下川 八百太
第一話 関心
食い終わった後の皿を舐めるなんて、家じゃ誰でもやると思っている。
誰かに迷惑をかけなければ、大抵のことは何をしたっていい。俺はそう思う。
「
カーテンで仕切られたバックヤードの向こうから突然名前を呼ばれ、パスタのトレーを
「下川、
「はいはーい、今行きまーす」
再び呼ばれカーテン越しに返すと、急いで口元を
「悪いね、ご飯休憩中に」
「いえ、もう終わるんで大丈夫っす」
声の主の中年男、もとい店長が、丸々とした顔をこちらに向ける。同時に、座っている椅子がキィキィと悲鳴を上げて
「あ、先に休憩終わらせちゃいますね」
俺は近くに丸めておいたユニフォームに袖を通すと、パソコンの勤怠画面から出勤ボタンをマウスでクリックし、左胸に付いているネームプレートのバーコードを読み込んだ。
「そうそう、来週のここなんだけど。下川くん夜勤で出れる?」
パソコンから確認音が鳴ると、店長はバインダーに挟んだシフト表を取り出し「ここね、ここ」と、来週の金曜日と土曜日の空欄にトントンと指先を当てた。
「あー……いいっすよ、出ます」
なにか忘れているような気がして歯切れが悪くなってしまうが、どうせたいした予定ではないだろうと、俺は了承した。
「ありがとう。下川くんは働き者だから助かるよ」
そう言い終える前には、シフト表の空欄に俺の名前を書いていた。すでに分かっていたかのように素早く。
「あ、そうそう。
「……了解っす」
その名前を聞いただけで反応してしまう、こんな自分が気に入らない。
店長は「頼んだよ」と俺の肩を軽く叩き、重そうな身体を持ち上げるようにして椅子から立ち上がる。
「下川って、そんなによくある名字でもないのにねぇ。まさかウチに二人も集まっちゃうなんてね」
「ははっ、ですよねぇ」
「ところで、来週本当に良かったの? 下川くんも三十歳だし、色々と予定があるんじゃない?」
「いやいや、まだギリ二十九歳ですって。あっと、俺、補充してきます」
そのままのん気にラジオ体操を始めた店長から逃げるように、無造作に積み上げられた段ボール箱のスペースへと向かった。
危なかった。油断しているとあの調子で延々と喋り続け、それを聞き続けなければならない。だいたい、働き者だなんてよく言えたものだ。俺なら断らないだろうと
菓子の入った小さな段ボール箱をいくつか抱え、店内へと続く扉を肩で押そうとした時だった。
「おっと」
「あっ……こんばんは」
ほぼ同時にバックヤードへ入って来た
「あのね、下川くん。ここじゃあ夜でも挨拶は、おはようございます、なんだ」
「そうなんですね。すみません……」
奥にいる店長に聞こえないよう小声で耳打ちすると、彼は謝罪の言葉を口にして
「まぁここに限らず、その日初めて顔を合わせたら、おはようございます。な?」
確認するように言うと、彼は無言のままもう一度
懐かしい。俺も若い頃は、どうして夜なのに〝おはようございます〟なのか不思議に思っていた。今では当然のように染みついているが、しばらくは言い慣れなかったものだ。それにしても、高校生じゃあるまいし。俺は
しばらくすると、ユニフォームに着替えた下川くんがレジカウンター内に入って来た。箱から菓子を取り出しながら、遠目に彼を見る。若そうに見えるけど、二十歳は超えているだろう。まさか、バイトをしたことがなかったりして。
何をすればいいか戸惑っている様子だったが、割り箸や調味料の入った小袋を見つけると、レジ下の棚へ補充を始めたようだ。かがんでいる彼の、染めたことのないような綺麗な黒髪が見える。ぎしぎしに痛んだ毛先、それをいじめるようにワックスで固めた俺の金髪とは大違いだ。
ふと、来店を知らせる音が鳴る。反射的に「いらっしゃいませ」と声が出ると、下川くんも消え
「ね、やばくない?」
「思った! ってゆーか、芸能人っぽくない?」
「わかるわかる。コンビニにも、あんなイケメンいるんだねー」
下川くんはかなりの美男子だ。おそらく道端で見かけたら目で追ってしまうだろう。同性の俺ですらそう思う。漫画やゲームから抜け出してきた人形みたいな顔に、背が高くすらりとしたモデルのような体型。何より、一度見たら頭に残るような、底の見えない深く
真横で補充をしている俺に気を使う素振りすら見せず、女たちは菓子袋を手に取って振り回し、棚から出したり戻したりしている。まったく、店員のそばでよくそんな風に商品を扱えるものだ。女たちから漂うアルコールの臭いも
