第36話
菊石はみるみる顔を赤くさせた。
「あ、あの人、そんな事まで言っているんですか……」
わなわなと震えだし、搾り出すように声を出す。彼女の顔は赤いが、その表情を見るに、原因は怒りでは無いらしい。
「恥ずかしい……」
自分の心情を一言で説明して、菊石は両手で顔を覆った。
その態度が何よりも、問いかけに対する肯定を示している。
縮こまるように暫くぷるぷると震えると、「ほ、他には……何か私の事言っていませんでした……?」と手で塞がれたままのくぐもった声で聞いてくる。
「いや、特には……」
津田に関する情報を、唯都は驚くほど持ち合わせて居ない。
菊石は唯都の返答を聞くと、心を落ち着けるように、「はあーっ」と声と一緒に長く息を吐き出した。
「取り乱してすみません……」
もじもじと、恥じらいを見せながら、菊石は顔から両手を退ける。
顔の色は誤魔化しようが無い。彼女の意外な表情を見た。
菊石の、横に流した長い前髪が、顔に影を落す。それが余計に、彼女の色気を増す。
雰囲気のある子だとは思っていたが、それ以上に可愛い子なのかもしれない。唯都は結愛に夢中なので、その魅力をあまり理解出来ないだけで、実際は十人いたら十人とも振り返るような美少女なのだろう。
少し、申し訳なく思った。
「お菊ちゃん」呼びは流してくれたようなので、唯都は本題に戻す。
「俺の方は、確認出来て良かったよ。菊石さんの聞きたい事って何?」
優しく聞こえるように心がけて、菊石の話を促す。
「……どこまで話しましたっけ」
ねじが外れたようなので、唯都が締め直してやる。
「姉に聞いて確信しました、から」
「ああ、そうでした。私、知っているんです。……逢坂先輩の好きな人」
幾分熱の引いた顔を上げて、菊石は唯都と真っ直ぐ目を合わせた。
「先輩は、結愛の事が好き。家族愛じゃないですよね。恋人になりたい、“好き”なんでしょう?」
菊石に対しては、嘘をついても意味が無い。津田からも聞いているだろうし、彼女は身を持って知っているはずだ。はぐらかした所で、どうせ気付かれる。
彼女の瞳にも、唯都と同質の熱が見えるから。
「それを聞いて、どうするんだ?」
ここに唯都の味方は居ない。菊石もきっと、芥子川と結愛が上手くいけばいいと思っている。
(空気を読んで、諦めて下さいって?)
結愛の恋をそっと見守れと言いたいのだろうか。
「二つ、確かめたかっただけです」
菊石は、今までが隠していたのだと分かるくらい、切なげに表情を歪めた。
「叶うか。それと、応援するべきかどうか」
「……結果は?」
「逢坂先輩に、幸せになって欲しいと思っていました。でも、結愛が本当に好きな人が、逢坂先輩じゃないなら、応援出来ません」
菊石はベランダの向こう、閉められた窓の先に居る結愛を見た。
彼女の顔を、風で舞った前髪が隠す。
「私、結愛の事も大好きなんです」
唯都も室内に目線を移す。芥子川と結愛が、向かい合って何か話していた。
菊石も、唯都も、感じている事は同じなのだ。
「相思相愛なら、良かったんですけど」
そう付け足した言葉には、言外に――結愛はどう見ても、芥子川の事が好きだから、という意味が含まれていた。
「後釜狙おうとは思っていません。結愛と気まずくなりたくないですから。先輩の、結愛への異常な執着は知っているので、私は最初からどこか諦めているんです」
結愛の居る方向を向きながら、菊石は唯都を見ないで告げる。
少し早口の台詞は、唯都の耳には空空しく響いた。
本当にそう思っているか、とは聞かなかった。
これは彼女の強がりだと分かっていたからだ。
ああそうか、と。
彼女の「最初から諦めている」という言葉には嘘が無いのだ。
嘘では無いが、本意でも無い。
好きになった人には、自分の事も好きになって欲しいに決まっている。
だが唯都は既に、好きになっていた。
菊石に、どうしようもないと思わせる程。
「異常」だと言われる程に、唯都は妹に心を注いでいた。
菊石は今日、諦めるために、一緒に来たのだ。
「……菊石さんの目から見ても、結愛は芥子川君の事が好きかな」
菊石は声に出して肯定はしなかったが、その顔は「見ていれば分かるでしょう?」と言っていた。
(相思相愛、ね……)
耳に痛い言葉だ。現状、邪魔者は唯都なのだから。
結愛の度重なる否定を、信じていない訳では無い。ただ、彼女が自覚していない可能性はある。
「菊石さん、ありがとう」
得体の知れない感覚は、もう無い。
菊石と話した事は無駄では無かった。
この場合の「ありがとう」は、津田の事を含めているのだが、菊石には違った風に聞こえるように、あえて声を落した。
彼女の選択に対してと、結愛を大切にしてくれる事に対してだけ、受け取ってくれればいい。
「戻ろうか?」
海風の音が大きくて、ガラスで遮られた室内の声は聞こえない。見た限り、芥子川と結愛は丁度口を閉ざしているが、タイミングは計りようが無いので、唯都から声をかけた。
「はい。あの、先輩」
「何?」
「お菊ちゃんがいいです、呼び方」
どうやら、流してくれた訳では無かったらしい。
精一杯の勇気で言ってくれたであろう願いを、唯都は受入れた。
「風が強くなってきたし、入ろうか、お菊ちゃん」
こう思うのは、虫が良すぎるだろうか。
――彼女と、もっと普通の、友人同士になれたらいいのに。
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