第41話
――ああ、泣く。
結愛の悲愴な表情を見て、そう思った時には、彼女の涙腺は決壊していた。
どうやら間違った答えを言ってしまったようだ。
(どういう事? 結愛は私が男を好きであって欲しかったって事? つまりどうなっているの?)
「ゆ、結愛」
ベッドから降りて、結愛の隣に膝をつく。彼女の肩に手を乗せて、励まそうと思うのだが、上手い言葉が出てこない。
結愛の泣き顔は、あの時みたいだ。唯都が思わず口調を変える事を忘れて、強引に彼女の泥を拭いてやる直前の、我慢の糸が切れてしまった顔だ。
結愛は止まらぬ涙を拭うために、自分の手で目を強く擦っている。
「ああ、そんなに擦ったら……」
やんわりと結愛の腕を掴んで止めさせる。彼女は抵抗せずに、ゆっくりと顔から手を離した。
何かを訴える訳でも無く、ただぐすぐすと泣き続ける妹を泣き止ませる方法を、唯都は知らなかった。
黙ったまま、結愛の腕を掴んだ格好で固まっていたが、扉をノックする音で、唯都の硬直が解ける。
いつまでも降りて来ないから、また叔母が来たのだろう。
それ以外に扉を叩く人物が思い浮かばなかった唯都は、安易に「はい」と返事をした。
開いたドアから、茶色い毛の先が、ひょっこりと出てくる。
「逢坂君、取り込み中かい?」
記憶に新しいポニーテイルだった。
「結愛ちゃんのお母さんがご飯食べて行きなさいって言うんだけど、流石に本当の事教えてからの方がいいかなあ。ほら、私もそこまで図々しくは無いからさ……」
予想もしない人物が顔を覗かせたので、唯都は素っ頓狂な声をあげた。
「津田さん!? さっき帰ったよね?」
津田、と名前を呼んだ時、一瞬結愛の肩が震える。
「帰ろうとしたら、ちょうど帰ってきた結愛ちゃんのお母さんに引き止められたのよ。暇だったし今まで喋っていたんだけど、そろそろ帰ろうかなって言ったら、ご飯だよって言うから……ちょっとお邪魔するよー」
津田は半開きだったドアを完全に閉めて、唯都と結愛の側までやってくる。
「で、どういう状況?」
向かい合う二人の横に座ると、津田は片方の眉を上げて唯都に問いかけた。
唯都は、俺が聞きたい、と言おうとしたが、今の結愛の手前、言葉は慎重に選んだ方が良いと判断して、口を噤む。
唯都と津田はお互いに眉を上げたり下げたりしながら、視線を交わした。
見つめ合ったまま言い淀んでいると、受動的だった結愛が動いた。
唯都は引っ張られた腕の方へ顔を向ける。目が合った結愛は、涙を溜めた瞳をそのままに、彼の胸に顔を沈めた。
久しぶりに抱きつかれた唯都は、反射的に彼女の背に腕を回す。
恐らく津田に向けてだろう、結愛は嗚咽しながらくぐもった声を出した。
「ゆっ、唯ちゃんをとらないで……!!」
――不意打ちで、直撃だった。
唯都の中を衝動が襲う。
彼の腕の中で小さくなっている結愛の旋毛を意味も無く見つめて、必死に気を逸らした。
「おねがい……ゆいちゃんとらないでえ……」
それきり結愛はさめざめと泣きながら、唯都にしっかりとしがみついている。
部屋には、結愛のすすり泣く声だけが響いた。
自分の表情が剥がれ落ちていくのが分かる。
内心で耐えろと言い聞かせているうちに、一周して唯都の顔から感情が消えていく。
唯都は恐ろしいまでの無表情で、津田を見やる。
津田は呆れたような顔をして、一つ溜息を吐いた。
「心配無さそうね。帰るわ」
やれやれと言いながら立ち上がった津田は、ひらりと手を振ると軽快な足取りで部屋を出る。
そして静かに扉を閉めた。
階段を降りていく音がする。津田の気配が遠ざかったのを確認すると、唯都は強引に結愛を引き剥がし、無理やり彼女と顔を合わせた。
「結愛、話しましょう、ちゃんと。思っている事全部言いなさい!」
唯都の鬼気迫る勢いに、結愛はすっかり観念して、ぽつぽつと語りだした。
この三日間に溜まった言葉を吐き出すように、二人はお互いの胸の内を明かす。
「唯ちゃんが、恋愛的な意味で、芥子川を好きになっちゃったのかと思って……」
切り出された特大の勘違いに、唯都は最初から冷静さを欠いた。
「きゃあああ!! とんでもない誤解よ!! 何でそんな事になったの!?」
阿鼻叫喚である。
「ゆ、唯ちゃん、女の人みたいな喋り方するから、実は男の人が恋愛対象なのかと、薄々感じていて……最近、芥子川の事褒めるから、気があるのかなって落ち込んで……女の人に、興味無さそうだし……」
「私心はちゃんと男なのよ? 確かにこういう喋り方だけど、女性になりたいなんて思った事無いし、ましてや男性に恋愛的な興味を持った事は微塵も無いわ!」
「でも、女性向けの雑誌とかは一緒に見るし、女の子同士みたいな会話もするけど、こ、恋バナとか……好きな人の話とか、聞いた事ないもん……」
「そんなの!! 好きな子本人に言える訳が無いでしょー!!」
腹の底から声を出して叫んだ。
(あっ……)
「えっ……」
結愛が溢した声が、唯都の失言を浮き彫りにする。
力いっぱい告白してしまった事に気が付き、もう何度目かになる回想が頭を巡った。
いつぞやの――結愛が転んで帰った日の、今にしてみれば好機となった失態を思い返す。
目の前の事しか見えなくなって、自分の口調にまで気が回らなくなって……そうして、本性を顕わにしてしまった。
今の状況も全く同じだ。
後先考える余裕も無く、意識せず声に出してしまった言葉は、もう元には戻らない。
焦る場面だ。
自分はもっと慌てているはずだ。
それなのに、じわじわと顔に熱を帯びるのは、口元が歪むのは、どちらも期待によるものだ。
唯都を見返す結愛の目にもまた、喜びが滲んで見えるのは、拗らせた自意識だけが原因では無いと思いたい。
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