第32話〈菊石視点〉
敏子が放った「名前が嫌だ」という何気ない一言。そこから両親の不仲に繋がった。
夫婦に何かと干渉してくる祖母の事を母は嫌っており、「敏子」という名付けに関しても、思う所があったという。父との間でも喧嘩が絶えなくなった。
無責任な姉は、自分がこの家でどれだけの発言権を持っているか分かっていないのだろう。めろんは壊れていく家庭をただ眺めている事しか出来なかった。あの敏子でさえ、泣く事しか出来ないのだ。彼女の涙に動かされない両親など、もはや何を言っても無駄だった。
両親は離婚する事となった。
親権をどちらが取るかで、父よりも、祖母が絶対に譲ろうとしなかった。彼女は孫二人と離される事を恐れている。
母も、敏子を連れて行くためなら、めろんを一緒に引き取っても構わないようだった。
正直、めろんは敏子と二人で一人の母を分け合うなどごめんだった。今まで言えなかった我侭を出し尽くして、父と祖母に訴える。――敏子が母と行くなら、自分は父と行く。姉妹で離れても構わない。お祖母ちゃんと一緒にいたい。
祖母はたいそう喜んだ。母も、本人がそこまで言うなら……と、嬉々として敏子だけを引き取ると言った。父は一人、最後まで複雑そうな顔をしていた。
反対したのは敏子だけ。
この時ばかりは、めろんは我慢しなかった。何度も話し合いがなされ、二人は離れ離れとなる事が決まった。敏子よりもめろんの要求が勝ったのは初めてだった。
両親が離婚した事で、名字が変わった。
両親は結婚した際、母の姓を選んでいたため、父は旧姓に戻った。父に引き取られためろんは、津田から、菊石となった。
菊石めろんは、自分の名前が嫌いだ。
“めろん”といった名前は、一見読めない当て字を使われる事の多い、いわゆるキラキラネームと呼ばれるものらしい。ネットニュースで偶然その事を知った菊石は、世の中には可哀想な名前を付けられる人が沢山いるんだな、と思った。
馬鹿な親――まさに敏子を目に入れても痛くないという程可愛がっていた親ばかである――が、考え無しに名付けるのだろう。菊石は自身の経験と、世間のキラキラネームに対する評判から、偏見を育てていった。
よく祖母と一緒に時代劇を見ていた。着物を着た女性を見て、祖母は、めろみたいな美人さんだねえ、と言う。菊石が名前を嫌っている事に、祖母も一抹の責任を感じているらしく、少し縮めて名前を呼んだ。“めろん”も“めろ”もたいして変わらないのだが、ほんの少しでも気遣ってくれる祖母の事が、嫌いでは無かった。
時代劇に出てくる、古風な名前に憧れた。小町だとか、巴だとか。雪とか、銀とか、音が二文字でも素敵だ。“めろん”なんて、普通に読めない。誰にでも分かる漢字で表記される名前を羨ましく思った。
両親の離婚後も敏子は、たまに連絡してくる。嫌だと言っても、めろんちゃん、と呼ぶ。
菊石は、姉に嫌いだとはっきり伝えた。敏子は鈍いわけでは無い。菊石がどれだけ敏子を嫌っているかも、何を恨みに思っているかも、気が付いている。理解した上で、津田敏子は、菊石めろんに構うのだ。
電話越しの声はいつも、菊石を甘やかすように優しい。少ない水で砂糖を溶かしたみたいに、どろどろとした声音。
――この女は、こんなに嫌われているのに、どうして愛想を尽かさないのだ。
菊石は、敏子に好かれるような態度をとってきた覚えは無い。それに敏子は、離れて暮らしているのに、当然のように菊石の近況を把握していて、電話で共通の話題を振ろうとしてくる。何故知っていると問いかけても、気持ちが悪いから電話をしてくるなと言っても、望む返事は得られない。
菊石は敏子の事が分からない。なのに、敏子は菊石の事をよく知っている。
顔を合わせればきっと、全て分かっている、と言うように彼女は微笑むのだろう。
敏子が小学校に入学したばかりの頃、一度一家は引越しをしている。その際、学区が変わっていた。敏子は一年の時だけ過ごした小学校から転校して、残りは引越し先の小学校で学んだ。
離婚後も菊石は同じ小学校に通い続けたが、中学入学と共に、元々住んでいた地域へと戻ってきた。
そこで出会ったのが、結愛だ。
結愛が何気なく付けてくれた渾名を、思いのほか気に入ってしまった。
“お菊ちゃん”。
いい響きだ。
時代劇みたいだ。
笑わない子ね、と母親に言われて、余計笑えなくなった菊石にとって、結愛は付き合いやすい相手だった。何故なら、彼女の方が、菊石よりももっと表情が動かない子だったからだ。
声だけ聞けば、割と感情豊かにも思えるのに、ゲームに出てくるリアルな人間みたいに、顔の筋肉を使わない。付き合いが長くなるにつれて、頬を緩めてくれるようになったが、それでもまだ、彼女の全開の笑顔を知らない気がする。
結愛には兄がいるらしく、会話に“ゆいちゃん”が頻繁に登場した。優しい兄を純粋に慕える結愛を尊敬した。世間的には、それが普通なのだと思うと、菊石は自分が姉を恨むのは随分と罪深い事のように感じた。
時々はねるような動きをする結愛の事を、可愛らしいと思っている。お菊ちゃん、と呼んでくれるのは彼女だけだ。新しい名前をくれた彼女の事を、菊石は特別に思っていた。
三年に、とても格好いい先輩がいる。中学一年生の時、すぐに噂が聞こえてきた。菊石は興味が無かったが、ある日、遠目に見ただけで分かった。名前を知らなくても、きっとあの人の事だと直感した。
何を知っている訳でもない、ただ見た目だけ。
完璧に整った外見が、あまりに綺麗で、何で芸能人がうちの校舎で撮影しているのだと思ったくらいだ。彼は無表情でじっと校舎を見上げていた。その先に何があるのだろうと探したが、一年生の教室があるだけである。
全く感情を見せない固まった顔が、クラスメイトらしき男子が近くを通った途端、がらりと変化した。沢山の人が彼の横を通り過ぎて行く。挨拶をされると、彼は誰もが見惚れるような笑顔を浮かべた。さっきの冷たい表情が嘘のように、固い頬が柔らかく崩れる瞬間を見てしまった。
見たくなかった。
結愛が大好きな“ゆいちゃん”と、皆の憧れのあの人を繋げて考えた事など無かった。
帰り際に、結愛が窓の外を見て「あ、唯ちゃんだ」と言ったから、“ゆいちゃん”が同じ学校の人だと知った。
何の気なしに「どれ?」と聞いて、「あの人だよ」と結愛の視線の先を辿った時から、結愛に隠し事を一つ持つ事となったのだ。
――いい事教えてあげる。その人、すっごくシスコンなんだよ。これヒントね。
敏子に送られてきた写真の彼が、“ゆいちゃん”だと知って、やっと“ヒント”と繋がった。
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