第15話〈芥子川視点〉

 



 芥子川けしかわは小学生の頃、妙に陰気な顔をした女子の事が気になっていた。


 真っ直ぐ切った前髪が、ホラーで出てくる人形みたいで不気味だ。でも、黒く長い髪で縁取られた顔は、はっとするほど白い。

 それも不気味かと思えば、そんな事は無かった。

 長い睫毛がぱちぱちと動く度に、釘付けになってしまう。肌はきっとすべすべで、思わず触りたくなる。

 妙に存在感があった。

 何故こんなに気になるのか、芥子川には分からなかった。

 その女子はいつも無表情で、あまり喋らない。声を聞きたいと思うようになり、彼女が近くに居る時は少し緊張した。


 芥子川が教室の後ろでクラスメイトと話していると、その女子が、別の女子と話し始めた。親しそうに見えた。

 女子の間で逸っている、ビーズで出来た動物を見せられているようだ。小さな白い犬が、気になる女子の掌に乗った。


 何となく、成り行きを見ていた。すると、芥子川達とは別の男子が、ふざけていた拍子に、女子の椅子にぶつかった。

 あ、と声を上げる。

 白いビーズの犬は、衝撃で飛んでいった。

 女子が慌てて立ち上がり、落ちる前に手で取ろうとする。しかし、上手く行かなかった。犬は床に転がり、女子が一瞬見失ったそれを、足を浮かせた際に下に敷いてしまったのだ。


 じゃり、と、ビーズが床に押しつぶされる音がした。


 結果は見るまでも無く、よけた足の下には、無残な姿になったビーズの犬。

 空気が凍った。


 ぶつかった男子も謝ってはいたが、ビーズの犬の持ち主は、踏んだ人間に感情を向けた。怒りか悲しみか、お気に入りの物を壊されて、大声で泣き出す。踏んだ方は、表情も体も完全に固まって、途方に暮れていた。

 わざとではないが、そんな事は関係なかった。担任の教師が仲裁に入り、無理やり場はおさめられたが、そのやり方は良くなかった。


「ビーズくらいで、何なの。そんなのいくらでも作ればいいでしょ、高価なものじゃあるまいし。大体、授業に関係ない物を学校に持ってきてはいけません」


 女子は二人とも納得していなかった。

 踏んだ方は、自分が悪いと認めて謝っていたのに、教師が、持ち主を注意した事で、持ち主の女子は理不尽に思ったのだろう。

 私悪くないもん。

 そう繰り返していた。

 落ち着くのを待ってやれば、自然と許してくれたかもしれないのに、二人は嫌な雰囲気のまま、授業開始とともに席に着いた。


 芥子川は、気になる女子の行動を、ずっと目で追っていた。彼女がこっそり、教師の介入でうやむやになったビーズを拾い集めて、ポケットに入れているのを見た。



 次の日、教室に行くと、昨日喧嘩したはずの女子二人が、明るい声で仲良く会話をしている。流石に驚いて、芥子川は二人の席に近づいた。


 背後からそっと様子を窺う。机の上に、白い何かが光った。

 ビーズの犬だ。

 昨日見たものと、殆ど変わらないように見える。


「結愛ちゃんのおにいちゃん、すごいね! かんぺきだよ! こわれる前みたい!」


 昨日大泣きしていた女子が、結愛と呼ばれた女子に笑顔で言う。

 どうやら、すっかり仲直りしたようだ。

 自分のことでもないのに、芥子川は少し安心して、次いで結愛を見た。


 この時から、結愛の顔が頭から離れなくなるのだ。


 結愛は、いつもの無表情が嘘のように、顔の筋肉を使っていた。心なしか、頬も少し赤く見える。人形のような白さでは無い。生きている人間の、温かい色だ。

 嬉しそうである。

 ビーズの犬と、相手の女子を交互に見ながら、結愛は、にこにこと話している。


 誰だ、これ?


 結愛が話す内容は、頭に入ってこなかった。芥子川は言い知れぬ感覚に襲われた。

 ずっと部屋に飾ってあった写真が、実はデジタルフォトフレームだったような。デッサン用で、偽物だと思っていたりんごが、持ってみたら本物で、重たかった、というような。


 何か喋りたい、結愛と言葉を交わしたいと思った。何故かは、分からない。

 背後で黙って立っている芥子川に気が付き、女子が声を上げる。驚いたとか、何をしているのだとか、そんな事を言われた。結愛は声を出さなかった。芥子川が聞きたいのは、結愛の声だ。何故何も言わないのだと、結愛に喋らせようと、芥子川は口を開いたが、すぐに閉じてしまった。

 結愛の顔が、あの無表情に戻ってしまったからだ。

 そしてその目は、芥子川を見ている。

 顔が熱くなった。

 無性に、悔しいような気持ちになる。

 目が合っても、嬉しくなかった。


 さっきまで、あんなに笑顔だったじゃないか! 俺じゃ不満だって言うのか! 


