第九話 父親

 駐車場を通り過ぎていく薄着のお客さんたちを見て、今日からもう三月だということに気づいた。たった一日違うだけなのに、なんとなく空気が暖かくなったように感じるし、外はなんだか色がついたみたいに鮮やかに見える。いよいよ春が来るんだ。

 そういえば、こないだ作った曲のタイトルをまだ決めていなかった。春だから『springスプリング』は、やっぱり芸がないだろうか。桜は英語でなんて言うのだろう。ほうきで寄せた落ち葉をちり取りに入れながら、そんなことを考えていた。

 外の掃除が終わって店内に戻ると、レジカウンターにいた戸田さんがニヤニヤしながらやって来た。


「なぁなぁ、見た? フライドチキンのすっげー足」

「……はい?」


 僕はすぐにレジ横のショーケースを覗いたけど、フライドチキンは売り切れたようで見当たらない。


「違うって。ほら、アイツだよアイツ。毎回フライドチキン買ってくデカい女」


 無理矢理入口まで引っ張られると、戸田さんは駐車場を歩いているミニスカートの女の人を指差した。


「みんな裏でそう呼んでんの、知らない?」

「はぁ」


 知らないし、興味もない。

 ただ、レジで商品を渡すとき、いつも「ありがとう」とお礼を言ってくれる女の人だということは知っている。


「見苦しいよなぁ。デブは永遠に厚着しとけよって、なぁ?」


 戸田さんはそう言うと、店内にいるお客さんたちに「いらっしゃいませ」と機嫌よく挨拶をして回っている。

 戸田さんとは去年の十二月からほとんど一緒のシフトだ。いつも誰かの悪口や文句ばかり言っていて、最初は聞いているのがしんどかったけど、それが数ヶ月も続けばさすがに慣れてくる。だからもう平気で聞き流せるし、この人なりのコミュニケーションの取り方なんだとすら思うようになった。




 二十二時になったので、店長と戸田さんに挨拶をして退勤した。

 戸田さんはまた僕に何か言おうとしていたけど、タイミングよくお客さんがレジへ並んだので、その隙に店を出た。きっとまた舌打ちをしているんだろう。

 ふと、なんとなく視線を感じて顔を上げると、駐車場の脇に立っている女の人と目が合った。僕はすぐに視線をそらしたけど、じっと見られている気がする。

 無意識に警戒したのか、僕の歩く速度はどんどんあがっていった。こういうことはバイト中に何度もあるけど、終わったあとまで本当に勘弁して欲しい。

 でも、どうしてだろう。なにか違和感がある。あの少し派手な感じは、どこかで見たことがあるような気がした。


「あの」


 そのまま通り過ぎようとしたとき、声をかけられてドキッとした。

 振り返ると、ピンク色のコートを着た長い茶髪の女の人だった。


「こんばんは。洋香ひろかのコト、覚えてる?」

「えっと……」

「やっぱ覚えてないかぁ。ほら、八百太やおたの」


 それを聞いてすぐに思い出した。あの日、『snowスノウ』のタイトルのきっかけをくれた女の人だ。


「あ、その、このたびは……」


 お悔やみ申し上げます、ご愁傷様です、どう言えばいいんだっけ。

 僕が必死に言葉を探していると、女の人は小さく吹き出すように笑った。


「そんなに固くならないでよぉ。今日はね、キミに話があって来たの」

「話……ですか」

「できれば、そこのカフェで座って話したいな。これからちょっとだいじょぶ? えっと、シモカワくん?」


 どうしよう、と迷った。

 あの人・・・に近々話があると言われてから、僕はこの数ヶ月ずっと、部屋にこもったり寄り道して帰ったりと顔を合わせないようにしてきた。当然今日もまっすぐ家に帰るつもりはなかったから、ちょうど都合がいい。

 それにきっと八百太やおたさんの話だろうし、断る理由もないと思いながらも、よく知らない女の人と二人きりになることに戸惑っていた。


「それとも、<Linリン>くんって呼んだほうがいい?」

「えっ……」


 びっくりして、一瞬、聞き間違いなんじゃないかと思った。


「あ、洋香ひろか洋香ひろかね。って、なぁんか日本語おかしくなっちゃった。とにかくよろしくね、<Linリン>くん」


 いま、たしかにこの人は僕を<Linリン>と呼んだ。

 動揺して、頭の中がじわっと熱くなる。まさかこの人が、僕のバイト先を特定するような内容を書いたのだろうか。怖いけど、行かないわけにはいかなくなった。もしこの人が犯人なら、どうしてあんなことをしたのか確かめたい。

