第45話〈結愛視点〉
こんな幸運が舞い込んでくるなんて。
結愛は夢心地だった。意識して、恥ずかしくなって、逃げるように家を出てしまったが、今では早く家に帰りたくて仕方が無い。緊張はするが、恐れは無かった。万感の思いを込めて、あの胸に飛び込むのだ。
「結愛、健闘を祈るわ」
事情を聞いていた菊石は「早く帰ってあげなさい」と言って結愛を急かした。
「うん。じゃあね、お菊ちゃん。また明日ね」
結愛は鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌で、菊石に手を振ると、鞄を肩にかけた。その場でくるりと回る結愛は、今にも踊りだしそうな雰囲気だ。弾むように廊下へ出た彼女のスカートが翻る。
乱れた髪を気にして、手で櫛を通した。
そんな、浮かれながら歩く結愛に水を差したのは、最近大人しかった芥子川だった。
「宮藤、一緒に帰ろう」
校門を出る時に、呼び止められた。
油断していた結愛は、背後から突然声が聞こえた事で、びくりと震えた。
振り向くと、いつから居たのか、芥子川が後ろにぴったりくっ付くようにして立っている。息に乱れは無く、追いかけてきた様子ではない。ここまで一緒に来ていたようだ。
デートの一件から律儀に約束を守っているらしく、芥子川は本当にしつこく構ってこなくなった。恋人同士だと疑われる事も減っていたように思うのだが、今日は、もう止めたのだろうか。
「嫌だよ。唯ちゃんが誤解したらどうするの」
「いや、でも……ほら、最近何かと物騒だし」
彼の表情はいつに無く暗い。
まだ明るい時間である。特に学校近辺で事件があったとも聞かない。言う程物騒だとは思えないが、彼の思い詰めたような顔は、単純に結愛と帰りたいという風には見えなかった。本当に結愛を心配しているのかもしれない。
たまに視線を逸らして、学校の外に目をやる姿は、何かを気にしているようでもある。
彼の方こそ、何か心配事でもあるのでは無いか。
芥子川はここ数日、寝不足が続いていると言っていた。人の心配をする前に、自分を労わった方が良い。
「前、デートしたらしつこくしないって、言ったじゃない。それに、一緒に帰ったら遠回りでしょ。早く帰って寝なよ」
これでも結愛は気遣ったつもりだった。だが芥子川はなおも食い下がろうとする。
「何か胸騒ぎがするんだよ。どうしても駄目か? 俺が無理なら、せめて逢坂さんに迎えに来てもらえよ」
「脅かさないでよ。高校からここまで来て貰うなら、帰った方が早いよ。心配いらないから! 一人で帰るから!」
芥子川の体を離そうと両手で押して、距離を開ける。
「宮藤」
「ついてこないでね! あとちゃんと寝ろ!」
なおも手を伸ばす芥子川に、後ろ向きで威嚇してから、結愛は一人駆け出した。
(今日の芥子川、何か変だったな……)
いい気分を邪魔された事は不満だが、芥子川の顔色が妙に悪かった事が気に掛かる。
きっと寝不足で心が落ち着かないのだ。漠然と不安が増しているだけだ。結愛を心配そうに見てきた事には、根拠も無いだろう。彼にはゆっくり休んでもらいたいものである。
結愛は芥子川の事を考えるのは止めて、唯都に会ったらまず何と言おうかと考え始めた。
学校から離れて、住宅地が近くなって来ると、人も疎らになってくる。
人は少ないが、交通量も少ないので、家に帰るまでの道で、危険そうな物は見当たらない。
閑静な通りなので、夜中に一人で歩くのは少し怖いが、そういう時は、唯都が付いて来てくれるので問題無かった。下校時間の昼間に歩く分には、公園の花をのんびり眺められるくらい、平和な道である。
子供が遊んでいる所を、結愛はあまり見たことが無いが、通学路には小さな公園がちらほらとあった。
殆ど遊具が無く、砂場くらいしか遊ぶ物が無い小さな公園にも、誰かが手入れしているのか、ひっそりとした花壇があるのだ。
何となく視界に入った花をそのままぼんやり見ていると、公園の入り口を塞ぐように停めてある、白いワゴン車が目に入った。
公園の小ささにそぐわない存在感である。路肩に寄せて、歩道に半分乗り上げていた。
近所では見ない車だ。
歩道が使え無いので、結愛は仕方無く道路にはみ出して歩いた。
横を通り過ぎる時、何気なく車の窓を見たのだが、黒いシートが貼ってあるようで、外からは車内の様子を窺えなかった。
公園内に車の主がいるようでも無いので、一体何の用事で停めてあるんだろう、と思いながら、自分には関係の無い事だと思い直し、足を止めずに歩みを進めた。
目線を前に向けた時、ワゴンのドアがガラリと音を立てて開いた。真横から響いた音に驚いて、思わず立ち止まる。
釣られて音がした方を見ようとしたが、視線を向けるより先に、強い力で引っ張られた。一瞬首が絞まって、視界が急に薄暗く変わる。
制服の襟をつかまれ、強引に車に乗せられたのだと気付いたのは、苦しさから開放された後だった。
ドアが閉まると、車内はより暗くなる。エンジンが掛かり、車が動き出す。運転席との境に、黒いカーテンが引いてあり、運転手の顔は見えない。
結愛は拘束されていなかったが、恐怖で動けなくなった。
一体何が起こったのか、今無理やり車内に連れ込んだのは誰なのか、言いたい事が声にならない。
ただただ恐ろしさに固まっていると、運転手とは別の、結愛の隣に座った男が、携帯電話の画面を結愛の眼前に押し付けてきた。
「宮藤結愛ちゃんだよね?」
遠目から下校中の生徒を撮ったと思われるその写真は、紛れも無く結愛を映していた。
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