第39話
嫌な事があると、朝起きるのは辛い。逆に唯都の場合は、結愛を起こすという幸福な使命があるので、朝はすんなり目覚める。
覚醒前の布団に潜る結愛を見るのも、毎朝の楽しみだ。
唯都が声をかけるまで、結愛は起きてこない。
彼女が一人で早起き出来る人だったら、今の役目は無かったので、結愛が朝に弱くて良かったと思う。
自分の支度を先に済ませ、部屋を出る。短い廊下を挟んで向かいにある、結愛の部屋の扉をノックした。一応叩くが、まだ結愛は起きていないはずなので、いつもなら中に入ってさらに声をかけるのだが――
「はーい」
今日は、返事があった。
寝起きなどでは無い、はっきりと意識のある結愛の声だ。
彼女の起床を手伝うようになって、こんな事は初めてである。
何か特別な予定でもあっただろうか、と戸惑っていると、中から扉が開いた。
「……おはよう、唯ちゃん」
半開きのドアから唯都を見上げて、既に中学の制服を着た結愛が挨拶をする。
身支度まで完璧である。
「おはよう、結愛。今日は早いな。何かあったか?」
部屋の外なので、階下に聞こえる事を警戒して、外用の口調で理由を尋ねる。
「何にもないよ」
結愛はたったそれだけ言うと、静かに扉を閉めて階段を下りていった。
何も無い態度では無い。特に理由が無かったにしても、結愛なら「ちょっと早く目が覚めちゃったの」と言ってにっこり笑うくらいはするはずである。
(私、結愛を怒らせるような事しちゃったかしら……)
階段を下りながら考えたが、何も思いつかない。彼女からも怒っている気配は感じられなかった。感情を押し込めたような静かさだ。落ち込んでいると言われた方が納得出来る。
それから朝食の席でそれとなく問いただしても、結愛が口を割る事は無かった。
――もしかしてこれは、兄妹喧嘩なのだろうか。
唯都は鏡に映る自分を見て、恨めしげな顔をする。今朝目の下に出来ていた隈を指で撫でた。
結愛が一人で起きるようになって三日経つ。
一日だけではなかった。次の日もその次の日も、今日も、結愛の態度は凍ったままだ。朝は唯都が部屋に入る前に起き出して、会話をしていても核心へは立ち入らせない。
何も無い訳が無い。絶対に何かあったのだ。
結愛が小学生だった時の事を思い出す。学校に行きたくないと言っていた時だ。あの時はいつも芥子川に転ばされていたから、登校が憂鬱になっていた。彼女に異変がある時は、必ず理由がある。
だが今回心配なのは、その理由が唯都に関係しているかも知れないという事だ。
結愛の相談相手はいつも唯都だった。唯都に何も言ってこないという事は、彼女の悩みの種は唯都本人である可能性が高い。
決定的なのは、この三日間、お互いの部屋に入っていない事だ。
朝自分から部屋を出るのも、唯都に入らせたくないからでは無いか。そう考えると自然である。
結愛が唯都に対して怒っていて、これがただの喧嘩だというなら、まだ良い。
(兄離れだったら、どうしましょう……)
反抗期。そんな言葉が浮かんだ。
理由も無く気に食わないだけだとしたら、どうしようもない。
(そんな……可愛い結愛が……)
一日二日、結愛に冷たくされただけで、夜眠れなくなる程、唯都は疲弊していた。
そこにきて、例の腹痛が朝晩問わず唯都を襲う。
寝不足で頭も痛かった。
痛みで重い体を無理やり動かして学校へ行ったが、授業が身に入らなかった。
背筋を伸ばして座っている事が出来なくなり、屈むようにして授業を受けていた唯都に、教師が保健室に行くように声をかける。
クラスメイト達は、成績優秀で授業態度も真面目な唯都がぐったりしているのを物珍しげに見ていた。ふらふらと教室を出て行く後ろ姿には心配する声がかかったが、唯都は反応する気力が無かった。
(気持ち悪くなってきた)
保健室のベッドで、何度も寝返りを打つ。もう今日は授業など受けられる状態では無さそうなので、さっさと早退してしまいたかったが、立つのも歩くのも辛い。
絶えず痛む腹を押さえて、やはり放置するべきでは無かったかと後悔する。度々腹痛には悩まされていたが、大きな病気だったらどうしよう、という不安が膨らんでいく。
汗を滲ませながら時々唸る唯都に、養護教諭は「親御さんを呼びましょう」と電話番号を聞いてきた。
(お母さんはもう居ないわ……死んじゃったもの……)
叔母に迷惑を掛けたくは無い。まだ仕事中のはずだ。叔父も職場が遠いからもっと無理だろう。
(お母さん……)
こんな時、気兼ねなく頼れる存在が欲しい。
風邪で寝込んだ時は、一つに結んだ、あの茶色い尻尾を揺らして、お粥を運んでくれた。
癖のある、緩やかな長い髪。唯都が横になっている布団と、台所を行ったり来たりして、尻尾も忙しなく動いた。
目が合うと、ほら眠りなさい、と言って、にかっと笑う。
病気で亡くなったなんて信じられない程、健康的で、明るく笑う人だった。
気が弱っているのだ。
唯一、自分を受入れてくれた結愛が、離れていこうとしているから。
絶対に失ってはならないと、気をつけて、大切に、優しくしてきたのに、やはり駄目なのだろうか。
こんな自分では。
仕方が無いと諦めて、養護教諭に叔母の電話番号を伝えると、またベッドに沈んだ。眠れた気はしなかったが、浅く意識を手放したり、痛みに目覚めたりを繰り返し、時間を過ごす。
どれくらい経ったのか、暫くすると、保健室の扉が開く音が聞こえた。
「逢坂くん、迎えにきたよ」
叔母のものでは無いその声は、はきはきとして、遠い記憶の母と似ている。
うっすらと目を開けると、自分を見下ろす人物の、一つに束ねた茶色い髪が見えた。
高い位置で縛っているから、尻尾みたいだ。
「……津田さん、ポニーテイルにしたの」
ぼんやりしながらそう言うと、いつもと違った髪型の津田は、にかっと笑った。
「似合うでしょ?」
何となく、見覚えのあるような表情だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます