第6話 寿町のドヤ

 由宇が振り返ると、環凪の息が強くあがっている。しかしここで走って逃げなければ、その背後にいる住民たちに捕まったらなにをされるかわからない。とはいえもう、環凪は限界だった。足がもつれ、その場で転んでしまう。

「大丈夫ですか!」と声をかけ、手を差し伸べる間に、住民たちは集まってきた。

「いやマジ、ここ日本かよ!」と毒づく由宇。

 服を後ろから引っ張られてバランスを崩すが、何とか振り払う。環凪は足を掴まれそうになっており、必死に蹴りで応戦している。

 女性に手を出すなよ――と、由宇は抵抗に力を入れた。相手に一生モノの傷を与える覚悟で周囲を蹴りまわし、環凪に寄り添って身体を起こしてやる。

「痛ってぇなくそがき!」と、由宇の蹴りをどうやら頭部で受けたらしい男性が、後頭部を押さえながら喚き散らした。排泄物とゴミの臭いがした。「お前らみたいな腹いっぱい食ってそうな奴らが遊びで来ていい街じゃねぇんだよ」

「そうだそうだ!」

「どうせおれらを笑いに来たんだろ!」

「見せもんじゃねぇからな!」

 なるほど、そう思っていたのか。由宇は大きな声で「違う!」と否定した。「おれたちは切断者だ」

 途端にピンと住民たちの言葉が消える。

「切断者……」

「切断者だと……」

「……会いに来たのか?」と、住民の一人が由宇に聞く。よくわからなかったが、とりあえず由宇は頷いてみた。

「なにがあった?」汚い男が由宇に近づく。

 その臭いに由宇は思わず身を引いたが、環凪は逆に一歩男に近づいて、自分の血だらけの左手を持ち上げた。

「勝手に想像して。それより“会いに来たって”なんの話?」

 酷い顔色だというのに、凛とした口調で男に詰め寄る環凪。

 しかし男は環凪の切断された左手を見ると「ひぃ!」と声を上げて逃げてしまった。同じように、取り囲んでいた住民もわらわらと消えていく。由宇と環凪は、はじめこの街に入った時のように取り残された。

 しんと静まり返った街中で、環凪はいよいよ気力も尽き意識が飛びそうになった。左手の切断部が燃えているように熱く、伴って傷口に唐辛子を塗りつけられたかのような鋭い痛みが腕から肩にまで昇ってきている。それでもまだ自我を保っていられるのは、なぜか助けてくれたこの男性にもらった痛み止めのおかげかもしれないが――とはいえ息をするたびに目がぐるんをひっくり返りそうだ。大学の退屈な授業の睡魔のように、意識を制御できない。

 そしてついに景色は回転した。

 全く、なんで私がこんな目に。すべてはサイコゲームののせいだ――

 そう思ったところで、環凪はついに意識を失った。


「全く、なんで私がこんな目に……」

 その言葉が自分の肉声だと気付いた環凪は、自分がどこか温かくふかふかな場所で横になっていることに気付いた。目を開ける。光景が霞んでいる。薄暗く、しかし黄色味のある光がぼやけて見える。次いで、喉に激しい痛みを感じた。その喉はイガイガと乾いていて、空気も乾燥していて埃っぽい。ごほごほとせき込んだ。

「おいおい勘弁してくれないか」と、見知らぬ声が聞こえた。男の声ではあるようだが、少し裏返っているような、力のない声だ。「風邪をひいているなら出てってもらいたいんだがね」

「すみません……ゴホゴホッ、風邪じゃ……ないです……」

「ホントやめてくれよ。僕の場合、風邪は気持ちからなんだ。つまりだね、気持ちが滅入ると風邪をひくって事なのさ。だから原因はなんにせよ君みたいに咳ばかりする人間の出入りは勘弁願いたいんだよね。あぁなんだか頭が痛くなってきた」

 なんだこいつ。軟弱か。環凪はそう思ったところで、左手の痛みを思い出した。思わず声が漏れる。

「ああ、左手ね。痛いだろうね」と軟弱男。「君と一緒にいた男だけどさ。気が利かない奴だよね~。コンビニかそこらでガーゼや包帯でも買って処置してやればよかったのに」

「すみませんでしたね。そこまで気が回らなかったんです」と、さきほどの若い男性の声がして環凪はホッとした。居てくれたようだ。

 環凪は自分の左手を視界に持ってくる。中々焦点が合わずぼやけているが、白く清潔そうな色がある。

「しかし無茶をしたな。そこまでして生きていたかったか」

「当たり前です……」と答えながら、環凪は声の軟弱男の姿を探した。ベッドの横に人影がある。目をすぼめてその姿をくっきり捉えようとするが、まだ焦点は慣れてくれない。

 身体を起こそうとすると、若い方の男性が「まだ横になってた方がいいですよ」と肩を押さえてくれる。

「すみません。でも大丈夫です」と彼の手を優しく握ってはずす。自分は名乗っていたのだが、「そういえば、お名前を聞いてなかったです」

「僕は辻霧つじきりだ」と、軟弱男。「辻霧ジン」

 お前じゃないし――と思いながら、とりあえず辻霧の声がする方を向いてみる。彼は外からの淡い光の中でシルエットになっていた。目が慣れてきている。パーマがかかった長い髪の毛、白衣のような服装が見て取れる。鼻は高く、痩せている骨格だ。耳にピアスをしているのか、きらきらと光を反射している。