 言葉に詰まっていると、洋香ひろかさんはいきなり僕の肩を叩いてきて、僕は反射的に身構えてしまう。


「あはっ、取って食べたりしないよぉ。ほら、行こ?」


 洋香ひろかさんはそのまま僕の腕を掴んで強引に歩き出してしまった。




 コンビニから道路を挟んだ向かいの喫茶店に、僕たちは入った。ラストオーダーまで三十分もないのに、店内はまだお客さんで賑わっている。

 僕はハチミツ入りの紅茶を、洋香ひろかさんは少し迷っていたけど、僕と同じものをカウンターで注文した。

 洋香ひろかさんは二人分の会計をさっと済ませてしまい、僕がお財布から小銭を数えて出しているときにはもう、カップの乗ったお盆を持って席へと歩いていた。


「あの、自分のぶんは自分で払いますから」

「いーのいーの、洋香ひろかが急に誘っちゃったんだし」


 席についてすぐに紅茶のお金を渡そうとしたけど、洋香ひろかさんはどうしても受け取ろうとしない。


「それより、なぁんかスッゴイ視線感じるんですけど」


 洋香ひろかさんはきょろきょろとあたりを見回しながら小声で言った。

 僕はもう、この店に入ったときから何度も感じている。わざわざ振り返ってまで見てくる人もいた。


「<Linリン>くん、イケメンだもんね?」

「いえ……あの、それで話って」


 僕が本題を切り出すと、洋香ひろかさんは首をかしげてうーん、うーんと悩み出す。


「どうやって話せばいいのかなぁ。まぁいいや、見せちゃお」


 そして何か思いついたように鞄の中からスマートフォンを取り出し、少し操作したあと僕に差し出してきた。


「とりあえずコレ、見てくれない?」

「これは?」

八百太やおたのスマホ」


 遺品と知って躊躇ちゅうちょしてしまうが、洋香ひろかさんが急かすように目の前でスマートフォンを揺らしてきたので、僕は受け取ることにした。

 画面を見ると、日記のようなそれには僕の悪口がたくさん書かれている。

 僕は少し驚いてしまった。よく思われていなかったこともそうだけど、スマートフォンの中の八百太やおたさんは、どちらかというと戸田さんが言っていたイメージに近かったからだ。


「そこから順番に見てってね」


 そう言われて読み進めていって、さらに驚いた。八百太やおたさんもRAMPANTリァンペントに投稿していたこと。僕が<Linリン>だと知っていたこと。そして、僕と<Linリン>を恨んでいたこと。文章から怒りや憎しみのような感情がすごく伝わってきて、嫌われているとかそんなレベルじゃなかった。ショックを通り越して自分を疑ってしまう。

 あのとき僕は、どうして洋香ひろかさんと話してしまったんだろう。洋香ひろかさんのことも悪く書かれていたし、きっと巻き込んでしまったんだ。もしかしたら、他にも恨まれるようなことをしたのかもしれない。僕のせいで八百太やおたさんは悩んで、お酒を飲んで、それで――。


「ごめんなさい、僕……」

「え、ちがうちがう。ここ見て、ココ」


 やり場のない気持ちがじわじわとこみ上げてきた直後、洋香ひろかさんが最後に書かれた日記の一文に指を当てた。


「……お前の曲を、歌いたい?」

「うん。色々嫌なコト書いてあるけど、きっとこれが八百太やおたのホンネ」

「これって、お前って、僕の……」

八百太やおたね、<Linリン>くんにすっごいヤキモチ焼いてたけど、おんなじくらいすっごいソンケーしてたんだと思う。たぶん<Linリン>くんの曲いっぱい聴いてて、洋香ひろかといても上の空だったし。そんな<Linリン>くんの曲を歌えたらホンモーだと思うし、洋香ひろか八百太やおたの歌を世界中の人に聞かせたい。それが……八百太やおたの夢だったから」


 洋香ひろかさんの声のトーンはどんどん落ちていって、最後は呟くように言った。

 洋香ひろかさんの言っていることが本当かはわからないけど、八百太やおたさんはきっと本気でプロを目指していたんだ。

 だけど、死んでしまったらもう、どうにもならない。僕は、なんとなく死というものを思い知らされたような、むなしい気分になっていた。


「だから、<Linリン>くんにイッショーのお願い! どうか八百太やおたに曲を作ってあげてください!」

「……はい?」


 洋香ひろかさんはいきなり両手をパンッと鳴らし、大きな声で頭を下げてきた。同時に、周りのお客さんたちが一斉にこちらを見る。

 そう言われても、いったいどうやって。


八百太やおたの曲ってね、歌とピアノだけなの。だからその上から<Linリン>くんがギターとかドラムを足して、ってゆーのはできない?」


 僕の心を読んだかのように、洋香ひろかさんが聞いてくる。


「できなくはないですけど……」

「ほんと? できるの? やったぁ!」

「ちょ、ちょっと待ってください」


 次々とびっくりすることばかりで、僕はかなり混乱していた。

 八百太やおたさんはプロを目指していて、僕を恨んでいたけど、僕の曲を歌いたかった。そしていま、八百太やおたさんの生前の歌声に演奏をつけて欲しいと、洋香ひろかさんから頼まれている。

