第47話〈結愛視点〉
目隠しをされ、手を縛られそうになった時は、震えながらも必死に抵抗した。だが結愛の細い腕では、大の男の力に敵う筈も無い。
力づくで押さえ付けられ、なす術も無く拘束される。
男が隣に座り、結愛にぴったりとくっ付いた。服の布越しに男の体温を感じる。結愛は限界まで首を曲げて、なるべく男から顔を遠ざけた。両肩に力を入れて、体を縮めるようにする。結愛が離れようとすると、男はさらに二の腕を押し付けてくる。触れる腕に、負荷がかかった。男が結愛に寄りかかったのだ。
何もかもが不快だった。
男は、縛った結愛の耳元で、よく分からない事を囁いてくる。
「結愛ちゃんさ、俺の事が好きなんだって?」
「布咲(ふざき)に聞いたよ」
「俺に気がある女子中学生がいるから、そっちにすれば、って」
「結愛ちゃん可愛いよね」
「一体いつ俺の事を好きになったの?」
「俺のどこが好き?」
「ねえ、結愛ちゃん」
「そんなに好きなら、俺が結愛ちゃんの恋人になってあげようか」
男が何を言っているのか、結愛には全く心あたりが無かった。男とは面識も無いし、布咲という名前も知らない。唯都以外の男を好きになった覚えも無い。
耳元に口を寄せられるから、男の息がかかる。
自由と視界を奪われた状態で、男に髪を梳かれるのは、恐怖以外の何物でもなかった。
何故か結愛の口は塞がれていない。
がたがたと震えて、上の歯と下の歯があたる。
何か言おうという気にもなれなかった。
恐怖で、何を言ったらいいか分からない。むしろ、何か言ったら殴られるのでは無いかと思うと恐ろしくて、余計に言葉が出てこなかった。
結愛が黙ったままでいると、それが気に食わないのか、男はそっと結愛の顎に手を這わせてきた。
悲鳴を上げそうになる。おぞましくて、鳥肌が立った。
必死に身をよじるが、男は「ああごめんね、くすぐったかったね」と見当違いな事を言う。
「どうして喋らないの」
「可愛い声を聞かせてよ」
男の顔が、結愛の顔と近い所にあるのが分かる。
口を塞がなかったのは、声を聞くためだったようだ。
人の悲鳴が好きな殺人犯が出てくる映画を思い出して、結愛は彼に殺されるのかもしれないと思った。
いっそ、口もテープか何かで塞いでおいて欲しかった。
男の顔が近づいていると感じると、別のもので口を塞ぐのでは無いかと、嫌な想像が浮かんでしまう。
肌に息がかかるすれすれの距離で、男が話しかけてくる。
頬に息が触れる。そのまま口まで移動してきそうだ。そんな事、考えたくもないのに。
嫌だ。
目元を縛る布が、湿り気を帯びた。
吸い切れなかった水が、頬を伝って顎まで落ちる。
触れられたくない。気付かれたくないと思うのに、男は無遠慮に結愛の涙を指で擦る。
触って欲しいのは、こんな手じゃない。
結愛は恐怖で一杯だったが、男は殴ったり、服を剥いだりと、乱暴な事をしてくる訳では無かった。だが車が止まる気配は無いため、どこに連れて行かれるのだろうか、自分はどうなるのだろうか、と不安が増すばかりで、全く安心する事は出来ない。
次々と新しい恐怖が結愛を上塗りする。
(やだ、やだ、唯ちゃん)
特殊な状況に置かれた今の結愛には、正確な時間を把握する事は出来なかった。どれくらい経ったかも分からないまま、車が停止する。
手動でドアを開けた音が聞こえ、車内に光が入ってきた。
結愛はあまり車に乗らないが、叔母の用事で一緒にタクシーに乗ったときは、『ピピッ』という静かな電子音でドアが開いていたので、このワゴン車は古いものなのかもしれない、と恐怖の片隅で思った。
周りの目があるからか、結愛の目隠しは外され、手を縛っていた布も取り払われる。しかし、跡が付くかと思うほど、強い力で手首を握りこまれ、離す事は出来ない。
男は結愛と一緒に、車を降りた。
(唯ちゃん……唯ちゃん……)
