の場所に出ていた。

 途中で道を間違えたのかもしれない。引き返そうとしたそのとき、すぐそばを一組のカップルが通り過ぎる。カップルがそのまま近くの建物に入っていくと、突然腕を強く引っ張られて、僕はよろめいた。


「……えっ?」


 <りんちょこ>さんは僕の腕を乱暴に掴んだまま、カップルに続いて建物に入ろうとする。

 建物の目の前まで来てぎょっとした。


「いや、あの、待って。待ってください!」


 無理矢理引きずり込まれそうになって、本気で踏みとどまった。ネオンの看板に、HOTELホテルの文字がさりげなく並んでいる。


「もう帰りましょう、帰ってください! お金は今度でいいですから!」


 僕は世間体も何もかも無視して、大きな声を出してしまったかもしれない。

 ここがどういう設備で、何をする場所なのか頭ではわかっていた。気づかないまま入っていたかと思うと、背筋がぞっと冷たくなる。


「……はぁ? なに言ってんの、あんた」


 すると突然、それまで気分良さそうに酔っていたはずの<りんちょこ>さんが、信じられないものを見るような顔で言い放った。


「女にここまでさせといて、しかも割り勘の話って……信じらんない。ちょっと顔がいいからって、調子乗ってんじゃねぇよ」


 <りんちょこ>さんは悪びれもせず、最後に「ガキが」と捨て台詞を吐いて立ち去っていった。

 信じられないのは、たぶん僕の方だ。いまなにが起きたのかよくわからなくて、どうしたらいいのかわからなくて、ただただ怖くて落ち着かないでいる。

 もう何も考えたくなくて、僕は全力で走った。昔の嫌な記憶が全身にまとわりついているみたいで、それをふるい落とすように。自分の呼吸の音と、洋服のれる音だけが聞こえる。何度も人とぶつかりそうになりながらも、なりふりかまわず走った。ふと、なぜか永遠に家まで辿り着けない気がして、だんだんと速度が落ちていく。

 僕の足が完全に止まろうとした瞬間、ブーッブーッと、ポケットの中のスマートフォンが震えていることに気づいた。洋香ひろかさんからの着信だ。僕はもうわらにもすがる気持ちで、通話ボタンをスワイプさせた。




 それから電話で何を喋ったのかよく覚えていないけど、洋香ひろかさんはすぐに駆けつけてくれた。

 いったいなにがあったのか、つっかえながらなんとか話す僕は、たぶんかなり怯えていたんだと思う。洋香ひろかさんは黙って僕の話を聞きながら、壊れ物でも扱うみたいに、慎重に接してくれているように思えた。そして「大変だったね、頑張ったね」と、僕を思いやる気持ちがこもったねぎらいの言葉に、目の奥がじんわりと熱くなる。


「<Linリン>くんはさ、女の子が嫌いなの?」

「嫌いかはわかりませんが、苦手です」

「もしかして、男の子がスキ、とか?」

「……わかりません」


 正直それも考えたことはあるけど、男の人が好きな自分、というのもしっくりこないでいた。


「苦手というか、怖いのかもしれません。子供の頃はよく物がなくなったり、ストーカーっぽいことをされてきて。やめて欲しいと言ったら、今度は性格が悪いって噂を流されて、エスカレートして……」


 子供の頃、知らない女の子が家までついてくることがよくあった。なにかされるたびに有麻ありまが追い払ってくれたから、それだけならまだ良かったのかもしれない。

 しばらくして今度は、陰でこそこそと悪口を言われるようになる。大人になるにつれて直接言われることは少なくなったけど、なんでも人間は「顔がいいと性格が悪い」そうだ。なにかにつけて顔が、顔がと、いつも呪いみたいについてきた。

 だからいまでも僕は、自分の顔をどうしても好きになれないでいる。


「あるにはあるんです、女の人とつき合ったこと。でもそれも、別れたらまた嫌がらせをされて……」


 高校一年の頃、一度だけつき合ったことがある。相手は三年の、少しおっとりした先輩だった。その頃の僕は音楽にのめり込んでいて、デートらしいデートもしていなかったと思う。

 だからなのか、先輩が優しかったのは最初だけで、恋人同士ならごく自然な行為だって何度も強要された。別れてからも家の前で何度も待ち伏せをされて、最終的に知らない男の人もやってきて、先輩を傷つけた慰謝料を払えと殴られて。そのときは、怖くてしばらく外に出られなかった。


「そんな僕を見かねた幼馴染の子に、いや、もうずっと前から言われ続けてきたんです。女の人はみんな僕を見ていて、みんな僕にキ……さ、触りたいと思っている。だから『女の人に近づかないで』って」