 本人から頼まれてもいないのに、しかももうこの世にいない人の作品に手を加えることに、僕はそれなりに抵抗があった。

 だけど、うしろめたい気持ちがあるのも事実だ。八百太やおたさんがプロになれなかったのは、僕のせいかもしれないのだから。


「少し、考えさせてください」

「オッケー。じゃあ、<Linリン>くんのメアド教えて」

「……あの、僕の話聞いてました?」

「うん。だから、聴いてもらったほうが早いから。送るね、八百太やおたの歌」


 何を言っても洋香ひろかさんのペースに引き込まれてしまうと思いながらも、僕はしかたなく自分のスマートフォンを取り出してパソコンのアドレスを見せた。


八百太やおたの歌を聴いたら、みーんな一緒にバンドやりたくなっちゃうんだから」


 洋香ひろかさんは僕のアドレスをスマートフォンに打ち込みながら、まるで自分のことのように得意気に笑っている。

 登録が終わったのを確認してスマートフォンを下げ、ふと画面を見ると、もうすぐ二十三時になる。

 ここも閉店の時間だし、そろそろ帰ろうと席を立とうとしたとき、洋香ひろかさんはどこか真剣な表情で僕を見ていた。


「ねぇ。<Linリン>くんはさ、どうして音楽始めたの?」


 そう聞かれて、立ち上がろうとした両手が動かなくなる。


「定番なのは、家族のエイキョー? とか?」


 僕はうっすらと子供の頃を思い出していて、いつの間にか席に引き戻されていた。


あの人・・・が……」

「アノヒト?」

「あっ、すいません。父親のことです」

「ふんふん。で、あの人・・・さんがどうしたの?」


 ついいつものように呼んでしまったけど、突っ込んで聞かれそうな気配はなかった。


「……変に思わないんですか?」

「ヘンって、なにが?」

「その、自分の父親のことをそう呼ぶのを」

「だって、家庭のジジョーなんて色々あるじゃん」


 洋香ひろかさんは特に気にした様子もなく「それで?」と、話の続きを引き出そうとしてきて、僕はなんだか気が抜けてしまった。

 こんな人は初めてだ。


「……あの人・・・は昔、売れないアマチュアのミュージシャンだったそうです。家ではいつもギターが鳴っていて、CDがたくさんあって、僕は小さい頃から聞いて育って。あの人の横でよくくまねをしてたら、ギターを買ってくれて……」


 小学生の頃、あの人・・・は僕の誕生日にエレキギターを買ってくれた。コードや楽譜の読み方も教えてくれたし、ひとつ覚えるたびに頭を撫でてくれて、本当に大切な時間だったと思う。

 中学に入る頃には作曲も始めて、僕は勉強そっちのけで音楽に夢中だった。


「でも、高校に入ってから急に就職しろとか、音楽をやめろって。今でもすごくて、わざと遅く帰ったりしてて……」


 気の早い同級生たちが受験の計画を立て始めていた、高校二年になる頃だった。僕は音楽以外でこれといってやりたいこともなかったし、勉強もできなかったから、大学進学はしないと言い張っていた。

 そうしたらそれまで僕の味方だったあの人・・・が、あの人・・・の口からけっして聞くことのなかった「就職」という言葉が出始める。そして、就職をしない理由として標的は音楽に向けられたんだ。


「僕は、あの人・・・が何を考えているのかわからないんです」


 言い終わって、ずっと重たかった気持ちが少し軽くなった気がした。


「んと、あの人・・・さんは売れなかったワケでしょ? 自分の息子には、おんなじ思いさせたくないとか?」

「そうかもしれません」

「それに実家でお世話になってる身だし、あの人・・・さんとしてはトーゼンの主張かも」

「それは……でも今すぐは出ていけな――」

「だからぁ、<Linリン>くんが売れちゃえばいいんだよ」

「……僕が?」


 考えたことがないわけじゃない。実際に、僕のメジャーデビューを望む声も多かった。

 RAMPANTリァンペントは新人ミュージシャンの発掘に積極的らしく、トップになった今なら、注目してくれているレーベルがあるかもしれない。もちろんデビューできれば嬉しいし、きっと<りんちょこ>さんも喜んでくれるはずだ。


