第十話 柳沢

 気づいたらもう朝の八時を過ぎていた。

 カーテンを少しめくると、眩しい光に射されてまぶたがちくっと痛む。さっきまでまだ深夜だったのに、あっという間に時間が経ってしまった。時間を忘れてこんなに夢中になったのは久しぶりだ。

 ベース、ドラムの打ち込みも終わり、一通り完成したらピアノのテンポがずれすぎていて、迷ったけど消させてもらった。代わりにつけたストリングスの音は、八百太やおたさんのピアノをなるべく近い形で再現したつもりだ。


「……ふぅ。できた」


 ヘッドフォンを外して、完成した曲をスピーカーから流す。ロックベースの僕のサウンドと八百太やおたさんの歌声は、想像以上にマッチしていた。まるで新しい命が吹き込まれたように、僕の曲は生き生きとしている。

 曲の最終チェックも終わり、さっそくRAMPANTリァンペントにログインしてアップロードする。そのあいだ返信漏れがないかコメント欄をスクロールしていて、そこでふと、おそらく例の書き込みの犯人は八百太やおたさんだと確信した。

 メールの下書きに保存されてあった八百太やおたさんの日記を思い出す。僕があのコンビニで働いていることと、<Linリン>だとわかっていたのは八百太やおたさんしかいない。僕は恨まれていたから、きっと仕返しでやったんだろう。

 こんなこと言える立場じゃないのはわかっているけど、もしも八百太やおたさんが生きていたらバックでギターをいてみたかった。洋香ひろかさんの言ったとおりだ。八百太やおたさんの歌声は、うまく言えないけど、自分の中にある特別な部分を動かしてくれる。そして、そこに一緒に触れてみたいと思わせてくれるんだ。




 それからどうしたのかはよく覚えていないけど、スマートフォンの振動でハッと目が覚めた。

 部屋の時計を見ると、まだ十一時だ。身体がなにか食べるものを欲しがっているのか、胃がきゅっとする。いつ寝たのか思い出せないけど、どうせならお昼過ぎまで寝ていたかった。

 電源を切り忘れていたパソコンからメールをチェックすると、洋香ひろかさんからとんでもない量のメールがきていた。全てのメールにファイルが添付されてある。きっと八百太やおたさんの歌声だ。もっと違う方法で受け取れば良かったと、なんだか申し訳ない気持ちになる。

 送られてきたファイルを一件一件ダウンロードしていると、ふと、知らないアドレスからのメールが混ざっていることに気づいた。開いて、思わず目を見張る。


RAMPANTリァンペントに登録されている<Linリン>さまに……ご活躍いただきたいと考え……これって、もしかして」


 individualismインディヴィデュアリズムという音楽レーベルからのメールは、どう見ても所属のスカウトだった。

 どこかで聞いたことのある名前だ。ネットで検索をかけてみると、どうやらRAMPANTリァンペントの運営に関わっているレーベルらしいということがわかった。ホームページの所属ミュージシャン一覧表には、RAMPANTリァンペントで見たことのある名前もある。

 だけどメールのタイミングを考えても、きっと八百太やおたさんの歌がなければ声はかからなかったと思う。僕は少し複雑な気持ちで、一度会って詳しい話を聞いてみたいと返信した。

 それにしても、スマートフォンの通知音がさっきから鳴り止まない。たぶん寝る前にアップした曲の反響だ。八百太やおたさんの歌声は、スカウトが来るほど魅力的なのだから。


「……え?」


 手にしたスマートフォンを見て、僕は自分の目を疑った。画面には『<Linリン>の声カッコ良すぎ』『これ<Linリン>が歌ってるの!?』『ついに歌声初披露』と、RAMPANTリァンペントからの通知がリアルタイムでどんどん流れてくる。

 どういうことかわからなくて不安になっていたけど、しばらくして、朝早くに書いたブログの存在を思い出した。急に嫌な予感がして、すぐにパソコンからブログのマイページへログインする。


「……やっぱり」


 作曲に必死でまったく気づかなかった。この文章の書き方では、八百太やおたさんではなく、まるで僕が歌っているみたいじゃないか。そうなると、スカウトをしてきた人はきっと、あの曲を歌っているのは僕本人だと思っているはずだ。メールで確認の連絡をした方がいいのか、まずは曲を一度削除した方がいいのか、それともブログで訂正をするべきか。

 何から手をつければいいのか戸惑っていると、突然、画面が知らない番号からの着信に切り替わった。もしかしたらレーベルからの連絡かもしれないと、そわそわしながら通話ボタンをスワイプさせる。


