第四話 嫉妬

 不意に目が覚めた。すぐに尿意を覚えたが、身体を起こすのが面倒で、しばらく布団の中でぼんやりしていた。目をつむると、暗闇がぐわんぐわんと回っている。熱があるというほどでもないが、顔がほてっていた。

 トイレに行こうかどうしようかと迷っているうちに、こらえがたいものになってきたので、しぶしぶ起き上がる。


「あー、いってぇ……なんだこれ」


 頭が締めつけられているように痛い。

 トイレへ向かう途中、何かが足元にぶつかり、カランカランと派手な音が続いた。通路にビールやハイボールの空き缶が、何本も転がっている。頭痛の原因だと主張するように。

 トイレが視界に入った瞬間吐き気がこみ上げ、すぐに便器に顔を突っ込んだ。無理矢理吐こうと何度もえずいたが、どうやら胃液しか出てこないらしい。諦めて用を足しながら、着替えもせずに寝てしまったことに気づき、急に身体が震え上がった。ジャケットの下に着ていたトレーナーのさらに下、シャツ一枚だ。どうりで寒い。

 冷蔵庫の扉を開け、ペットボトルの水を勢いよく喉に流し込み、急いで布団にもぐり込んだ。枕元に置いていたスマートフォンを見ると、まだ朝の十時だった。夜勤から帰って来て酒を飲んでいたにしろ、ほとんど寝ていないことになる。身体がだるい。このまま眠ってしまいたいが、困ったことに、目を閉じてもめまいがする。


「はぁ、ダメな大人って感じだな」


 こんな風に飲んで潰れて、洋香ひろかの店の客を馬鹿にできたものじゃない。

 それにしても、通路に転がっていた空き缶は尋常ではない量だった。その原因は、もうなんとなくわかっているのだが。

 たしかめたいような、そうでないような気持ちで、今朝飲みながら書いたであろう日記を、スマートフォンから開いた。


「やっぱり夢じゃない、か……」


 呆然と画面を見つめていると、勤務時間の記入漏れに気づいた。


「あっ、書いてねぇや。ええっと、何時間だっけな」


 何度か指を折って数え、空欄に数字を打ち込んで保存。これだけの作業でどっと疲れてしまい、スマートフォンをそっと放り投げた。

 しばらく布団にくるまりながら、昨夜バイト先で起こったことを、ひとつひとつ思い出してみる。




 ブーッ、ブーッと、俺の手の中で止むことなく振動していた、下川くんのスマートフォン。そう、あれは出勤間近の出来事だった。

 彼のスマートフォンの画面に表示された<Linリン>のRAMPANTリァンペントアカウントと、そのアカウント宛てにきていた、大量の通知。


LエルIアイNエヌMエムUユーSエスIアイCシー


 <Linリン>のページから、何度も見た英数字だ。見間違えるはずがない。

 念のため、自分のスマートフォンからサイトを開いて確認しようとした、そのときだった。


「すみません下川さん、レジお願いしても……」


 心臓が跳ね上がった。突然レジへと繋がる後ろのドアが勢いよく開き、下川くんがバックヤードに入ってきたのだ。あれは本当にひやりとした。


「あの……?」

「悪い悪い、今行くわ」


 今にも口から飛び出しそうな心臓を押し込んで、顔だけ振り返った。


「あのさ、下川くん。これ、きみのだよね?」


 俺は、いかにも興味がないといった様子で、片手に持ったままでいた彼のスマートフォンを見せた。


「はい、そうですけど」

「テーブルの上でブーブー鳴っててうるさかったからさ、今度から鞄の中に入れとこう。な?」

「あっ……すみません」


 覗き見していたことをカモフラージュするために、俺はあえて本人に見せたのだろう。

 いま思えば、あの立ち位置から俺の手元が見えるはずがなかった。勢い任せで喋るほどに動揺していたのだ。できるだけ平静を装ったはずだが、うまくできていたかどうかはわからない。


