第57話〈結愛・高校生②〉
体育館に並べられたパイプ椅子に座り、式が終わるのを待つ。
新入生の列に埋もれて、結愛は重ねた自分の手の甲をぼんやりと眺めていた。
(私、学校での唯ちゃんの事、全然知らないんだなあ……)
掌を握ったり開いたりして、考えに没頭する。
(何となく分かっていたけど、唯ちゃんもてるんだ……)
校長や生徒会長の挨拶も聞き流し、唯都の事を考えた。
結愛は「逢坂信者」なるものの規模と実態を全く知らない。芥子川の発言からも具体的な想像は出来なかった。
要は、この学校でも唯都は凄く人気があるという事なのだろう。
(これは、大変だ……油断していたら、唯ちゃんが取られちゃうかも知れない)
もしや、唯都が恋人同士の触れ合いをあまり求めて来ないのは、既に気持ちが薄れてきている可能性があるのではないか……そんな嫌な思いが浮かび上がる。
丸二年も別の学校へ通っていれば、結愛の知らない恋敵が出来ていても不思議では無い。
唯都の、結愛への気持ちを疑う訳ではないのだ。ただ、結愛以上に唯都から想われる存在が現れる事を、否定は出来ない。
思考が沈むにつれ、どんどん背を丸めて俯いた。
結愛は、唯都に触りたい。
唯都からも触れて欲しいのだ。
結婚の約束までしたのに、欲張りになる。
端的に、俗な、言い方をすれば――もっと、いちゃつきたかった。
(唯ちゃんが足りない……)
『――続いて、オリエンテーション実行委員長より挨拶があります』
いつの間にか入学式は終わっていたらしく、司会の声が別の人間に変わった。
オリエンテーション実行委員長の挨拶? と疑問が浮かぶ。そんなもの、日程表にあっただろうか。
『実行委員長の、逢坂唯都さんは、壇上へ上がって下さい』
次いで呼ばれた実行委員長の名前は、聞き覚えがあり過ぎる人物だった。
あちこちから、唯都の名前を呼ぶ囁き声が聞こえてくる。
結愛が何かを思う間も無く、体育館が熱気に包まれた。
先ほどまでとは明らかに違う空気に戸惑う。生徒達は皆、同じ方向を見ていた。結愛だけ別の方向を向いていると、知らない生徒と目が合ってしまいそうになる。結愛は仕方が無く、他の生徒達に倣って首を回した。
視線の先には、背筋を伸ばして堂々と歩く、綺麗な男子生徒がいた。
朝、腕を絡ませた時とは違う、感情の乗らない顔。
その横顔を見つめている結愛の気持ちを代弁するように、近くに座る女子生徒の口から思わずといった溜息が漏れた。
「はあ、やっぱり逢坂先輩はかっこいいわね……」
知らない誰かの呟きに、意識を取られる。
結愛の戸惑いは益々大きくなった。
この異様な雰囲気は、何なのか。
先ほど教室で感じたものと似た空気は。
身構えていた台詞を聞いたのに、状況は結愛が考えていた次元とはかけ離れている。牽制など、出来そうも無い。
急に不安に思えてきた。唯都が、手の届かない別人なのではないかと錯覚してしまう。
新入生に向けた唯都の挨拶は、暫く聞くことの無くなっていた、低い声。
結愛が唯都を異性として意識するきっかけとなった、家では聴けない男性の声だ。
結愛は早々に対策を練らねばならないと思った。
唯都の人気を侮っていた訳ではないが、想像以上だったのだ。
クラス全員で教室に戻ると担任が何か説明していたが、頭に入らず耳から抜けていく。
結愛の頭を占めるのは勿論唯都の事であった。
「なあ宮藤」
どうすれば唯都を、あの声を、ひとりじめ出来るだろか――
「宮藤、もう帰っていいってさ」
唯都を追って同じ高校まで来たのに、差をつけられていた気分だ。
空白の二年間、結愛よりも他人の方が様々な唯都を見ていたという事実が気に入らない。
たかが、声くらいで。結愛は嫉妬深い浅ましい自分が嫌になった。
「宮藤……」
「めろんちゃあああん!! 入学おめでとおおおお」
廊下からけたたましい声が聞こえてきたため、結愛ははっと思考を中断し、顔を上げた。
「近寄るな馬鹿姉貴!」
良く知った人物が、普段とはまるで違う乱暴な言葉遣いで言い返している。
「め、めろんちゃん今お姉ちゃんって言って――」
「言ってないわよ耳おかしいんじゃないの恥ずかしいから来ないで私は結愛のところに行くんだから!」
