第五話 暴力

 眠りが浅かったせいか、どことなく憂鬱な気分だ。

 途中何度も起きては時間を確認し、いつの間にか眠りに落ちての繰り返しだった。最初に目覚めたのは六時頃、それから十時頃、最後は十四時過ぎ。

 起き上がろうかまだ寝ていようか迷っていたそのとき、枕元のスマートフォンが目覚めをうながすように鳴った。画面を確認すると、RAMPANTリァンペントから通知が届いている。そういえば、昨夜新曲を予約投稿していたのだ。すっかり忘れていた。


「お、マジか!」


 どうやらその新曲に、誰かが評価を付けたようだ。

 半年間ひっそりと曲を投稿し続けて、初めて貰えた評価。まさに求めていた純粋なものをようやく得ることができた。きっと称賛のコメントが書かれているにちがいない。俺はわくわくしながらRAMPANTリァンペントへアクセスした。読み込み時間にもどかしさを感じながらも、マイページにログインする。

 だが、評価欄に書かれていたコメントは『僕の曲にも評価をお願いします』と、相互評価をうながす内容のみだった。期待が大きかっただけに反動も大きく、わざとやってみせた舌打ちが引き金となり、急に苛立ちが湧き上がってくる。


「ざけんな。てめぇの曲なんか興味ねぇよ!」


 いますぐスマートフォンを床に投げつけたい勢いだったが、ふと気になった。むやみやたらと営業する<Linリン>のようなやつは、いったいどんな曲を作っているのだろう。

 俺は期待半分、不安半分でページを覗きに行った。再生回数に貢献することになるのは不本意だが、一番上にある曲の再生ボタンをクリックする。


「……ひでぇな。なんだよこれ、気持ち悪い」


 神経を逆撫でするような、ねちねちした耳障りな歌声だ。うしろで鳴っている演奏も、センスのかけらも感じられず安っぽい。聴いているこちらが恥ずかしくなってきてしまい、始まって一分も経たないうちに停止ボタンをクリックした。よくも平然と、こんなくだらない曲を公開できたものだ。<Linリン>の足元にも及ばないじゃないか。あまりの馬鹿馬鹿しさにだんだんうんざりしてくる。

 とはいえ、この見知らぬやつに評価を貰ったことによって、俺の新曲がランキングに反映されているかもしれない。日間のランキングページへ移動すると、一位には案の定<Linリン>の名前があった。

 昨夜楽しそうに話していた下川と洋香ひろかの姿が、嫌でも頭に浮かんでくる。

 そこでふと、違和感に気づいた。よく見ると<Linリン>の名前の横に、見たことのない曲のタイトルが表示されていたのだ。


「<Linリン>が――また新曲!?」


 すぐに新曲をアップロードして更新頻度を上げるという俺の作戦だったが、どうやら<Linリン>も同じことを考えていたらしい。


「くそっ」


 どんなものか聴いてやろうと、急いでパソコンの電源を入れる。起動するまでの間、<Linリン>の新曲のコメント欄を何気なく下へスクロールしたところで、俺は目を疑った。

 並んでいるコメントの中に『<Linリン>についに女の影が』『彼女説有力』と、まるで昨夜の出来事を連想させるような内容があるのだ。うろたえつつも、さらに下へとゆっくりスクロールしていく。指の動きに反して、胸の奥では心臓がどくどくと速い脈を打ち始めた。

 しばらくして、『ブログ見ました、恋っていいですね』という書き込みを見つけて、ひどく嫌な予感がした。


「ブログ、ブログってどれだ」


 <Linリン>のプロフィールページへ移動すると、すぐにブログへのリンクを見つけた。黒一色の背景に、<Linリン>の文字をあしらった白のトライアングルロゴのデザインは、いかにもクールといった雰囲気のブログだ。

 トップページの一番上に表示されている最新の記事をクリックする。新曲『snowスノウ』についての解説が長々と書かれているが、一字一句も見逃さないように、目を凝らしながら読み進めていく。

 なかばほどのところで、ぎょっとして指を止めた。


『ずっと悩んでいた新曲のタイトルですが、昨日、ある一人の女性との交流から思いつきました』


「これってまさか……」


 まさか、洋香ひろかのことだろうか。

 止めていた指を動かし最後まで読んだが、他に洋香ひろからしき人物のことは書かれていなかった。

 あの二人は何を、どれくらい喋っていたのだろう。下川がゴミ袋を替えに行ってから五分、いや、もっとだろうか。連絡先を交換する時間くらいはあったはずだ。二人の仕草や態度に、なにか違和感はなかっただろうか。必死に頭を回転させて、昨夜のやりとりを思い起こした。

 そういえば、下川は妙にそわそわしていたような、どこか様子がおかしかった。洋香ひろかもいくら人見知りをしない性格とはいえ、短時間であれだけ親密そうな雰囲気を出せるものなのか。ブログの文章だとしても、下川は他人のことを話題にするようなやつだろうか。そもそも、洋香ひろかのことではない可能性もある。

 だが、なぜかどうしても洋香ひろかである気がしてならない。

 立ち上がっていたパソコンからRAMPANTリァンペントへアクセスし、<Linリン>のページから新曲『snowスノウ』をクリックする。

 どこかもの悲しいギターのメロディに、透き通るようなストリングスの音色。『openingオープニング』とは打って変わって、暗く静かな曲だ。

 音は耳に届いているはずなのに、まったく頭に入ってこない。『snowスノウ』、雪。たしかに冬を思わせるような雰囲気の曲ではあるが、いったい洋香ひろかとどう関係があるんだ。考えれば考えるほど疑心暗鬼になる。

 すると突然、膝の上に置いていたスマートフォンが震え出した。いままさに悩みの種である洋香ひろかからの電話だ。どうする、どうすると画面を見つめていたが、やがて鳴り続ける着信に耐え切れなくなり、身構えながら通話ボタンを押した。


「……もしもし」

『もしもーし! 八百太やおた、生きてる?』

「あ、あぁ。連絡入れるの、すっかり忘れてたわ。昨日寝ちまってさ」

『もー、そんなことだろうと思った。心配したんだからね!』

「ははっ、悪いな」


 なんでもない、普通の会話だ。

 昨夜下川と何があったのかを聞くべきなのか。それとも、ブログ自体を見なかったことにするべきなのか。

 考えを巡らせていると、洋香ひろかは電話の向こう側でなにやらごそごそと音を立てている。


『あーん、どうしよ。合鍵忘れちゃったみたい』

「……は!?」


 洋香ひろかの言葉を理解する間もなく、コンコンと、玄関のドアをノックする音が聞こえてくる。

 パソコンから聞こえる無機質なノイズ音と自分の心臓の音が、部屋中に響いているように思えた。


『というワケだから、早くあーけーてー』


 電話口から催促する洋香ひろかの声と同時に、コンコンコンと、再びドアを叩く音が聞こえてきた。

 もう、開ける以外の選択肢がない。俺は身体全体を使うようにふーっと、大きく深い息を吐いて玄関へ向かう。

 気持ちを落ち着かせたつもりでドアを開けたが、洋香ひろかの顔を見た瞬間、そんな余裕はどこかへ吹っ飛んでしまった。


「えへへ、来ちゃった」


 洋香ひろかはぺろっと舌を見せると、ずかずかと上がり込んできた。


「コンビニ行くと八百太やおた怒っちゃうから、おーちにしたんだ。エライでしょー」


 コンビニという単語を耳にした瞬間、昨夜のことを聞かないともう気が済まなくなっていた。聞こうか聞くまいか迷っていたが、きっと気持ちは決まっていたのだ。たとえそれが、俺たちの関係を崩すような内容だったとしても。


「あのさ――」

「ねぇ、八百太やおた


 俺が口を開くのと同時に、洋香ひろかもまた何か言おうとしてから、つぐんだ。

 なんとなく気まずい沈黙が流れている。洋香ひろかはもじもじと身体を動かしながら、うかがうような視線を俺に向けてきた。


「なんだよ、先に言えよ」

「……うん。実はね、今日……」


 話の続きをうながしたものの、どうぞ怒ってくださいと言わんばかりの洋香ひろかの様子に、俺は内心ひやひやしていた。










洋香ひろかのお店、また一緒に来てもらっていい?」


 すぐに「は?」と聞き返したつもりだった。俺は口を開いたまま、もはや言葉も出ないでいる。

 洋香ひろかは、この女は、いったい何を言い出したのだろう。


「あ、もちろんお金はだいじょぶだから。ね、イッショーのお願い!」


 白々しいにもほどがある甘えた声で、洋香ひろかは両手をパンッと合わせた。

 頭の中がすうっと凍ったような、俺の中で激しく渦巻いていた感情の熱がずいぶんと引いている。

 この女はいつも自分のことばかりだ。あんなに苦しんでいた俺にちっとも気づかないし、知ろうともしない。なにを好きこのんで自分の女の、こんなに自分勝手な女の利益に貢献しなければならないのか。


