sweet little danger

高柴沙紀

第1話

「俺達の育ての親であるばあちゃんは、山奥の農家の出でさ。

 作る食事は、もっぱら和食ばかりだったんだ。オーブンなんて殆ど使ったことなかったんじゃねえかな」

 頭を抱えている猛になどお構いなしに、和樹はよく白身を切った卵を、手際よく濾し器代わりの金笊で濾してゆく。

「だから作れる菓子って言ったら、ホットケーキミックスを利用した蒸しパンやドーナッツとか、こういう蒸し器を使ったプリンぐらいだったんだけど。

 それでもすっごく嬉しかったんだよなあ」

 砂糖を投入し、牛乳を加えていくその迷いのない手つきを、きらきらと輝く赤い瞳が見つめている。

 それをちらりと見下ろして、和樹が笑った。

「特にプリンは妹達が喜ぶもんだから、俺もしょっちゅう作るようになって、今じゃすっかり十八番おはこの一品なんだぜ?」

 バニラエッセンスの香りに、ふんふんと鼻を鳴らし、おっかなびっくり近付いて卵液を覗き込む小さな姿は、確かに可愛いものではあるけれど。

「だからって……」

「だって、タケほら、この子だってそういう時の妹達あいつらみたいな顔してるしさ」

 呻く猛に、いかにも能天気な口調で和樹は続けた。


「どんなにちっちゃくたって、女の子だもんなあ。やっぱり、甘い物は好きなんじゃねえ?」

「……いや待て。おまえの発想、おかしいって」

 痛むこめかみを押さえながら顔をあげた猛は、大きな赤い瞳を瞬かせてふたりを交互に見上げる『彼女』を、指差した。

「少なくとも、この子に卵の菓子を食わせるのはどうなんだ!?」


 自分に向けられた猛の指先を不思議そうに眺める、きょとん、とした表情は無垢で、先程まで長いこと浮かべていた警戒の色も、今はもうない。

 その幼いあどけない顔立ちは、それでも将来の美しさを十分に予感させるほどのものだった。

 そんな可愛らしい白い造作を縁取る、幼児特有の柔らかそうな髪は蜂蜜色で、ちょこん、と首を傾げるだけでふわりと踊ってしまう。


 テーブルの上から、和樹の抱えている卵液の入ったボウルを覗き込んでいた上体を起こしたその体躯は……雀よりは大きいだろうが、鳩ほどには大きくはない。

 首筋や胸元の白さが眩しいのは、胸の半分を隠し、そのまま全身を覆っていく髪の色と同じ蜂蜜色ののせいだろう。


 高校時代、ごく普通にゲームをやっていた猛は、もちろん『彼女』が何であるか、知っていた。


 ハーピー。


 半人半鳥の魔物と言われる生き物が、なぜか、こうして彼らの前で首を傾げていたのである。




 発端は、猛の従兄の失踪宣告が成立したことだった。

 七年前、突然姿を消した従兄には当時、人間関係のトラブルも金銭面でのトラブルも無かった。少なくも無かったと、今でも周りの人々は証言してくれている。

 早くに両親を亡くした従兄は、それでも親の持ち家と僅かばかりの遺産のおかげで、無事に高校を卒業することが出来た。

 おそらく望めば大学に進学することも可能だったのだろうが、その場合、親族にそれなりの負担を掛けることになるのもまた、明白だった。

 さすがにそれは、気が引けたのだろう。

「進学にそれほど拘りはないから」と、穏やかに笑って、彼は就職の道を選んだのだという。

 そんな話を両親から聞いたのは、猛がまだ十歳の頃だった。


 今回、和樹にアルバイトと称して手伝いを頼んだのは、そんな従兄の境遇が、目の前の悪友のそれによく似ていたからかもしれない。


 ───とにもかくにも、悪友のこの動じなさは、結果的にこうして猛のパニックを防いでくれている。

 意図したうえでのことではなかったが、彼を呼んだのは、正解だったというわけだ。



「よしよし。美味いだろう?」

 小さなスプーンに掬い取ったプリンを、小さなハーピーの口元に再び差し出してやりながら、和樹が笑った。

