第二章 トザシタココロ

第5話 手首切断

 ちさは一人、地下鉄に乗って自宅へと戻っていった。

 由宇は今日は仕事を休むことにした。特に何をするつもりでもないが、初めてマッチング相手が死ななかった記念すべき日なのだ。気分がいいので、仕事なんてしている場合ではない。

 由宇が住むのはみなとみらいから徒歩一五分ほどの――同じ“横浜”ではあるが、JR線より内陸側になると、一般的な横浜のイメージとは異なる土地が現れる。いわば“裏の横浜”といった場所だが、歴史的にみれば“本来の横浜”と言い換えられるかもしれない。地下から地上に上がり、レンガ造りの歩行者専用道路を歩く。

 途中、何やら人だかりができていた。街ゆく人たちもその人だかりの方向を見つめ、状況を把握しようとピンと耳を立て野次馬になっている。由宇もその光景の一部になって、人々のやり取りを拾った。

「サイコゲームをやっていたらしいが」「ⅢA?」「手首を切断したらしい」「マジ?」「死んだの?」「手首を切断して免れたみたいだぞ」「どんな人?」「若い女性らしい」「痛みで動けないようだ」「でも回収員は来るんだろ?」「死んでない」「死ぬべき人だ」「殺す?」「誰が?」

 カランと鉄の音がしてナタのような刃物が転がると同時に、人込みから、一人の女性が飛び出した。左手首を押さえ、ふらふらながら由宇に背を向ける形で走りはじめたが――その先に死体回収班の白バンが止まる。たった今、別れたばかりの瀧也タツヤが中から現れた。女性はそれを見ると慌てて踵を返し、今度は由宇の方へ向かって走ってくる。瀧也はそれを追うように、光景の奥から走り出した。

 由宇の横を女性が通り過ぎていく。パッチリとした目は片方が痛みで歪んでいて、強く唇を噛み締めている。服装はロングスカートに白くて肌触りの良さそうなセーターで、清潔感がありお嬢様のような雰囲気を漂わせている。しかし左手からは赤黒い液体が滴り、白セーターは左の袖口を中心に血で真っ赤だ。右手は傷口へ添えられ、セミロングの髪は由宇の鼻もとに柔らかいにおいを残していく。

「こっちです!」

 気づけば由宇は女性の手を引いて一緒に小道へと走っていた。この辺りの道には、多少だが詳しい。

 女性は口を開かなかった。ただ痛みに耐え、しかし走らねばならず、汗を流して歯を食いしばっている。伊勢佐木町の路地は夜になると色とりどりのネオンとスーツ姿の若い男衆が現れる、小汚くも誇り高い路地になるが、しかしそれも昼となるとドブネズミすら見かけないただの汚れた街並みでしかなかった。

 路地を複雑な経路で移動しつつ後ろを振り返ると、追手の姿はもう見えない。

 由宇は、女性に聞いてみた。

「余計なことしましたか?」

 背中を向けたまま首を振る女性。由宇は横に並ぶと――大学生くらいだろうか。肩を竦めてハァハァと口で息をしながら、時々痛みを感じて表情に力が入る。

「その傷は、サイコゲームでⅢAになったから?」

 今度は頷いた。

「行くアテは?」

 女性はかぶりを振る。建物と建物の狭い隙間を見つけ、彼女はそこでしゃがみこんだ。

「でもその傷だと、病院に行かないと」と由宇。

「無理……。死にたく、ない……」

 ⅢAの処分をくぐり抜けた人がどうなるか、由宇は知らない。しかし大衆や女性が危惧しているように、死体回収員や病院などで殺されるのではないかと考えるのが合理的のような気がした。

 とはいえ、だ。

「そんなこと言っても……なにか処置しないと結局死んじゃいますよ」

 すると女性はセーターを脱いで――黒いタンクトップ一枚の姿になると、片手で器用に左腕にそれを巻き付け、一部を口で押え、ギュッと強く結びつけた。

「ッッんっ!! 痛ッたい……! でも、生きてる……!」

 痛みに耐えながらも一瞬だけ笑みを見せる女性。こんな状況で生の実感を口にする彼女の性格について、由宇は少し興味を引かれた。手荷物のなかからペットボトルを取り出して、手ぶらの彼女に差し出してみる。鶴瓶師匠の写真が描かれた麦茶だ。それと、片頭痛用に持ち歩いているロキソニンも見つけたので、気休め程度にはなるだろうが女性に譲った。女性は汗まみれの表情で「すみません」と呟いてそれらを受け取り、痛み止めを四、五錠ほど適当に口に放り込んでから、不器用にペットボトルのふたを開けて麦茶を飲み干す。