「お前さ、そんなに人気ねぇの?」

「……え? なぁに八百太やおたいきなり――」

「自腹切ってまで、客呼ばなきゃならねぇんだろ。自分の男に頼んでまでさ。そんなの、指名取れねぇからに決まってるよなぁ?」


 洋香ひろかはどこか困ったように首をかしげ、いつものおどけた調子を必死で保とうとしているように見えた。


「だいたい、キャバクラやって何年経つんだよ。おととい思ったけどさ、お前の店みんな若くて可愛い子ばっかだよな。そんな中たいしたつらでもねぇお前が席に来たときの、俺の気持ちなんかわかんねぇだろ。いつまでもあの店にしがみついて、そんなにちやほやされたいのか? 誰からも選ばれねぇくせによ。みっともねぇわ、マジで」


 一度吐き出すと、もう止まらなかった。


「結果出てねぇなら、やめちまえよ」


 どうしてもこの女をズタズタに傷つけて、二度と立ち直れなくしてやりたかった。

 いつの間にか無表情になっていた洋香ひろかは、俺を見つめたまましばらく身動きもしなかったが、やがてふっと笑みを漏らした。


「そんなの、八百太やおただって一緒じゃん」


 そう言われて俺は、頭の中から何かがなくなってしまったような感覚を覚えた。


「音楽始めて、何年経つの? 誰かに選ばれた?」


 いま目の前で話している洋香ひろかは、俺の知っている洋香ひろかとはもう別人のような気がする。


「若い子がいいって言うんだったら、ミュージシャンだって若い――うあっ!」


 悲鳴じみた声と共に、どさっと床に倒れ込む音がした。

 腹を押さえてうずくまる洋香ひろかを見て、俺はたった今起きたことに気づき、思わず自分の足を見る。


「……最低」


 洋香ひろかは聞いたこともないような低い声で呟くと、俺を睨み上げてきた。まだ歯向かってくる気のようだ。


「あいつは、選ばれたやつらはみんな、恵まれた環境にいるんだよ。金持ちで、高い機材が買えて、コネだって買える。俺だって――」

洋香ひろか、知ってるもん。八百太やおたがパチンコとか競馬行ったりしてたこと。コンビニのお給料だって、もらったらすぐ使っちゃうじゃん。ぜーんぶ! 貯める気があるならもっと――痛っ!」


 もう一度、うずくまったままの洋香ひろかを蹴った。


「ごちゃごちゃうるせぇな。だったらお前が金持ってこいよ。なぁ?」

「やめてよ……痛っ! 痛い!」

「新しいパソコン買ってくれよ。新しい機材買ってくれよ。こんだけ家に来てんなら、家賃も払えよ。俺が選ばれるように、すこしは役に立てよ。なぁ!」


 玄関の方へ逃れようとする洋香ひろかの背中を、何度も何度も踏みつけるように蹴った。


「俺に貢献しろ! 貢献しろ!」


 蹴る目的で、ただただ蹴っている。つい先ほどまで歯向かってきた身のほど知らずが、手も足も出せずに這いつくばっている姿。いい気味でいい気味で、優越感が刺激された。


「もうやめて……助けて! 助けて!!」

「うるせぇ!!」


 仕上げにボールのように強く蹴り飛ばすと、洋香ひろかは玄関口に崩れ落ちた。


「出てけよ」


 返事もせず、振り向きもせず、鼻をすする音だけが聞こえる。


「助けてじゃねぇよ。誰の家にあがり込んでほざいてんだよ、出てけよ!!」


 洋香ひろかはびくっと全身を縮こまらせ、ドアに寄りかかるように立ち上がり、のろのろと出て行った。バタン、とドアが閉まり、空気がふっと変わる。

 俺は動くことができずにいた。現実感がない。まるで夢の中にでもいたかのように、自分の全ての行動が疑わしく思えてくる。

 だが、肉のかたまりに食い込む感触が足先に残っていた。一気に押し寄せてくる罪悪感に、顔を蹴らなかっただけありがたいだろうと言い聞かせる。

 息苦しい。呼吸が整わない。汗で手のひらがびっしょりと湿っていて、ずっと握ったままでいたスマートフォンがべとついている。画面は先ほど見ていた<Linリン>のブログのままだった。