突然始まった廊下でのやり取りに呆然とする。
姿は見えないが、津田が菊石の腕を引っ張って引き寄せようとしているのは目に浮かんだ。
状況を飲み込んだところで、顔を覗き込まれている事に気が付く。芥子川が困ったような表情で結愛を見ていた。
近い、と眉を顰めて、芥子川から距離を取る。芥子川は苦笑して、「逢坂先輩は三年だから、まだ帰れないんだろ? 一緒に帰ろうぜ」と廊下へ目を向けた。
つられて見ると、恐らく一緒に下校しようと結愛を迎えに来たらしい菊石が、津田に捕まっていた。
「めろんちゃんが同じ学校に来てくれて嬉しい……! 私も一緒に帰っていいかな?」
「調子に乗んな。そもそもあんたまだ授業あるでしょうが……ちょっと何涙ぐんでんのよ」
「めろんちゃんと普通に会話出来るの嬉しい……」
「……どうでもいけど抱きつこうとすんな」
「ふへへへ……もっとめろんちゃんと姉妹喧嘩したい……」
「気持ち悪! 立ち去れ!!」
廊下で言い合う姉妹を見ていると、結愛は微笑ましい気持ちになって、少し笑った。
「お菊ちゃんと津田さん、仲良し」
結愛の呟きを芥子川が拾って、「いつもと違って面白いよな」と頷いた。
津田と菊石が同時に宮藤家へ遊びに来て以来、二人の仲は徐々に深まっているようだった。
結愛は事情を詳しく聞いたわけでは無いが、仲違いしていたのが修復されて良かったと思っている。
「ちょっと津田さん、大声出したら他の生徒に迷惑でしょ。そういうのは二人の時にやりなさい」
明らかに男子の声なのに、何故か女性口調のやや高い声が、津田を諌めた。
見なくても、結愛が一番大好きな人だと分かる。
「あっ唯ちゃんだ!」
慌てて立ち上がり、結愛も廊下に出る。津田を呆れた目で見ていた唯都が、駆け寄ってくる結愛に気が付いて、微笑みを向けてきた。
「結愛」
一年生の階に三年生が二人も居るので、目立ってしまうのでは無いだろうかと、結愛は周囲を気にした。
それが無くともたった今津田が奇声を発した所である。
軽く見渡すと、下校しようとする新入生達が大勢廊下に残っていた。
(周りは一年生ばかりだから、ぱっと見三年生だとは思われないかな……? でも唯ちゃんさっき壇上で挨拶していたから、やっぱり目立つかな)
周囲の生徒達はその場に立ち止まっている。どうにも、見られているような気がした。
結愛はまた例の感覚を味わった。やはり皆、唯都に注目している――。
「唯ちゃんどうしたの? まだ授業あるんでしょう?」
視線を感じつつも、結愛は機嫌良く唯都に尋ねた。会えた嬉しさが、顔と声に自然と滲み出てしまう。
「津田さんが息せき切って一年生の教室へ向かったから、追いかけて来たのよ。まるっきり不審者だったもの。皆怯えちゃうでしょう?」
「逢坂君失礼だよ~」
津田が緩く抗議の声を上げる。
一方、津田に抱きつかれている菊石は、必死に抵抗して姉の腕を引き剥がそうとしていた。
唯都は津田を無視して目を細めると、「でもそれは建前でね」と付け足す。口角は上がっているのに、目は笑っていない。
「ちょっと牽制しに来たの」
「牽制?」
「ちゃんと、結愛が私の「彼女」だって事、周りに分からせなくちゃ、と思って」
どこかで聞いた話だった。
「ちょっと芥子川」
唯都は、会話に入らず教室の入り口付近で立ったままの芥子川を、手招きで呼び寄せた。
「はい」
寄ってきた芥子川はどことなく嬉しそうだ。
「不本意だけど、あんた同じクラスになったんだから、結愛に悪い虫つけるんじゃないわよ?」
「任せて下さいよ」
どん、と自分の胸を叩く芥子川を、唯都は胡乱な瞳で見返す。
「言っとくけど芥子川が一番危ないのよ。前科あるんだから」
「その節はほんとすいませんでした」
「友達を超えた接触は許さないから肝に銘じなさい」
「それは約束しかねま……いや嘘です冗談です、そんな睨まないで下さいよ、逢坂さんに嫌われたら俺、信者にどんな目に合わされるか……」
「あら、好かれているとでも思っていたの?」
「逢坂さん、キャラ変わってから手厳しいっすね……」
気安い会話を交わす二人の間で、結愛は置いてけぼりだ。うろうろと視線を彷徨わせていると、唯都の優しい眼差しが結愛の元へ戻ってきた。