「これからどうするんですか?」

 女性は空になったペットボトルを由宇に返しながら言う。「わからないです……。でも……寿町ことぶきちょうに行ってみるしか……」

 思わず由宇はペットボトルを掴み損ねた。

「寿町……」

 空のペットボトルが転がる。JR線の電車の音が、小汚い建物の壁に乱反射している。

 幸い、その街は伊勢佐木町からほど近い。そしては由宇も知っていた。

 かの地は昔から日本有数の宿ドヤ街と呼ばれ、日雇い労働者が集まる貧困地区として有名だった。ベーシックインカム導入後、この地区の治安はだいぶ改善されたと世間では言われているが、その実情は少しだけ違っていた。

 そこは、紋白端末もベーシックインカムによる最低収入保障も拒否した人々が暮らす土地だ。

 ――

 寿町は、影でそう呼ばれている。

 そのという言葉が何を指しているかはわからない。由宇は今まで世間との繋がりをした者という意味だと思っていた。しかしもしかしたら、今のこの女性を見るに――

 いずれにせよ、アンダーグラウンドな人々が暮らす危険地帯だ。由宇は改めて女性に目をやった。まだ若く、美人だ。こんな人があの街に一人で行ったら、もしかしたら生きている事の方が不幸となる事態に巻き込まれかねない。かといって現代社会から死刑宣告を受けた彼女が選べる道はそう多いハズもないのだ。

「瀧也さん」と、おもむろに由宇は言った。

 どこからか「おう」と返事が聞こえる。

「こういう場合、この人はどうなるんですか?」

「ⅢAと死は同じ状態だ。そしておれたちは対象の死体を回収する。それだけだ」

「今すぐ、ですか?」

「わりぃが今は一服中だ。屋外の喫煙はバレたら前科者だ、話しかけんな」

「ありがとうございます」

 由宇は女性の手を引いて走り出した。


環凪カンナです」と女性は名乗っていた。

 その環凪は、さすがに三十分歩いた所でいよいよふらふらしだし、今にも倒れそうな状況だ。

 由宇としては足がつかないようタクシーやバスなどは使いたくなかったから、彼女を励ましながら残りの道を行くしかない。

 周囲は段々と閑散としはじめ、不法投棄禁止の看板がガードレールに鎖で括りつけられている。角を曲がると、さっそく大量のゴミ袋と粗大ごみが不法投棄されており、道の隅から道路にまで溢れだし、凄まじい異臭を放っていた。

「やば……傷口から腐りそうな臭い……」

 環凪がゲロを吐きそうな表情で言う。

 電柱に“寿町”の文字が見て取れた。古臭い宿の看板がいくつも道路の隅に並べられている。建物は果たして築何年くらいの物なのだろうか――剥き出しのコンクリートは黒く煤けており、一見すると廃墟のようで、人が利用しているようには思えない。しかし入り口の埃っぽいガラス戸を見てみると『一泊八百円』の文字が書かれている。奥からは競馬の実況のような音声が流れており、人の気配がした。どうやらこれらの廃墟群は今も現役の建物のようだ。

「着きましたね」と由宇は環凪に声をかける。

「ハァハァ」と環凪は今も汗をかき、辛そうな顔をしながら周囲を眺めている。「着いたけど……、どうすれば……」

「傷がよくなるまで、この辺りの格安宿ドヤで休むとか?」

「無理……だけど、そうするしかないですよね……」

「もしかしたら他にもう少しマシな宿が……」と言いかけた所で、由宇は周囲の異変に気付いた。

 人がいる。

 それも、何人も。

 みな小汚い作業着を着た、何日も入浴していなさそうな茶褐色の肌にぼさぼさの髪と髭。手をポケットに入れ、口の中で何かをくちゃくちゃさせながら由宇と環凪を遠巻きに見つめている。それが、一人、また一人と増え、今では二十人ほど。

 小さな声が聞こえた。

「女だ……」

「男の方でもいいさ。若くて肌が白い」

 彼らの目は一様に死人のように光がなく、しかし黒色に発光しているかのようにギラギラと由宇たちを捉えている。

「なんかヤバそうですね……」と由宇は環凪の手を掴んで、足早に移動する。

 人の群れは、あからさまにその後を追いはじめた。

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