 だから僕はきっと、誰のことも好きになったことはなかった。

 いま思えば、有麻ありまのそれは洗脳に近かったのかもしれない。だって洋香ひろかさんみたいな人もいるんだから。

 そこでふと、疑問に思う。


「あの、洋香ひろかさんは……洋香ひろかさんはどうして、僕に優しくしてくれるんですか」


 思わず僕は、頭に浮かんだことをそのまま口に出してしまった。


「すみません、僕……」

「んーん。あんなコトがあったあとだもん。疑っちゃって当然だよねー」


 少し困ったように笑う洋香ひろかさんと目が合った。そして、洋香ひろかさんはどこを見るでもなく、ぼんやりと宙を見つめている。


「でも、安心して。洋香ひろかの好きな人は変わらない。今でもずっと――」







すず?」


 そのとき突然、名前を呼ばれて僕と洋香ひろかさんは同時に見る。呼ばれた方向には、スーツ姿の有麻ありまが立っていた。

 すると有麻ありまは、血相を変えてずんずんとこちらに迫って歩いてくる。


「こんなところでなにしてるの! 帰るよ!」


 有麻ありまはいきなり僕の手を掴んで洋香ひろかさんから引き離すと、そのまま強引に歩き出そうとした。


「ちょ、ちょっと待ってよ有麻ありま


 洋香ひろかさんは両手を合わせて謝るようにしたあと、行って、と手で追い払うようなジェスチャーをする。すかさず有麻ありまは、まるでここから逃げるように歩き出した。




 有麻ありまに手をひかれながら僕は、自惚れていた自分が恥ずかしくてたまらなかった。もしかしたら洋香ひろかさんは僕を好きかもしれないなんて、勘違いにもほどがある。洋香ひろかさんは今でも、亡くなった八百太やおたさんを忘れられないんだ。僕はなんてことを聞いてしまったんだろう。

 そして、なすすべもなく有麻ありまに連れて行かれ、置いていってしまったことを申し訳なく思った。こうなった有麻ありまに、僕はずっと逆らえないんだ。

 あと数メートルで自宅のマンション前に着くというとき、ようやく有麻ありまは手を離してくれた。


「ここまで来れば安心だね。大丈夫だった?」

「別に、なにもされてないよ」

「嘘! だってすず、顔色悪いじゃない」


 それは洋香ひろかさんのせいではないけど、今日あったことをもし有麻ありまに話したら、事務所に乗り込むと言い出しかねない。


「危ないから女の人と一緒にいないでって、何度も言ったじゃない! 私がたまたま残業で通りかかったから良かったけど」

「あの人はそんなんじゃないよ」

「それも嘘。あわよくばすずとどうにかなりたいって感じだった。若くもないくせに、いやらしい」

「……いいかげんにしてよ」


 何も知らないくせに、よくそんな軽はずみなことが言えると、洋香ひろかさんを悪く言われたことに腹が立った。

 だけど、どうせなにを言っても無駄だ。だからこうやって話していても意味がないし、もう帰ろうと有麻ありまに背を向けようとした。


すず、本当に顔色悪い……」


 そのときだった。冷たくて生々しい感触が、突然僕の頬に吸い付いてきた。

 有麻ありまの手だ。指が、僕の輪郭をなぞるように動く。女の人特有の――。


「ひっ」


 瞬間、頭の中で、僕の全部が一気に退行していくような感覚に襲われた。目には見えていないはずのスクリーンに、高校の先輩が、<りんちょこ>さんが途切れ途切れに、だけどはっきりと現れて通り過ぎていく。


「――触るなっ!!」


 気づくと有麻ありまは、僕が突き飛ばしてしまったみたいに座り込んでいた。

 いつの間にか僕の全身は冷えきっていて、だけど背中には汗が流れているのがわかる。心臓がすごくうるさい。有麻ありまが僕に向かってなにか言っているような気がしたけど、とにかくもう家に帰りたかった。

 いつからだろう。有麻ありまは僕に、子供の頃とは違う態度を見せてくるようになった。気持ち悪い。何か飲みたいのか、吐き出したいのかもうよくわからなかった。ぼんやりと薄暗くなっている視界だけを頼りに、僕はマンションの通路を進んだ。

 子供の頃も、高校生の頃もバイト中も、僕はいつだって我慢してきた。もうたくさんだ。







 タイトル:デビューが決まりました


 こんばんは。今日は皆さんにお知らせがあります。

 このたび僕<Linリン>は、本名の<下川八百太やおた>としてデビューすることが決まりました。

 契約した音楽レーベルは、individualismインディヴィデュアリズムです。

 CDの全国リリースに向けて、これから音源の制作も開始します。

 今までは僕一人の活動でしたが、これからはレーベルの人たちと一緒に活動していきます。

 いつも応援してくれる皆さんのおかげです。ありがとうございます。

 本当に嬉しくて、身体が震えています。

 精一杯頑張っていきたいと思いますので、これからも応援よろしくお願いします。

 それでは、おやすみなさい。


 03/04 23:09



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