「僕は由宇ユウです。愁衣うれい由宇」

「彼女は僕に聞いたんだよ」と辻霧は言った。「自意識過剰な男め」

 由宇は取り合わずに環凪に言う。「彼が切断者らしいですよ」

「そう、環凪ちゃん。僕は君の仲間だ」

 辻霧は自身の左手を光を背景にして持ち上げた。手首から唐突に途切れている左手だった。

「まさか今になって切断者に出会えるとはね。しかも女性ときたもんだ。きっと気の強い女性なんだろう。僕が一番苦手なタイプだ」

 環凪はごほごほとせき込む。

 辻霧が両手を広げた。「ほら! また咳をしてる! おかげでなんか身体がダルくなってきたじゃないか! 頭も痛くなってきているし! 全くどうしてくれるんだ!」

「すみません……、この部屋、埃っぽくて」

「原因は問題じゃない! 君の行為について僕は指摘しているんだよ! 不愉快だ! 君の事が嫌いだ! 早く出ていって欲しい!」

 そんな事を言われたのは、環凪は生まれてはじめてだった。「そんな風に言わなくてもいいじゃないですか! 私だって手首を切ったばっかりで辛いんです! 少しは人の気持ちを考えてください!」

「人の気持ちなんてわかるものか!」

 次いで一瞬の静寂が訪れたが、環凪はその一瞬がとても長く感じた。

「想像する努力くらい、してください」と辛うじて言い返す。

「断る」

 辻霧は断じて、環凪のベッドに歩み寄った。その間にさりげなく由宇が入ってくれるが――彼の表情がシルエットの中から現れる。痩せこけて、悲哀にまみれた表情をしている。

「君はなんのために手首を切断したんだ。生きるためだろう。自分の生は世界を滅ぼすに値すると信じてそうしたんだろう」

「そこまでは……」

「僕はそうだ」と、男は徐々に冷静さを取り戻しながら言う。「他人ヒトの気持ちがわかるなんてのは妄想だ。元々、我々は分かり合うことができない。すべての行動について我々は、他人ヒトには直接観測が不可能な“感情”というものが先行する生き物だからだ。しかしだからこそ、その感情を伝えるため言葉が生まれ、それによって間接的に相手の感情を理解したがために理性を得るに至った。つまり僕たちは感情に命を吹き込んで、分かり合えないながらも言い合うことで進化していく生き物なのだ。サイコゲームなどで相手の顔色を伺うんじゃない、それぞれ自らが主張し、我々はその多様性の中で生きていくんだ」

「それは強い人の理論ですよ」と由宇が静かに割り込む。「今までの社会の中で、強い他人ヒトに押しつぶされる人たちがあまりに多すぎたんです。だからこそ、今がある」

「そうかい」と辻霧は脱力した。また元の場所に戻り、椅子に座る。「けれどその社会も、また少し変化を見せてくるだろう。面白い話を耳にしたよ。最近、優秀な判定をもらっている人々が次々と唐突にⅢAをもらって死んでいっているそうじゃないか」

 環凪は、由宇の表情がピリリと雰囲気を変えた事に気付いた。

 辻霧も笑みを見せる。「結局はが創作した未来になっていくだけだ。サイコゲームから“切断”しない限りはね」

?」

NA2ナツの下僕さ。サイコゲームの仕掛け人だ」

 ごほごほと環凪は咳を抑えられない。

「僕はもうだめだ。熱っぽくなってきた」と辻霧。「それでも環凪ちゃんはここに残って構わない。君は社会から死ねと言われた立場だが、この街はそれを言わないからね。愁衣くんは、今日は帰れ。ただし――」辻霧は顔を由宇に近づける。「――また僕に会いに来ても構わない。僕はここにいる。この宿ドヤの名前を覚えておくことだ。手首を切らなくても切断者になれるチャンスは、ここにしかない」

 そう言うと辻霧は立ち上がって、まるで病人であるかのようにふらつきながら部屋を出ていった。その辻霧の言葉で環凪は気付いたのだが、この部屋は六畳一間の小さな一室だった。外で見かけていた格安の宿ドヤのうち一つだったのだ。

 取り残されてから、由宇が口を開く。

「とりあえず、ウチに来ますか? 危ない土地だし、今の人も信用していいかわからないし……。少なくともここよりはもてなす事ができます」

 しかし、由宇にはその答えが分かっていた。

 案の定、環凪は首を横に振る。

「大丈夫。私はここに居てみます。少なくともここは一人部屋だし――」

 つまり、見知らぬ男の家に泊まるなどできないというわけだ。

「――ありがとう」

 由宇は、何度かに分けて小さく頷いた。

 それならそれで仕方がない。危険だが本人が選択したことなのだと、由宇は思った。

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