「いい? 結愛。芥子川も駄目だからね」
「うん?」
「『芥子川と万が一にでも恋愛に発展するような事があったら、阻止してもらう』からね」
唯都は言い聞かせるように、念を押してくる。
「皆にも、よくよく言っておくから。結愛の恋人は誰?」
「唯ちゃんだよ」
「そうよ。――そういう事だから、私の好きな人に手を出さないでね?」
背後を振り向いて、唯都は最後に“牽制”した。立ち去らずに事の成り行きを眺めている生徒達へ向けた発言のようだ。
唯都の凄むような言葉に、生徒達は慌てた様子で、揃って頷きを返す。唯都は満足げだった。
結愛は図らずも目的が達成されたのだと思い、喜びに顔を火照らせた。
人前なのに、恥ずかしいのに、嬉しい。結愛は独占欲が満たされていくのを感じていた。
再び見詰め合った唯都と結愛に水を差したのは、たむろしていた生徒達ではなく、出席簿を掲げた比較的若い男性教師であった。
「おーい、逢坂、津田、お前ら三年なのに一年の教室前で何やってんだ」
教室のすぐ側にある階段を下りてきた教師が、人だかりに目を留めたらしい。見知った生徒が居たから声を掛けたのだろう。
「あ、担任が来た」という津田の呟きで、彼が唯都のクラスを担当する教師だと分かった。
「彼女に会いに来ていました」
正直すぎる唯都の返事に、教師が驚いた顔をする。
「え、逢坂が? 彼女に会いに? そんな真面目な顔して?」
生徒との距離が近い喋り方をする教師だった。友人同士のように、些か軽い言い回しである。
結愛はその瞬間、頭から抜けていた我侭が、再び芽生えるのを抑えられなかった。
教師が来た途端切り替わった唯都の口調に、むずむずと落ち着かない。
「はい。真面目に交際しています」
「おいおい女子が泣くなこれは……まあいいや、もうすぐ予鈴鳴るから、早めに教室戻れよ。津田もなー。何故だか知らんが沢山残っている新入生達も、早く下校しろよー」
教師は出席簿で肩を軽く叩きながら、教室の前を通り過ぎて行った。
「唯ちゃん、唯ちゃん」
くいくいと、唯都の袖を引く。
「ん?」
結愛に呼ばれて唯都が返した時には、また高い声に戻ってしまっていた。
「ねえ、もう一回言って。さっきみたいに……私、唯ちゃんの低い声も好き……」
「…………」
唯都は何も言わない。
じっと目を合わせる。
彼はゆっくりと視線を逸らした。そして、じわじわと赤くなっていく頬を、結愛に袖を引かれていない方の手で隠そうとする。
結愛は無言で唯都を見詰めて答えを待っていた。
心なしか、廊下も静かになったように感じる。
そのまま時が停まった。
芥子川と菊石も、二人の動向を見守って沈黙している。
静寂を破ったのは、唯都の返事ではなく、津田が堪えきれずに溢した「ぷふっ」という笑い声だった。
そこにからかいの言葉が続く。
「ほら逢坂君、可愛い彼女のおねだりじゃん。言ってあげなよ。あらら顔赤くしちゃって……逢坂君ってばこの程度で意外と純情……」
「馬鹿姉貴空気読んで」
「今多分いいとこっすよ! 邪魔したら悪いですって」
わいわいと好き勝手に言い出した外野の勢いに、唯都は思わずと言った風に、結愛に耳打ちしてきた。
「い、家に帰ったら、幾らでも言ってあげるから」
結愛にとって嬉しい約束を落としていってから、唯都は予鈴と共にその場から逃げるように立ち去って行ったのだった。
二人きりになった頃。
結愛がせがめば、彼女が望んだ以上の甘い声で愛を囁かれた。
誰が聞いても魅力的な、男らしい声音で、「結愛だけだよ」なんて言われれば、満足するしかない。
結愛の行動一つ一つに、顔を赤くして応えてくれる唯都を見ると、少し意地悪をしている気分になる。
あまり強請り過ぎては可哀想かなと思うのに、もっと構い倒したくなってしまう。
初心なのは、もしかしたら唯都の方かもしれない。
そう思うと、結愛の中では物足りなさよりも、愛しさが増すのだ。
心に残っていた僅かな不安は、すっかり吹き飛んでいた。
待ち焦がれていた高校生活も、大変充実したものになりそうである。
<終わり!>
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