「それとさ、レジに呼び出しボタンがあるだろ? もしレジが混んだら、あれを押してくれればいいから。ここと繋がってるんだ」

「そうなんですね。わかりました」

「レジに誰もいなくなったら、お客さん困っちゃうからさ」


 元はと言えば俺が悪いのに、ずいぶん偉そうなことを言ってしまった。

 それから二人でレジカウンターに入り、客がいなくなって落ち着いたあと、俺から話しかけたのだ。


「なぁ、下川くん。さっきすげー鳴ってたのってさ、迷惑メールとか?」

「いえ……」

「いやー、ほんとびっくりするくらい鳴ってたからさ。何かのサイトの通知かなって」

「はぁ、すみません」


 だいたいこんな内容だった。他にも、いかがわしいサイトか、なんてからかった気はするが、記憶が曖昧だ。彼が終始どんな顔をしていたのかも、はっきり思い出せない。

 さすがに喋りすぎた。かえって怪しまれたかもしれない。最近彼とはシフトがよく被るし、次に会ったとき、いったいどんな顔をすればいいのだろう。

 布団の脇に落ちていたスマートフォンに手を伸ばし、もしやと思いRANPANTリァンペントへアクセスした。トップページのピックアップ欄には、まだ<Linリン>の新曲が掲載されている。

 『openingオープニング』のコメント欄をざっと読んでいると、いくつか見覚えのあるコメントを見つけた。投稿された時間帯は、ちょうど昨夜の出勤前だ。とにかく、これで確信した。下川くんは<Linリン>なのだ。


「はは、なんだよ。ブサイクな中年の設定は、どこいっちまったんだよ、<Linリン>」


 俺より若くて、かっこ良くて、才能のある人気者。やり場のない無念さに、身体の重みが増した気がする。

 スマートフォンに目をやると、いつの間にか昼の十二時を過ぎていた。頭の中では相変わらず『openingオープニング』が流れていたが、ふと、何か強い衝動に身体がうずいた。


「こうしちゃいられねぇ!」


 がばっと起き上がって、まだ暖かさの残る布団を畳んでずらし、そこへ部屋の隅に折り畳んでいたちゃぶ台を広げた。電子ピアノをちゃぶ台の上へ置き、挿したままのケーブルをパソコンに繋ぐ。

 パソコンを起動している間、どんどん頭の中に浮かんでくるメロディを、忘れないように口ずさんだ。

 パソコンが立ち上がると、音楽制作ソフトから、作りかけだった曲のファイルを開く。


「た・とぅとぅ……いや、違うな。とぅとぅ・た・とぅとぅ・たん。これだな」


 思いつくままにいて、どんどん録音していった。簡単な伴奏のみだったピアノの音に、リズミカルなピアノの音を重ねて足していく。

 突然思い浮かんだこの旋律は、間違いなく『openingオープニング』に影響されたものだろう。似すぎている部分がないかどうか、<Linリン>のページへ何度も聴き比べにいった。

 先ほどまで重かった身体が、嘘のように軽い。頭痛も、ほとんど気にならないほどになった。


「こうなると、歌にもハモりを入れたくなってくるな」


 今日の夕勤まで、まだ時間はある。

 カーテンを閉めて、レールに毛布をねじ込んで吊るす。即席の防音対策ができたところで、マイクスタンドをパソコンの近くに置き、急いでセッティングした。


「立ち位置よし、と」


 ヘッドホンを耳につけると、すっと気が引き締まる。

 電子ピアノの鍵盤を押して音程を確認しながら、耳に流れてくるメインボーカルの上に、ハモりのパートを録音していった。俺の独特な歌声に重なって厚みを増すごとに、感情を上へ上へと連れて行ってくれる。

 歌のレコーディングは楽しい。バンドを組んでいた頃も何度か経験はあったが、何から何まで一人でやり遂げたあとの達成感は、別格だ。




 思い立った勢いで作ったからか、レコーディングはびっくりするほど早く終わった。

 パソコンのスピーカーから曲を垂れ流しながら、遅い昼飯のカップラーメンにお湯を注ぐ。この短い待ち時間のあいだも落ち着かず、リズムに乗りながらうろうろと動き回ってしまう。