「……はい」

『もしもーし、<Linリン>くん? 洋香ひろかだよぉ』

「ひ、洋香ひろかさん? なんで……」

『えへへ。昨日、メアドと一緒にこっそり登録しちゃった』


 意外な相手からの電話に残念なような、ほっとしたような変な気持ちだ。それと同時に、洋香ひろかさんに伝えて、そして謝らなければと思った。


洋香ひろかさん、実は――」

『それより曲聴いたけど、すっごい感動しちゃった! ホントに八百太が<Linリン>くんの曲を歌ってるみたい。RAMPANTリァンペントだっけ? 今頃ぜったい盛り上がって――』

「あの! それなんですけど。僕、曲をアップしたあとすぐに寝ちゃって……みんな、僕の歌声って勘違いしているみたいなんです」


 一方的に喋り続ける洋香ひろかさんに、僕は強引に言葉を被せて話す。


「それでその、レーベルからもスカウトが来て」

『えっ、ホントに!? すごーい!』

「違うんです。たぶん、八百太やおたさんの歌声を聴いて……」

『あー、なるほど。レーベルはあの曲を<Linリン>くんが歌ってると思ったワケね』


 洋香ひろかさんがどう思ったのか、電話の向こうの声からはわからない。


「本当にすみません。僕、これからブログでちゃんと説明します」

『え。べつにアレ、<Linリン>くんが歌ってることにしちゃえば?』

「……はい?」


 予想外の提案に、考えるより先に聞き返してしまった。


『だって、八百太やおたはもうデビューできないもん。それなら<Linリン>くんが歌ってるコトにしちゃえば、八百太やおたの歌はCDになるんでしょ? そしたらもっと有名になって、色んな人に聴いてもらえるじゃん』

「そ、そんな、無茶ですよ」

『それに、もうみんな<Linリン>くんの歌声って信じちゃってるんでしょ?』

「それは……」

『寝ちゃって書き忘れてましたってイイワケするの? 実は僕じゃないですって今から言う? もしかしたらアクセス稼ぎって思われて、嘘つきって言われちゃうかもよ?』


 洋香ひろかさんの言うことも一理ある。今更訂正したところで、僕がみんなの立場だったら意味がわからないし、みんなに、<りんちょこ>さんにがっかりされるのは嫌だ。

 それに正直、やましい気持ちがないと言ったら嘘になる。どんなかたちだとしても、デビューして、プロミュージシャンという肩書きが持てるかもしれない。そうなったらあの人はどんな顔をするんだろうと考えて、少しワクワクした。


『とりあえずまだ訂正はしないでおいて、まずはレーベルのエライ人に事情を話してみよ?』


 たしかに、最終的に訂正することになったとして、レーベルの人に会ってからでも遅くはないかもしれない。


「わかりました。一応、また連絡します」


 そう言って電話を切ると、僕はすぐに机の引き出しを開け、自分の歌声が入っている音源を探し始めた。

 電話をしながら、どうすればいいかずっと考えていた。そううまくはいかない。事情を話せば、きっとデビューの話はなくなってしまう。それなら洋香ひろかさんには悪いけど、僕個人のアピールが少しでもできればいいと思った。

 八百太やおたさんを利用しているみたいで罪悪感はあったけど、そもそもが間違っているんだ。訂正して、書き忘れていたことをちゃんと謝れば、みんなも<りんちょこ>さんもきっとわかってくれる。そう自分に言い聞かせながら、僕はあの人が悔しがる顔を何度も想像していた。




 レーベルから折り返しメールが送られてきていて、さっそく会うことになった僕は、駅前の指定された喫茶店に着いた。

 案内された席に広げられたメニューを見て、相手が来る前に注文していいものかどうか迷う。約束の時間の十六時になったけど、まだ来る気配がない。このまま何も頼まないでいるのは気まずかったので、生姜入りの紅茶を注文した。

 わざわざ出向いて来てくれるんだし気長に待とうと、鞄からイヤホンを取り出して耳につける。事前にスマートフォンに入れてきた、僕の歌声が入った音源。それを聴きながら、二年前に組んでいたバンドのことを思い出す。

 高校の同級生にギターボーカルで誘われて、なんとなく加入したバンドだった。僕以外のメンバーはみんなプロを目指していて、レコーディングも賑やかで楽しくて、すっかり打ち解けていた。

 だけど、お客さんがいたことは一度もなかった。プロになるためには具体的にどうすればいいか分からなかったんだと思う。お客さんのいないライブは拷問だ。バカみたいで、恥ずかしくて、泣きたい気持ちに耐えながら僕は、ライブハウスのPAピーエーさんや照明さんに向かって演奏をしていた。