唯都が、結愛の現状を知る方法は無い。祈っても無駄だと分かってはいた。恐らくもっと時間が経過してからでないと、異変に気付いてはもらえないだろう。
それでも結愛は、心の中で唯都の名前を呼び続けた。
(唯ちゃん……助けて……)
降り立ったのは、古ぼけて、所々白い壁にヒビが入ったマンションの前だった。然程大きくは無い。
強い力で引かれ、あまりの痛みに手首に力が入る。
連れ込まれたら終わりだ。ここまで乱暴されなかったのが奇跡なくらいだ。早く逃げなければ。
結愛は足の裏に力を入れて、その場に踏み留まろうとした。
腕に強い衝撃が走る。
男の手は離れたが、それは、抵抗を示す結愛を叩いたからだと思った。叩かれた腕が痺れ、痛みに目を閉じる。暴力を振るわれたという事実が、体から力を奪った。
しかし、再び結愛の手が男に握られる事は無かった。
「うおおおらああああ!!」
野太い叫び声と共に、床に重たい物が擦り付けられた音がする。聞いた事の無い声だった。俯き加減のまま、恐る恐る目を開けると、そこには今しがた結愛の手を握っていた男が、地面に倒れている。
「宮藤結愛さんで、間違いありませんね!」
一体何が起こったのか分からず、呆然としていると、横から明瞭で快活そうな声が聞こえた。
白いワゴン車の男と、言っている事は殆ど同じなのに、受ける印象は全く違う。
横を見ると、声の印象そのままで、がっしりとした体育会系の、高校生くらいの男子が立っていた。
「手荒な真似をしてすみません! 腕は大丈夫ですか? もう危険はありませんよ!」
結愛が何も言えないでいると、その男子は携帯電話に向かって「追いつきました! やっぱり宮藤結愛さんです!」と誰かと話している。
呆然としている結愛へ目を向けて、体育会系男子はにっこりと笑うと、結愛に携帯電話を差し出した。
周りが騒がしい。どうやら人が集まって来ているようだ。だがなぜか、集まっている人達は結愛の名前を知っているようである。
「宮藤結愛さんは無事か?」
「おい、運転手も捕まえろ」
「警察はいつ来る?」
「誰か逢坂さんに連絡を」
「今部長が電話しているよ、あ、宮藤結愛さんと替わるみたいだぞ」
等という声が聞こえてくる。結愛には状況がさっぱり理解出来なかったが、体育会系男子が電話を差し出したままでいるので、受け取った方がいいのかと迷う。
「逢坂さんが心配していますよ」
体育会系男子が続けた言葉で、電話の相手はもしや唯都なのかと思い、結愛は慌てて手を伸ばした。
緊張しながら、携帯電話を耳にあてる。
聞こえてきたのは、二人きりの時に耳にする、少し高い声。
『結愛!! 無事? 大丈夫? 今急いでそっちに向かっているけど、その携帯の持ち主は変な人じゃないから、彼らと一緒に居なさいね! 私もすぐ追いつくから!』
捲し立てるように、慌てた様子の唯都の声が耳に入ってくる。
「ゆ……」
(唯ちゃん)
声を聞いて、安心した。
視界の端で呻く男が、知らない人達に縛られている。
もう大丈夫なのだ。
男に捕まれていた手首がじんじんと痛む。恐らく痕になっているだろう。
だが、じきに痛みも治まるはずだ。
唯都ならきっと、結愛の手の痕にすぐ気が付いて、彼の両手で優しく包み込んでくれる。
開放された事よりも、唯都の声を聞けた事が結愛に安堵をもたらした。
目頭が熱い。喉の奥が痛い。
「唯ちゃあああああん」
携帯電話を持ったまま、その場にしゃがみ込み、結愛は号泣した。
「唯ちゃん、ゆ、ゆいちゃ……」
膝を抱えて、己の顔を埋めてしまったため、声がくぐもる。
「結愛!!」
『結愛!!』
電話から聞こえる声と、外から聞こえる声が重なって、結愛は顔を上げた。
見上げた先には、額から汗を流して、息を切らせている唯都が立っていた。
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