番外編

第56話〈結愛・高校生①〉

 玄関先で新品の靴に爪先を差し込み、踵を揃える。真新しい四角い鞄を手に提げて、スカートの裾を叩いた。


 扉の取っ手に触れる前に、もう一度自分の全身を見下ろし、身なりを確認する。

 中学のブレザーとは違い、高校の制服はセーラー服だ。

 襟の黒地に走る白いラインを指で辿る。

 糸の解れは無い。

 青いスカーフにも乱れは無かった。

 顔だけ振向くように、肩越しに後ろを見る。

 スカートも捲れていない。

 紺色の靴下も、左右高さぴったり揃っている。

 艶々と光る濃い茶色のローファーは、ほんの少し足元を大人っぽく見せてくれる。

 親に買ってもらったお気に入りのスニーカーは、中学の三年間ですっかり草臥れてしまったので、新しい靴の感触にまだ慣れない。

 歩きなれない靴で一歩踏み出し、外との境界を開け放つ。

 一瞬ほんの少し冷たく感じた取っ手が、すぐに温くなった事で、冬はとっくに通り過ぎて、季節が変わったのだと改めて感じた。


 外に出た結愛の体に、春の香りが降りかかる。

 せっかく整えた前髪を、風に乱されて、結愛は目を瞑った。待たせている人の姿を見たいのに、髪が邪魔で目を開けられない。風が巻き上げる長い黒髪を手で押さえながら、うっすらと瞼を上げると、思いのほか近くから優しい眼差しが下りてくるのが見えた。


「乱れちゃったわね」


 唯都が微笑みながら、指で結愛の髪を梳く。額に触れる彼の指がくすぐったくて、結愛は思わず口元を緩めた。

 笑っている結愛に気付いて、「どうして笑っているの?」と唯都が聞いてくる。

 結愛は思っていた事とは別の事を口にした。


「私の特権だったのになあ」


 それだけでは伝わらなかったようで、唯都は笑みを一層深くして首を傾げる。

 結愛はいつものように、彼の腕に自分の腕を絡ませ、歩く事を促しながら、足りない言葉を続けた。


「もう外でも、凄く自然に話している。唯ちゃんが無理しなくていいのは、嬉しいけど……二人だけの秘密、無くなっちゃったなあ、って」


 二人きりの時に、彼が本来の口調で話す事は、結愛だけが知っていた秘密だった。だがそれは、二人の気持ちが通じ合った頃と同時に秘密では無くなった。

 結愛が中学を卒業するまでの間に、唯都は外でも口調を変えずに話す事に慣れてしまった。

 唯都の気持ちを思えば喜ぶべき事だが、ほんの少しだけ、残念に思う。

 結愛は男性的な口調の彼も、とても格好良いと思っていたから。


「……どれだけ可愛いのかしら、この子は……」


 結愛を置いていかない緩やかな速度で歩く唯都が、相手に配慮しない小さ過ぎる声で呟いた。

 唯都に言われる「可愛い」は、何度目でも嬉しい。どうせならもっと大きな声で言って欲しかったが、ちゃんと聞こえたので、嬉しさを表すように彼の腕に体を巻きつけて、顔を寄せる。