 まだ公開していない曲のストックはいくつもあるが、こんなに手をかけたのは初めてだ。これまでのレコーディングは、ボーカルとピアノ、それぞれ一本のみだった。とにかくたくさん曲を作ろうと必死で、全体的な音の薄さは否めなかったが、歌声の迫力だけでどうにかなるだろうと思い込んでいたのかもしれない。

 『openingオープニング』ほどではないが、この曲は音の厚みも奥行きもある。まだ整っていない機材と録音環境で、これだけのものを作ることができれば充分だろう。

 出来上がったカップラーメンの麺をすすりながら、RAMPANTリァンペントのマイページへログインする。新曲を公開してからアクセス数の望めるうちに、また別の新曲を公開する作戦だ。


「前回は昼過ぎだったから、今回は夜にしてみるか」


 曲の予約投稿を今日の二十時にセットして、パソコンの電源を切った。今回の曲は確かな手応えを感じているし、それなりにアクセスしてもらえるだろう。

 スマートフォンを見ると、洋香ひろかから何度も着信がきていた。


「やっべ、もうこんな時間か」


 それよりも、バイトの出勤時間まであと十五分しかないことに驚き、一気にスープを飲み干す。

 財布とスマートフォンをポケットに突っ込み、洗面所で軽く髪を整えると、ジャケットを羽織りながら家を飛び出した。

 昨日と同じ服装で風呂にも入っていなかったが、向かい風が流してくれるだろうと、急いでバイクを飛ばした。




 店に到着すると、何人もの客とぶつかりそうになりながらバックヤードへ駆け込んだ。わき目も振らずに直行したが、レジカウンターに下川くんが立っていたような気がする。

 先に出勤を済ませようと、ネームプレートのバーコードを読み取った。確認音が鳴り、競っていた時間に勝ったようで安堵の息が漏れる。あと一分遅ければ、遅刻扱いになるところだった。

 着替えながらシフト表を見ると、今日の夕勤欄には、俺の名前と、下川鈴男すずおの名前が書いてある。


鈴男すずおの鈴で<Linリン>、ね」


 まさか、昨日の今日でまた顔を合わせることになるとは思わなかった。<Linリン>だと知ってしまったからには、意識せずにはいられないだろう。

 だが、それを彼に悟られたくはない。彼から正体を明かされて、音楽の話をしてみたいのか。俺の目の届かない、どこか遠くへ行って欲しいのか。自分の本音がよくわからないのだ。

 とにかく、不審に思われないよう、いつも通り親しげにしていようと、レジへと続くドアを開けたときだった。


「なっ、洋香ひろか!?」


 俺は思わず大きな声を上げてしまい、店内にいた客の注目の的になってしまう。だが、この際そんなことはどうでもよかった。ガラス越しの外で、なぜか洋香ひろかと<Linリン>、下川くんが話しているのだ。