 たまらずブラウザバックすると、今度は<Linリン>のRAMPANTリァンペントページが表示される。『snowスノウ』の再生回数はすでに三千回を超えていて、コメント欄は相変わらず称賛の言葉だらけだ。

 無心に眺めているうちに、俺の指はなにかにはじかれたように画面をなぞっていた。


『<Linリン>は○○市○○町内のコンビニ店員』


 たった今書き込んだ文章を改めて見ると、どうして俺はこんなことを書いたのか、俺の意識はいったいなにを考えているのかわからなかった。

 だが、天下の<Linリン>がコンビニで働いているなんて、ファンが知ったらきっと残念がるだろう。してやったりといったところだ。


「早く見てくれよ、<Linリン>。返事くれるんだろ」


 俺はここにいる。そんな、願いにも似た気持ちで画面を見つめた。


「見ろよ……俺を見ろ、見ろ」


 書き込んで間もなくスマートフォンが鳴る。昨夜投稿した俺の新曲にコメントが付いたとの報せだった。

 なぜこのタイミングでと不思議に思いつつ、マイページへ飛ぶ。すると新曲のコメント欄に書かれていたのは、『個人情報ですよ』『さらし最低』と、曲にまったく関係のない<Linリン>を擁護する声だった。

 思いもよらない、いや、少し考えればわかることだっただろう。自覚したのもつかの間、スマートフォンはブーッ、ブーッと責め立てるように何度も何度も振動した。通知はいっこうに鳴り止まず、またたく間に新しいコメントが増えていく。同時に、俺の新曲の再生回数も増え始めた。


『ヘタクソすぎ』

『しょぼい曲』

『<Linリン>のパクリじゃん』

『気持ち悪い声』


 二十、三十、五十と再生数はどんどん伸びて、もう百回も間近だ。


「ははっ、ははは……やったぜ」


 文字を追っていたはずの俺の目は、気づけばいつの間にかあらぬ方向を見ていた。

 やっとの思いで、視点を画面に定める。画面上には震える俺の指があった。まるで別の意思を持ったように、指は退会手続きの画面へと進んでいく。執拗に確認を求めてくる画面のあと、アカウント削除のボタンをクリックする。

 もう、限界だった。

 退会完了の文字が画面に表示され、狂ったように鳴っていた通知音は、ぴたりと止んだ。







 底知れない絶望に、どんどん沈んでいく気がした。

 俺は何をしているんだ。今まで何をやっていたのだろう。怒りたいのか、泣きたいのか、よくわからない衝動がじわじわとせり上がってくる。このはけ口のない感情を爆発させて、わめき散らして、大声で叫ぶことができたならどんなに気持ちがいいだろう。

 唯一の救いはまだ、それを恥ずかしいと思う気持ちがまさっていることだ。どこか冷静だった。

 洋香ひろかに言われた言葉が、頭の中で次々とよみがえってくる。やはり洋香ひろかの言ったことは正しいのだろうか。俺は、達観した気になって、いつまでも動かない身体の言いわけをして。ここから見えるものだけを見ていられたら楽だろうと思って。

 怠慢、傲慢。

 俺はかろうじて死なずに生きているだろう。きっと明日も、あさっても。

 ふと、過去の景色から、見慣れたやつらがどんどん走り去っていく気がした。俺を置き去りにして。

 ドアに鍵はかかっていない。なのに俺は、ここから一歩も動けない。







 件名:12月5日

 本文:

 つらい。苦しい。もう何も考えたくない。何もかも嫌だ。

 俺を知ってくれ。俺の曲を聴いてくれ。お前の曲を歌いたい。お前の金も人気も顔も才能も、俺に全部よこせ。

 あいつは俺をバカにした。殴られて当然のことをした。

 どうしてあいつばかり好かれるんだ。どうしてあいつばかりいい思いをするんだ。

 半年間の努力も全部無駄になった。俺は頑張った。俺は何も悪くない。なのにどうして俺ばかり、こんなに我慢しなきゃいけないんだ。影では二人とも俺を笑ってるんだろう。

 あいつらのせいで、俺はこんなに苦しい。

 どうすればいい。どうしたらいい。



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