 まだ住宅街から抜けていないから、人は少ない。人目を気にした唯都がやんわり離そうとしてくる事も、今は無いので、結愛は存分に擦り寄った。


「大好きな人の前ではね、女の子は誰だって可愛くなるんだよ」


 津田さんが言っていた、と言い添える。


「だからね、私の事が可愛く見えるなら、それは私が唯ちゃんを大好きだって証拠だから、覚えておいてね」


 脳内に花が咲いたような考え方だが、お互いしか見えていない事を承知しているので、彼を喜ばせる本心を告げる。

 唯都の反応も、見慣れたものだ。結愛が好意を伝えれば、彼も必ず返してくれる。


「もう……」


 唯都は結愛に取られていない方の手で口を押さえた。彼の方は、何度言ってもこうして照れてくれるので、口説くのは楽しくもある。


「最高って事じゃないの……」


 ――ああ、楽しい。

 結愛は自分の一言で唯都が顔を赤らめるのが嬉しくて、胸が弾むのを抑えられない。


 両思いになってから、彼の態度から薄々感じていたが、唯都は結愛の事を相当「初心」だと思っているようだ。

 結愛は、唯都が思っているよりもずっと、欲張りである。

 恐らく彼の想像よりも色々な事を知っているし、そういう事を、彼にして欲しいとも思っている。

 大事に、大切にしたいという気持ちが伝わってくるから、それが嬉しいから、結愛からはあまり強請れないでいるが……。

 高校生になったら、何か変わるのだろうか。

 結愛は少し大人になった自分に自問する。

 別に急ぐ必要は、無いのだけれど。

 それでもやっぱり、興味はあるので、唯都はもっと積極的になってくれても良いな、と思う。


「……私の事は、どう見える?」


 考え事をしていて、唯都の問いの意味を把握するのに数秒を要した。

 唯都も結愛と同じ意図を持って、聞いているらしい。


「唯ちゃんは世界一かっこいいよ!」


 彼が結愛を想ってくれている事も、しっかり伝わっている、という気持ちを込めて答える。


(だから、ねえ)


 そして少しの期待も込めて。


(唯ちゃんも、もっと欲張りになって良いんだよ)



 結愛にとっては、いつもと違う道、彼にとっては二年間通った道を歩きながら、同じ学校へ向かう。

 今日から始まるのは、唯都との楽しい高校生活だ。

 例え一年しか重ならなくても、結愛の胸には達成感しか無かった。

 ずっと前から追いかけてきた道だ。

 目下の目標は、


(ちゃんと、私が唯ちゃんの「彼女」だって事、周りに分からせなくちゃ)


 唯都に群がる恋敵を、寄せ付けないようにする事である。










 意気込んで新しい教室に来て見れば、見知った顔が結愛を出迎えた。

 座席表に目を滑らせた時、ちらりと見えた名前に、嫌な予感はしたのだ。まあ見間違いだろうと、自分の席に向かおうとした所で、結愛の行く手を阻むように大きな影が遮った。


「よ、宮藤」


「……なんで芥子川がいるのよ」


 唯都に話しかける時より幾分声が低くなるのは、もう仕様である。

 片手をひらひらと陽気に振って挨拶してきたのは、芥子川だった。

 芥子川が結愛と同じ高校を受験していた事は知っていた。津田と唯都、加えて菊石までも、事細かに考察を教えてきたからだ。

 唯都いわく、「まだ結愛の事を狙っているんだわ! 結愛、私の事捨てちゃ嫌よ、今更芥子川なんかにあげないから!」との事である。ぎゅうぎゅうに抱きしめられて言われた言葉には独占欲が垣間見えて、その時ばかりは密かに芥子川に感謝したものだ。

 津田の見解はまた違った。

「芥子川くんね~……すっかり信者の仲間入りだよ。見ている分には面白いよね。え? 何が面白いって?『逢坂君』に決まっているじゃない」

 芥子川が何かの仲間入りをしたらしいのだが、結愛にはいまいち分からなかった。

「計画的に人をたらし込んで信者を増やす癖に、変な所で勘違いしているの超笑える」と津田がふきだした意味も分からずじまいだ。しかし、何故か唯都が主張する理由よりも、津田の知っている事の方が信憑性が高そうに感じるのである。

 裏付けるように、菊石も結愛にぼそぼそと囁いていった。「私だってちょっと遠慮しているのに、芥子川は信者の自覚が足りない……そのうち他の信者に闇討ちされるわよ……」馴れ馴れしく唯都に寄っていく芥子川を横目に見ながら言った菊石の言葉にも、結愛は曖昧な返事をするだけだった。