ちゃらちゃらしていて濃い化粧、喋り方も頭が悪そうだ。派手な外見は嫌いじゃないが、人の迷惑を考えないやつはごめんだ。
女たちはレジに着くなり、下川くんに何か話しかけているように見える。内容までは聞き取れないが、わざとらしい猫撫で声は俺を苛つかせた。
そうこうしているうちに退勤の時間が迫り、あと少しで帰れると思うと今更やる気が出てくる。納品された段ボール箱を片っ端から開けては、陳列棚に補充を繰り返した。一通りの作業を終えてレジカウンターに入ると、下川くんと一瞬目が合う。ちょっとからかってやろうと思い、彼の肩に自分の肩を軽く押しつけた。
「な、なんですか」
「下川くん、やるねー。この色男」
「……はい?」
「さっき来た二人組だったらさ、どっちがタイプ?」
「いや、そういうのはちょっと……それに、あまり区別が……」
「じゃあじゃあ、可愛いのと綺麗なのだったら、どっち?」
俺の質問は再び鳴った来店音に邪魔され、今度はごく平凡な子供連れの夫婦がやって来た。女性は何度もちらちらと下川くんを見やり、すっかり気を取られているように見える。
旦那さんが可哀相だなんて適当なことを思いつつ、退勤時間ぴったりにレジカウンターを離れた。
十二月の外の空気は、アイスクリームケースに閉じ込められたかのように冷たい。ジャケットの襟を寄せながら、バイクを停めておいた駐輪場へ小走りで向かう。ヘルメットを被りグローブを装着すると、温かさがじわりと広がった。
バイクにまたがりキーを差し込んでエンジンをかけると、ふとガラス越しに、雑誌売り場を整える下川くんの姿が見えた。どこにいても目に付いてしまう。そのまま目で追いつつも、帰路に向けてバイクを発進させた。
その一方で、もっと知りたい、心を開いて欲しい、俺を特別扱いして欲しい。
階段を上がりドアの鍵穴に鍵を差し込むと、向こう側から駆けて来る足音が聞こえ、ほぼ同時にドアが開いた。
「
「来てたのか……って、
ぶかぶかのスウェット一枚の姿で、惜しみなく太ももを露出したまま出迎えてくれた
「お前、今日キャバクラは?」
「えへへ、にれんきゅー。だから来ちゃった」
そして、唐突に思い出したのだ。
「悪い。来週の金土、バイト入れちったわ」
「えー! 来週末は
「だから、ごめんって」
「なんで忘れちゃうの!?
短く薄い眉毛をきゅっと寄せながら「真面目に聞いてよ」と、
「仕方ねぇだろ! 機材費とか、これから色々と金がかかるんだし……」
ついカッとなって、何も考えずに怒鳴ってしまった。さすがに強く言い過ぎたかと
「……そーだよね。未来のミュージシャンだもんね、
「まぁその、なんだ。悪かったよ。また埋め合わせするからさ」
「……また出世払いが増えちゃったネ、
「お前なぁ、意味分かって言ってんのかよ」
今度はおどけた調子になった
さすがに一年もつき合っているとうんざりすることも多いし、こんな言い合いは今に始まったことではない。わがままだけど憎めない、馬鹿で可愛い、俺の彼女だ。
スマートフォンをだらだらといじっていると、気づけば深夜三時にさしかかろうとしていた。窓の外から時々聞こえる車の音に、隣で寝ている
液晶画面を指でなぞり、メールの新規作成画面を開く。始めは勤務時間の記録をつけるだけだったが、最近なんとなく日記も書くようになった。思いつくままに文字を走らせているので、本音や愚痴の
だけど、いつかもし俺が死んだりいなくなったりしたとしよう。誰かがこのメールを発見して何らかの後悔すると思うと、仕返しできたような気分になれるのだ。そんなくだらない快感を、ただ味わいたいだけだった。
さて、明日はやることがたくさんある。そろそろ目を閉じよう。
件名:12月1日
本文:夕勤(17~23 実働5.15h)
店長にまた夜勤を頼まれた。稼げるからいいが、俺ならって甘く見られてるのはむかつく。あの腹はさすがにやばいと思う。
途中、下川くんと一緒だった。世間知らずのお坊ちゃん。相変わらず客にモテていた。下品な女たちにも。最近は、ああいうサラサラした黒髪が流行ってるのか?俺だって、見た目はそんなに悪くないのに。あの女たちは見る目がない。
せっかく俺が話しかけてやってるのに、反応は悪いし、空気も読めない。顔は良くても、彼女はいなさそうだ。そこは勝ってる。
明日は新曲をアップする。俺は負けない。
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