 嫌なことばかり思い出しながら、店員さんが持って来てくれた紅茶に口をつける。すると突然ドカッと向かいの席に、誰かが座った。慌ててイヤホンを外して顔を上げたとたん、ぎょっとしてしまう。


「キミが、<Linリン>クン?」

「はい……」


 目の前にいたのは、いかにも柄の悪そうなスキンヘッドの男だった。


「遅れてごめんなさいね。あ、ボク、ブレンドね」


 男はやって来た店員さんにそう言うと、カードケースから名刺を一枚引き抜いた。


「初めまして~。individualismインディヴィデュアリズム柳沢やなぎさわで~す。一応社長やってま~す」

「は、初めまして。<Linリン>、えっと、下川鈴男すずおです」


 渡された黒い名刺には『代表取締役社長 柳沢敬やなぎさわひろし』と、レーベル名のindividualismインディヴィデュアリズムが金色の文字で書かれている。

 間違いなく約束していた人のようだけど、まさか社長が来るなんて思ってもいなかった。三十代か四十前半くらい、社長にしては若く見えるし、トレーナーにジーンズとラフな格好だ。女の人のような喋り方も少し気になる。


「すみません。僕、名刺持ってなくて……」

「い~のい~の。こんなの、文字印刷しただけの紙切れよ」


 そう言って笑う柳沢社長は、一見怖そうに見えるけど、優しそうで少しホッとした。

 店員さんがコーヒーを持ってくると、柳沢社長は「さてと」と、本題を切り出すように言う。


「<Linリン>クンは、individualismのことは知ってる?」

「えっと、ネットで見ました。RAMPANTリァンペントの運営に関わってるって……」

「なら話が早いわ。さっそくだけど<Linリン>くん、ウチでCDデビューしちゃおっか~」


 僕は内心嬉しかった。僕の演奏と八百太やおたさんの歌、どちらをスカウトしたのか確かめないといけないのに。でも、いざ、それも社長の口からそう言われると舞い上がりそうになった。


「あの、社長は、僕が今朝アップした曲を聴いて……?」

「もちろんよ。ボクね~、結構前からキミのことチェックしてたの。それで今回の新曲を聴いて、も~すぐにでも欲しくなっちゃって。まだ荒削りだけど、素晴らしい歌声だったわ」


 やっぱり、予想通りだ。わかっていたつもりだったけど、ウキウキした様子の柳沢社長を見て、僕はなんだかもやもやとしていた。


「ウチはメジャーレーベルじゃないし決まったお給料は出せないけど、キミならちょっと良い待遇にするわ。あ、所属してる他の子たちには内緒よ~?」


 口に人差し指を当てながら、柳沢社長は小声で言う。

 これ以上話が進む前に本当のことを言わなければと、僕は気持ちを固めた。


「実は……あの曲で歌っているのは、僕じゃありません。あれは、三ヶ月前に亡くなった、バイト先の人の歌声なんです」


 柳沢社長は特に驚いた様子もなく、「続けて?」とうながす。


「その人もRAMPANTリァンペントに投稿していました。もう何十曲も作っていて、本気でプロを目指していて。それでこないだ、その人の恋人から頼まれたんです。歌とピアノだけだったその人の歌に、演奏をつけて欲しいって。その人は僕のことを恨んでいて、亡くなったのも僕のせいかもしれなくて。でも、<Linリン>の音楽は好きでいてくれたみたいで。色々考えて、僕は引き受けました。それが、今朝アップした曲なんです」