 芥子川と結愛は、別に親しくはないのだから、結愛が笑顔を見せなくても不自然では無いのだが、衝撃を受けた直後で、芥子川の思考回路は異常をきたしていた。


 昨日の男子みたいに、椅子にぶつかってやったら、どんな顔をするだろう。


 無性に、結愛の椅子を蹴り飛ばしたくなった。だが、昨日の固まった結愛を思い出すと、何故か胸が痛む。もっと別の顔が見たい。

 泣いたら、どんな顔なのだろう。そう考えて、また昨日の惨事が頭を過ぎる。駄目だ、泣かれるのは、面倒だ。

 結愛の泣き顔にも興味があったが、それで自分が責められるのは嫌だと思った。

 やはり、一番見たいのは……。


「おい、笑えよ」


 芥子川は、ただ自分の要望を口にした。

 上から物を言うような感じになってしまった、という後悔は、結愛の表情の変化と同時にやってきた。

 結愛は笑うどころか、さらに表情を消してしまう。

 唯一、少しだけ眉をひそめていた。

 彼女が、不快に思ったのだという事は分かる。芥子川は自分の失敗を悟ったが、取り消す事など出来ない。上手い言い訳が浮かばなかった。

 結局彼が選択したのは、無言で逃げるという、最悪のものだった。何も思いつかなくて、全部後回しにしたのだ。

 後で、誤解を解こう。

 でも、誤解って、何が誤解なのだろう。

 芥子川は、何を訂正すればいいのかも、よく分からなかった。

 自分の気持ちが分からなかった。



 結愛に話しかけようと、機会を窺っては、失敗した。いつも喧嘩ごしになってしまう。

 いつしか結愛は、芥子川が話しかけても、何の反応も示さなくなった。しいて言うならば、またか、という呆れを含んだ視線をよこすだけだ。


 相手にされない事が恥ずかしく、腹が立った。はっきりと分かってはいなかったが、結愛の気を引きたかっただけなのだ。だが、彼がした事と言えば、結愛を転ばせた事くらいだ。理由は、一緒に帰りたくて声をかけたら、断られたから、その腹いせで。しかも、同じ事を繰り返した。

 彼は、結愛に嫌われていた。

 帰り道、呼んでも返事をしてくれなくなった事で、そう思うようになった。


 呼んでも答えないなら、転ばせてやれ。一緒に帰らないなら、転ばせてやれ。


 一度やったことは、やりやすい。芥子川はそのやり方でしか、結愛に近づけなかった。

 教室では、芥子川も男子のクラスメイトと話すので、結愛に話しかける事は少なかった。だから、学校帰り、結愛が一人で居る時に、声をかけるのだ。





 ある時、結愛が力強い眼差しで、芥子川にやり返してきた。

 と言っても、暴力ではなく、言い返しただけなのだが、それは大きな反撃だった。


「あんたなんか、怖くないよ! 私には、唯ちゃんがついているんだから! 私の方が、あんたのこと嫌いなんだからね!」


 嫌い。初めて明確に言われ、芥子川は言葉に詰まった。ずん、と、気分が落ち込む。そして、気になることもあったので、ひとまず疑問を口にした。



「……ゆいちゃんって誰だよ」


 ゆいちゃん、と言っていたが、そんな名前の女子はクラスにいない。結愛の仲のいい女子は大体見覚えがあるので、どこの誰の事か知りたかった。


 結愛は、いっそ誇らしげに、“ゆいちゃん”について語りだした。


「私の大好きな人だよ! すごくかっこよくて優しいんだよ! 唯ちゃんだけは私の味方だから、あんたなんか怖くない!」


 大好きな人、すごくかっこいい、優しい、味方。

 芥子川には決して言ってもらえないであろう言葉が並ぶ。何も言い返せない。

 芥子川は完全に敵と認識されているのだ。

 かっこいいという形容を、女子には使わないだろうと、芥子川は思った。つまり、結愛が熱を持って話す、“ゆいちゃん”とやらは、男子の可能性が高い。


 さらに聞き出したかったが、心の傷が大きかった。聞いたところで、倍以上になって返ってくるだろう。今の自分に、それはきつい。芥子川はその場を、結愛の言葉を最後に立ち去った。

 芥子川が立ち去ろうとした時、一瞬結愛が勝ち誇ったような顔をした気がしたが、深く考える余裕は、既に失われていた。




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