第35話


 結愛は男性が怖いのだと思っていた。それは小学生の時に苛められた事が原因だと考えていたが、何か思い違いをしていたのかもしれない。


 ランドセルを泥で汚して帰ってきたあの日、結愛はあんなに泣いていたのに。

 唯都の口調がばれた時、こっちの方が好き、と言ってくれたのに。

 やはりこんな喋り方をしているから、結愛から欲しい“好き”を貰えなかったのだろうか。

 唯都は姉のように接していたから駄目だったのだ。

 結愛はかつて自分を苛めていた、男らしい芥子川を好きになったのだから。


「どうしたんですか、先輩。恋に破れたような顔をしていますよ」


 重すぎる足を引き摺ってベランダに出ると、菊石が俯く唯都の顔を覗き込んだ。


「先輩が心配するような状況では無いと思います。芥子川と結愛を二人きりにしたかったんじゃありませんから。私が先輩に確かめたい事があったんです」


 自分はそんな顔をしていただろうかと、教室にいる時の表情を被り直す。唯都の「何の事?」と言うような顔に、菊石は困ったように目を眇めた。


「逢坂先輩って、常軌を逸したシスコンですよね」


 唯都は貼り付けた笑顔のまま固まった。菊石は「怒らないで下さいね」と続ける。


「逢坂先輩は、芥子川の学校での様子も知っていますよね? 芥子川って結構人気あるから、結愛が彼のファンに嫌がらせされる事もあったんです。でも逢坂先輩の信者が動くので、すぐ収まりました。私も結愛の事を聞かれた事があります。普通、妹……と言っても従兄妹ですけど、妹相手にそこまでしないですよね。それで……姉に聞いて、確信が持てました」


 菊石の言っている事は事実である。

 菊石が「姉」と言うのを聞いて、頭に引っ掛かるものがあった。

 以前津田に「もうちょっと情報統制した方がいい」と言われてから、唯都も気をつけてはいた。

 そもそも唯都が直接連絡を取る“友人”は僅かで、後はそれぞれが情報を集めてくれる。

 端の端まで交友関係を辿るのは流石に無理だ。

 菊石に結愛の事を聞いてきた人物も、唯都の直接の“友人”では無いだろう。

 “友人”の“友人”といった所だ。

 唯都は菊石の事までは把握していなかった。だから、菊石の姉の存在も知らなかったのだが、その「姉」なる人物が妙に気に掛かる。

「姉」とやらは逆に、唯都に関する情報を菊石に提供したという事だ。

 唯都の知る“友人”の誰かという可能性は無いだろう。津田の「信者の家族構成までは調べてないか」という苦言から、それとなく聞いてみるようにはしていた。

 “友人”達の中に菊石という人物は居ない。

 離れて住む妹がいるという話も聞かない。唯都のように従兄妹くらいになると、判断がつかないが、兎に角、唯都にとってここにいる菊石は、ただの結愛の友達に過ぎないはずだ。


「だけどどうしても、逢坂先輩から直接聞きたかったんです」


 嫌な汗が流れる。菊石は何かを知っているのだ。唯都の知らない誰かから、唯都の事を聞いている。

 脳裏に、小学生になったばかりの頃の記憶が掠めた。


 ――お前は女子なのか。

 ――違うわ、男子よ。

 ――お前変だぞ。


(それはもしかして、こういう話?)


「待って、菊石さん。先に聞いてもいい?」


 咄嗟に言葉が口を出ていた。


「はい、どうぞ」


 菊石も急かすつもりは無いらしく、唯都が言葉を続けるのを待ってくれる。


「有難う。……菊石さんって、お姉さんいたんだね。俺の知っている人かな。良ければ名前を教えてもらえる?」


 菊石は一瞬だけ渋い顔をした。ぼそりと「お姉さん……」と呟いたが、すぐに普通の声量で「逢坂先輩の友達だと聞きましたけど……」と言い直す。

 その渋い顔の意味は何だ? と思ったが、菊石が告げた名前に仰天してそれ所では無くなった。


「津田敏子っていう人です。逢坂先輩と同じクラスなんですよね?」


 はて、津田敏子なんて趣のある名前の知り合いがいたか、と記憶を探って、強烈に脳を刺激する“津田”の存在が頭に浮かんだ。

 思い出すまでも無い。先ほどから思考に度々登場していた人物だ。


「…………津田?」


 何でも知っているような顔をする、クラスメイトの津田。

 何かと構ってきて、不吉なメッセージを寄越す津田。


 ――中学校でお友達いっぱい作って、妹さん……じゃないか、従兄妹さん見張らせているでしょ? 私の妹もそれなの。逢坂君の、お友達のお友達。喜んで従兄妹さん情報提供しているみたいよ。


 ――それでね、確かな筋からの情報なんだけど、結愛ちゃん、今度自分の家に、お友達を連れて行くらしいのよ。


 ――前にも言ったでしょ、逢坂君の友達、の友達が私の妹なんだって。妹から聞いた話だよ。


 ――――今日の情報提供――いよいよ今日だね。経過報告よろしく。

 ――正直に答えてくれ。何で今日だと断言できる?

 ――妹ちゃんから聞いたよ。

 ――結愛個人の連絡先を知っているのか?

 ――それは個人情報なので言えない。


 パズルのピースがかちりとはまる。津田との会話を思い出し、自分の勘違いに気が付いた。

「妹ちゃん」と聞いて、勝手に結愛の事だと思っていたが、彼女の妹――菊石の事だったのだ。

 結愛が家に友達を招く事を、津田が知っていたのも、招かれる菊石本人に聞いたのなら、なんら不思議は無い。

 津田が一体何処から結愛の情報を仕入れてくるのか……彼女の妹が、結愛が親しくしている菊石であるなら、全て納得出来る。


(えっでも待って)


 ――何でそんなに構ってくるんだよ。

 ――だって、私の妹が逢坂信者なんだもん。

 ――……は?


「お菊ちゃん……俺の信者なの?」


 目を見開いた菊石を見て、しまったと思ったがもう遅い。

 うっかり「お菊ちゃん」呼びしてしまった事も、「俺の信者」等という自意識過剰な発言をした事も、無くなりはしないのだ。




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