 状況が飲み込めず、心中穏やかでいられないまま入口へ向かう。自動ドアが開き、来店音が鳴ると同時に、俺に気づいた二人と目が合った。


「あっ、八百太やおた!」

「お前、こんなとこ来て何やってんだよ」

「だって八百太やおた、なかなか連絡つかなかったから。心配で、それで……」


 洋香ひろかはうろたえながら言い訳をすると、地面に視線を落とした。その隣ではゴミ袋を持った下川くんが、何か言いたげに口を開いては閉じている。


「あー悪い、下川くん、ちょっと中戻っててもらえるかな。ゴミは俺が変えるから」


 俺は彼からなかば強引にゴミ袋を奪い取ると、二人の間に入って、退路を塞ぐように店内へと追いやる。その際、洋香ひろか会釈えしゃくし合ったように見えた。


「……あいつと、何話してたんだよ」

「え? べつに、たいしたこと話してないよ」


 ガラス越しにこちらを気にしている様子の下川くんに、洋香ひろかはにっこりと笑いながら手を振っている。


「それより、びっくりしちゃった! あんなキレーな子が働いてるなんて、八百太やおた一度も――」

「あいつはな!」


 浮かれているような洋香ひろかの口ぶりを、ついさえぎってしまう。俺は外の寒さもあまり感じないほどの、なんとも言えない怒りが沸き立っているのを感じていた。

 洋香ひろかは驚いたように目を見開きながら、言葉の続きを待っているようだ。


「あいつは、あれだ。その、嫌な野郎なんだよ」

「えっ。八百太やおた、なにかされたの?」

「俺だけじゃなくて、みんな迷惑してるよ。わざとかってくらい空気読まねぇし、こっちが話しかけてもシカトするし、挨拶すらねぇんだぜ」

「あー……たしかに、ちょっとネクラっぽく見えるかも」


 洋香ひろかは納得したようにうなずくと、声をひそめながら言った。


「そう、マジで暗いんだ。接客態度も悪い上に、仕事も遅い」


 思いつく限りの悪口を並べたが、おおむね嘘ではない。「顔だけの男だ」とも言おうとしたが、ひがみととらえられたら面倒なのでやめた。


「とにかく、もう帰れよ。また連絡するから」

「うー、わかった。ゼッタイだからね?」


 俺が追い払うように片手を振ると、洋香ひろかは後ろ向きに歩き出しながら「待ってるからね!」と、念押しして帰って行った。悪口を言った罪悪感と、同じくらいの満足感を得たような、妙な気分だ。

 店内へ戻ると、客はほとんどいなかった。

俺は、おそらく下川くんは気遣いの言葉をかけてくるだろうと、あえて待つことにした。レジカウンターに立っている彼の前をゆっくりと横切り、バックヤードから栄養ドリンクの入った箱を抱えて戻る。わざわざレジカウンター近くの陳列棚に補充をしながら、じっと待った。

 だが、結局最後まで話しかけられることはなかった。退勤時に呼び止められ、ようやくかと思えば「お疲れさまです」と、短い一言のみだ。

 バンドを組んでいた頃は、俺も含めみんな、恋人たちへの配慮や独占欲にうとかった。メンバーや仲間の彼女だろうが、ライブハウスでは距離を詰めて話していたし、街で二人で歩いているところを見かけたら、気軽に声をかけていた。そういう場だった、それが当たり前だったとしか言いようがない。

 以前、男と一緒に歩いていた女友達を、たまたま街中で見かけたことがあった。声をかけようとしたところを洋香ひろかとがめられ、そういうもの・・・・・・だと気づいたのだ。

 あのとき、もし俺が下川くんの立場だったら、心配で迷わず声をかけるだろう。洋香ひろかの存在は、どう見ても彼女か親しい間柄といったところだし、なんなら二人きりで話してしまったことの謝罪すらしようとも思う。

 彼も音楽をやっているし、もしかしたら知らなかった・・・・・・可能性も頭をよぎるが、俺はどうしても許せなかった。

 疲労と苛立ちが入り混じったまま、帰路に向けてバイクを飛ばした。




 自宅のアパートに着くと、足音を立てながら階段を駆け上がり、玄関のドアを乱暴に開けた。それから、脱いだジャケットを部屋の壁へと叩きつけてやった。やたらと大きな音を立てないと気が済まなかった。

 今日はもう、何をする気にもなれない。早めに寝よう。







 件名:12月4日

 本文:夕勤(17~23 実働5.15h)

 洋香ひろかが突然バイト先に来て、下川と仲良さそうに喋っていた。

 下川は、洋香ひろかが俺の彼女だと、おそらくわかっていたはずだ。なのに、ずっとそんな調子だった。特に弁解も謝罪もない。普通は遠慮するべきじゃないのか?本当に空気が読めなくてイライラする。<Linリン>の時と同じで、色んなやつに媚びるんだろうな。気持ち悪い。

 洋香ひろか洋香ひろかだ。ブスのくせに色目なんか使うな。気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。

 残念ながら、下川は洋香ひろかなんか相手にしないだろうし、洋香ひろかだって俺しか見ていない。

 万が一もないだろう。ざまあみろ。

 洋香ひろかには、俺しかいないんだ。付き合ってやってる俺に、もっと感謝するべきだ。



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