 黙って話を聞いていた柳沢社長は、だんだん不審そうな顔になる。


「けど僕、その人の歌声って書き忘れてしまって。だからみんな、僕が歌っていると勘違いして……」


 このままではいけない。僕はこのタイミングで、自分の本当の歌声を聴いてもらおうと決めた。


「それであの、その人は亡くなっているので、もう歌うことはできないんですけど。一応僕も歌えるので、良かったら」


 テーブルに備え付けられていた紙ナプキンでイヤホンを拭いて、柳沢社長に渡す。耳につけてくれたのを確認して、僕はスマートフォンから曲を流した。


「……ねぇ、ちょっといい?」


 柳沢社長は目を閉じて聴きったかと思うと、すぐにイヤホンを外して、少し前のめりになって聞いてくる。


「亡くなったのは<Linリン>くんのせいって、もしかしてキミ、殺しちゃったの?」

「ち、違います。僕のことで悩んでお酒を飲んだかもしれなくて、それで交通事故を起こして……」

「な~んだ。<Linリン>クンが人殺しだったらどうしようかと思ったわ~」


 突然物騒なことを言ったかと思えば、クックッと不気味に笑った。


「何十曲もって、その彼、そんなに曲のストックがあるの?」

「送られてきた曲だけで、二十曲くらいは……」

「ちなみに、亡くなった彼の名前はなんて?」

「下川、八百太やおたさんです」

「へぇ……」


 それどころか、僕の歌声には一切触れず八百太やおたさんのことばかり聞いてくる。

 しばらく何か考えていたような柳沢社長の顔が、やがてぱあっと明るくなり、鞄の中から何かの書類を取り出した。


「ボク、いいこと考えちゃった」


 そう言ってテーブルの上に放り投げられた書類の、専属契約書という文字がまず目に飛び込んできて、僕はドキッとして声が出そうになった。

 柳沢社長は頬杖をつきながら、僕を見てニヤニヤと笑っている。










「<Linリン>くんさ、<下川八百太やおた>でデビューしよっか?」

「……はい?」


 言われた言葉の意味が、わからなかった。


「キミは今日から<下川八百太やおた>って名前でウチに所属するの。そうね~、まずはその彼の歌に全部演奏をつけてもらわないとね。ストックがそんなにあるなら、バンバン出しても二年は持つわ」


 持つ――。持つって、なんだ?

 僕は一瞬、意識がどこかに持っていかれたような感覚になって、固まってしまったんだと思う。柳沢社長が「お~い」と、僕の顔の前で手をひらひらさせてきた。


「あ、あのそれって、僕が八百太やおたさんの代わりにデビューするってことですか?」

「そうよ~。さっきからそう言ってるじゃない」

「だ、だって八百太やおたさんはもう……」

「死んじゃって歌えないんでしょ? キミ、さっき自分でそう言ってたじゃな~い」


 柳沢社長はけろっとした態度で両肩を上げる。悪意も善意も感じられない口調に、僕はぞっとした。


「そんな……そ、それにライブはどうすれば――」

「リ・ッ・プ・シ・ン・ク。すればいいじゃない」


 無邪気に笑いながら、柳沢社長は言う。この人は、まるで子供のように自由で純粋で、そして本気だ。

 僕は八百太やおたさんの歌のデータ全てに演奏をつけて、CDをリリースしてデビューする。そしてライブで八百太やおたさんの歌声を流して、それに合わせて口パクをするらしい。

 もう、わけがわからなかった。気を抜くと頭の中から何かはじけ飛んでしまうくらい、それくらい混乱していた。


「逆ゴーストシンガーみたいね。あぁ、ワクワクしてきたわ~」


 そんな僕の気も知らずに、柳沢社長は「歌の音質が悪かったから、ライブで流すには生声っぽくてちょうどいい」なんて言っている。

 そしてその光景が、大勢のお客さんの前でギターをきながら口パクをしている自分の姿が、なぜか繰り返し頭の中に浮かんできた。


「そういうことだから、早く書いてちょうだい」


 柳沢社長は契約書を指先でトントンと叩くと、僕の方に押し出してくる。

 まるで〝そうしなければならない〟ように、気づくと僕は契約書に手を添え、持ってきた筆記用具のケースを手にしていた。はっとして契約書から手を引っ込めようとした時にはすでに遅く、柳沢社長は僕の手を上からがっちりと握っている。


「い、一度持ち帰って考えさせてくだ――」

「メールで言ったけど、ハンコはちゃ~んと持ってきたわよね?」


 そうさえぎられて、さっきから感じていた強迫感のような、この気持ちの正体に気づいた。

 柳沢社長は、あの人・・・と同じだ。面と向かって逆らうなんて、とてもできそうにない。だからいつも僕は、ドア越しでしか思っていることを口にできないんだ。


「芸名は……せめて僕の名前じゃ……」

「あぁ。キミ、なんて名前だったかしら?」




 それから柳沢社長は権利がどうとか、利益の配分がどうのと言っていたけど、まったく頭に入ってこなかった。そして最後に、飲み残してしまった僕の紅茶代をおごってくれた。

 家に帰って、何もかも落っこちるようにベッドに飛び込んだ。隣に落ちている自分の手を動かしながら、僕が僕じゃないみたいに現実感がない。

 でも、僕はこの手でたしかに書類を書いて、<下川八百太やおた>として契約を交わして、そして僕の歌も、名前すら見向きもされなかったという事実が、今頃になって心に重くのしかかってくる。

 これから先どうなるかわからないけど、今はもう、何も考えたくなかった。







 タイトル:近々


 こんばんは、<Linリン>です。

 近々、皆さんにお知らせすることがあるかもしれません。

 少し疲れてしまったので、今日はもう寝ます。おやすみなさい。


 03/02 21:35



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