「お菊ちゃんとはクラス離れちゃったのに、なんで芥子川とは一緒なの……」


 菊石も無事、同じ高校に合格していた。出来る事なら親友の菊石と同じ教室で学びたかったが、そこまで上手くは行かなかったようだ。


「俺は宮藤と一緒で嬉しいけど」


 席に向かう結愛の後をついてきながら、芥子川は照れもせずに言う。

 結愛の座席の右斜め前に、芥子川は先に腰掛けた。

 遅れて席に着いた結愛の口から、思わず「げ」という声が出る。

 入学直後は出席番号順に席が割り当てられるので、近くなるのは必然であった。


「げ、ってなんだよ。同中なんだし仲良くしようぜ」


「あんまり芥子川と一緒にいると、唯ちゃんが焼もちやくもん……」


 芥子川と喋ると唯都がいい顔をしない事自体は、全く困らない。むしろ嬉しい。

 嫉妬してもらいたいがために、芥子川と会話をするのも悪くは無いのだが、唯都の立場になって考えると、やっぱり面白く無いので、多少は気をつかう。


「のろけかよ……」


 芥子川はげんなりした声を出したが、その表情は道端の猫を愛でるように優しい。


「何、君彼氏いるの」


 突然、芥子川の隣に既に座っていた生徒が結愛を振り返った。

 髪を明るい茶色に染めた、垢抜けた印象の男子生徒である。椅子に肘を乗せて、もたれながら探るような目を結愛に向けていた。

 中学の時には、このように軽々しく声をかけてくる男子は居なかった。茶髪のクラスメイトを前に、改めて高校生になったのだと実感する。

 最初にこの質問をしてくるのは、女子生徒だと思っていた。つまり結愛は、入学してすぐ唯都に目を付けた女子が「逢坂先輩ってかっこいいよね」と言い出したところに、「私の彼氏だよ」と牽制するつもりであった。

 結愛は、彼の意図を深く考えずに、満を持した気持ちで答えた。


「いるよ」


 胸を張る結愛に、男子生徒は少し面白くなさそうな顔をする。


「ええ~、残念だな。別れる予定は無いの?」


 結愛は慌てて首を横に振った。とんでもない事を言い出す輩である。


「な、無いよ!」


「おい、宮藤に恋愛的なアプローチはしない方がいいぞ。宮藤の彼氏、三年の『逢坂唯都』先輩だから」


 お互い名乗らず会話を続ける二人を交互に見ながら、芥子川が口を挟んだ。

 唯都の名前が出た瞬間、結構な人数の生徒達が、一斉に結愛達に注目する。

 入学式前で、少しの緊張に包まれながらも、ざわめいていた教室が、一瞬静まり返った。

 結愛は何事かと驚いたが、芥子川達は気に留めていないようである。

 まだ名も知らぬ男子生徒が、芥子川にも目を向けて尋ねた。


「トウサカユイト? 誰だそれ。有名なのか?」


「お前どこの田舎もんだよ……この学校受ける奴で、逢坂さんの事知らない奴少数派だと思うぞ?」


 呆れた目の芥子川の言葉に驚いたのは、男子生徒だけでは無い。結愛が、「唯ちゃんってそんなに有名なの?」と思っていると、疑問を口に出す前に、顔を赤くした男子生徒に発言の先を越されてしまった。


「い、田舎もんじゃねえよ! 馬鹿にすんな!」


「悪い、別に馬鹿にしたわけじゃねえよ。ただ逢坂先輩はそれくらいのカリスマ的存在って事だよ」


「って言っても、一生徒だろう? 学長の息子とか、政治家の息子とかなのか?」


「いやそういうんじゃ無くて……なんていうか……常軌を逸したシスコン? ……でオネエ?」


 一緒になって唯都に関する説明を聞いている結愛を、芥子川は意味ありげに見た。「まあ、本人も『妹じゃないもん』って否定していたし、実際従兄妹なんだけどな」とにやりと笑う。

 まだその話を引っ張るか、と思い結愛は芥子川を睨みつけ、目線で抗議した。

 結愛の視線をかわして芥子川は続ける。


「あと逢坂先輩は信者がやたら多い。かくいう俺もその一人なんだよね」


「まじかよ……何者だよトウサカ先輩……都会の学校って怖えな……」


 自分の唇を指で押さえながら、男子生徒はぶつぶつと小声で呟いている。


「宮藤にちょっかいかけると逢坂信者に目を付けられるから、程ほどの距離を保っておいた方がいいぜ」


「お前は大丈夫なのかよ? 結構仲良さげだけど……」


「大丈夫大丈夫。俺は逢坂先輩のメル友だからさ~まあ自称だけど」


「てか名前何ていうの?」と芥子川はここでようやく自己紹介を挟む。

 芥子川と男子生徒の談笑は時に結愛を交えて、入学式が始まるまで続いた。





 〈②に続く〉

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