「<Linリン>くんはさ、あの人・・・さんに、褒められたいんだもんね」


 そう言われて、はっとして顔を上げると、とても穏やかな表情をした洋香ひろかさんと目が合う。

 僕は急に照れくさくなってしまい、飲み忘れてすっかり冷めてしまった紅茶を一気に口に入れた。すると、ちょうど店員さんが閉店を知らせに席へやって来たので、僕たちは店を出る。


「今日はありがと。帰ったらソッコー送るね」


 先に店を出た洋香ひろかさんがそう言って振り向き、また背を向けた。


「あの、洋香ひろかさんの父親って」


 僕は気になっていたことがある。あの人・・・の話をしていたとき、洋香ひろかさんの言葉のあちこちに、なんとなく引っかかりを感じていたんだ。


「その、洋香ひろかさんも、家庭の事情とかあるのかなって……」


 すると、洋香ひろかさんは背を向けたままふと足を止めた。


洋香ひろかもね、父親でケッコー苦労したんだぁ」


 それ以上話すつもりはなさそうで、洋香ひろかさんはもう一度振り向いて「バイバイ」と手を振って去っていった。




 家に帰ると、玄関にあの人の靴が置いてあった。僕はそっとドアを閉めると、無言で自分の部屋へ駆け込んだ。

 ノートパソコンを立ち上げると、さっそく洋香ひろかさんからいくつかメールがきていた。送られてきたファイルをダウンロードする。

 生前の八百太やおたさんの歌声――。

 思わず息をのんだ。それはある意味神聖な、魂に直接触れるような気持ちだった。ヘッドフォンを繋げて、おそるおそる再生ボタンを押す。


「…………すごい」


 音楽で衝撃を受けたことは何度もあったけど、あまりにもレベルが違った。独特の浮遊感に包まれたかと思うと、荒削りでエモーショナルなシャウトが飛び出してくる。なんてドラマチックで切ない歌声なんだろう。日本のアマチュアミュージシャンにこんな声の持ち主がいて、それもまさか八百太やおたさんだなんて。

 気づけば僕は、いつの間にかギターを手に取っていた。そして急にスイッチが入ったように作曲ソフトを起動する。ここのフレーズはどうしようとか、どう隙間を埋めようかとか関係なく、ギターをく指が自然に動く。テンポのずれたピアノが最初は少し邪魔に感じたけど、気にせずどんどんレコーディングしていった。

 楽しい、楽しい。


鈴男すずお、いつまでそうやって逃げるつもりだ」


 突然ドア越しに聞こえてきたあの人・・・の声のせいで、強制的に現実に引き戻された。


「就職はどうなってるんだ。俺は母さんみたいに甘くないぞ」


 僕は無視して、コードの狂った不協和音をわざと鳴らしてみせた。


「……まだ音楽なんてやっているのか。くだらない」


 その直後、言われた一言にギターを置いて立ち上がる。

 身体中の血が沸騰ふっとうするような感覚をどうにかしてぶつけたくて、僕はドアを思いきり叩いた。


「自分は昔やってたのに、よくそんな風に言えるね」

「……なんだって?」

「息子が成功しちゃったら、そんなに悔しいの? あんたが昔成功しなかったからって、息子に嫉妬するのってどうなの」

「お前、親に向かってその口の利き方はなんだ!」


 今度は向こう側からドアを蹴ってきた振動が両腕に伝わってきた。


「うるさい! 僕はあんたとは違う!」


 もう一度、僕は負けじと力を込めてドアを叩く。

 するとバタバタ走ってくる足音と共に、母さんの叫び声が聞こえてきた。二人はドアの前でしばらく言い合っていたけど、そのままリビングへ移動したのか、やがてほとんど聞き取れなくなった。

 目頭がじんとする。少しでも油断したら出てきそうな涙をこらえて、僕はもう一度机へ向かう。喫茶店で洋香ひろかさんに色々話を聞いてもらったのに、全部台無しにしてしまったみたいな気持ちになっていた。

 やっぱりあの人・・・が何を考えているのかわからないし、もう知りたくもない。もやもやして爆発したがっている感情を無理矢理エネルギーに変換するように、僕はただひたすら、必死で弾いた。







 タイトル:新曲のお知らせ


 おはようございます、<Linリン>です。朝早くに更新してごめんなさい。

 もうすぐ新曲ができます。午前中にはアップできると思うので、皆さんぜひ聴いてください。びっくりすると思います。

 それでは、作業に戻ります。


 03/02 06:27



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