「ほら、落ち着いて食えよ。誰も取ったりしねえって」

 夢中でスプーンに噛り付く幼いに、のんびりと声をかける彼の長閑さに、猛は幾度目かになるであろう溜息を吐いた。

「……ハーピーって、卵食うんだな」

 少なくとも半分は鳥である『彼女』が、平気でそれを口にするとは、猛は思ってもいなかった。

「あー。でもこの子さ、ちゃんと乳房があるんだから、元々授乳する種族なんじゃねえの? 哺乳類じゃないとは言い切れないし。

 卵生かどうかもわかんねえだろう?」

「っていうか、空想上の生き物だと思ってたハーピーの生態なんて、考えたこともないって……」


 確かに、『彼女』には乳房……少なくとも、そうとしか見えないものがあった。

 人間の女性のように、成長と共に膨らんでいくのではないらしいから、ますますわけがわからないのだが。

 完全に幼児の顔である『彼女』の胸は、もちろんごくささやかなものではあったけれど、最初からそういうカタチに生まれつくのだとしたら、授乳する生き物なのかどうかだって、怪しいものである。


「それ以前に、ハーピーってこんなにちっちゃい生き物なんだなあ。下手したらカラスに襲われちまうぞ」

 何の気なしに口にしたであろう和樹の言葉に、思わず想像してしまった猛は唸り声をあげずにはいられなかった。


 スプラッタにも程がある。


 どんなに小さくても、それが人の姿を(半分でも)していたら、あんまり考えたくはない状況だ。

「……小さいのは、子供だからじゃないか? どれぐらい大きくなるものなのかは、知らないけどさ」

 常識的に見れば……鳥の体に人の胸部が繋がっているようなグロテスクさに、嫌悪感を感じてもおかしくはない姿形だが、見慣れてしまえばそれまでだ。

 千手観音像を見て、いちいち違和感を持つ人間もいないだろう。

 まあ、それが生きて動いているのだから、それなりに未だ心のどこかは納得出来てはいないのだけれど。

 それでも。


「はいはい。わかったわかった」

 スプーンの上の卵色の菓子を平らげた『彼女』が、もっと、とねだるように和樹を見上げて、ぴいぴいと鳴く。

 きらきら光る大きな赤い瞳は、まっすぐに和樹を見上げていて、まるですっかり親を信頼しきっている子供のような顔だ。


 少なくともこんなに無防備で、無心に彼らを見上げてくるようなに、嫌悪感や悪意を持つことは、猛には出来そうもなかった。


 さて、どうしたもんだか。


 笑って再び掬い取ったプリンを差し出した和樹と、嬉しそうにスプーンに噛り付いた小さなハーピーを眺めながら、それでも猛は、自分の口元が困ったように苦笑にも似たかたちに歪むのを感じていた。


 さて、どうしたもんだか。


 頭を抱えているのにも、確かに飽きた。

 このちっちゃな魔物───ちっちゃな、無垢な女の子にとって、この世界との懸け橋は、確かに和樹と自分だけしかいないのだ。

 自分達の行動ひとつで、このちっちゃな存在の運命はどうとでも変わってしまう。


 大袈裟に言えば、そういうことだ。


 満腹になったのだろう。

 小さなハーピーは、スプーンを持つ和樹の手に、すりすりと身を摺り寄せる。

 甘えているとも、礼をしているとも取れる無邪気な仕草に、和樹は目を細めてそっと反対の手でその小さな頭を撫でた。

 ぴい、と満足げに鳴く幼な子を見つめていたまなざしが、ふと、こちらへと流される。

 苦笑するような、照れくさそうな笑顔の中で、一瞬、その瞳が鋭い光を閃かせるのを、猛は見た。


 お人好しで世話好きな悪友は、しかし、生憎とそれだけの単純な男ではない。

 ある意味、自分には予想もつかないような突飛なことを平然と考え出す彼を知っているからこそ、猛は内心身構えながら首を竦めて笑ってみせる。


 さて、どうしたもんだか。


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