第10話〈結愛視点〉

 扉をノックする音で、覚醒する。

 見慣れた自分の部屋が、朝日で明るく照らされている。

 結愛は目覚めから、自分が置かれている状況を思い出した。

 寝起きは良い方だ。すぐに動きだす事も出来たが、扉の向こうに居るのが誰なのか分かっていたため、あえて返事をしなかった。

 布団を引っ張り、頭を隠す。深く潜り込んだ。黙ったままで、彼を待つ。

 彼女の狙い通り、部屋に彼が入ってくる音がした。ドアノブが回る。する、ぺたん、と、スリッパが床を踏む音がした。

 音は結愛に近づいてきて、ベッドを見下ろしながら、声をかけた。

 結愛が兄として慕っている唯都が、優しい声で結愛を起こす。


 結愛は朝、唯都に起こしてもらう行為が好きだ。

 だから、先に目が覚めていても、唯都が部屋に入ってくるまで、自分からは起きない。彼と仲良く連れ立って、階下におりるのが常だ。


「結愛、朝よ。起きましょう?」そんな風に唯都に起こされるようになってから、結愛の朝は幸福感から始まる。

 もともと兄は優しかったが、口調が変わってから、結愛は全面的に、全てを許されている気持ちになっていた。例えるなら、親には我侭を許されない子供が、甘やかしてくれる祖父母に、気持ちを傾けるようなものかもしれない。両親が特に厳しいわけではないが、長い時間を一緒に過ごす兄が、優しく頼りになる存在であることは確かだった。唯都の接し方は、結愛に心を開いてくれている、と感じさせるものだ。



 潜ってはみたものの、唯都の声を聞いても、結愛は穏やかな心持ちになれなかった。

 このまま、部屋を出たくない。結愛がそう思うのは、小学生の時、クラスの男子に意地悪をされていた時以来だ。

 今度の悩みの種は、今まさに部屋に入ってきた唯都である。だが、このまま布団を被ったままでは、何の解決にもならないことは、結愛も分かっていた。

 結愛は、唯都を困らせたくなかった。聞き分けのない子供だと思われるのも嫌で、重たい気持ちのまま、体を起こす。


 唯都の事を、嫌いになったわけでは、決してない。顔を見たくないわけでもない。なんとなく、という事もなく、結愛は正確に自分の現状を把握していた。その上で、慣れるしかない、と結論付けていた。


 部屋を出ると、スイッチが入る。

 はしゃいでいるような、明るい声はなりを潜め、結愛はすっと表情を閉じた。

 まだ出勤前の両親が居るため、唯都の口調が変わる。両親がいる時は、二人は最低限しか話さない。元々は、沈黙が苦になる二人ではない。饒舌になるのは、朝部屋に居る時と、放課後、親が帰ってくるまでの時間だ。それ以外は、自分たちの会話が聞かれていることを意識して話す。


 だから、家に居る間は、これまでとなんら変わらない。

 違和感があるのは、中学校に入学してから共有するようになった時間だ。



 それを感じたのは、一緒に登校し始めてすぐだった。


「結愛は、部活には入るのか?」


 通学中、何気ない会話が始まる。

 二人きりだが、外である。誰が聞いているか分からない。だから唯都は、普通の男子と同じように話していた。


「俺は結愛と過ごしたかったから、部活には入らなかったけど、もし結愛がやりたいことがあるなら、どんどんやった方がいい」


 家族団欒の時には、長々と声を聞くことが無かった。大抵、ぽつぽつと口を開いて終わる。あまり抑揚のない言葉が、さっと通り過ぎるだけだ。

 二人だけで、気を許して話す時には、唯都は口調に合わせてか、やや高めの声を出しているようだった。


 通学中に話し出す彼の声は、今まで聞いたものとは違う。

 唯都の声は、低く落ち着いている。

 両親と話す時のような、一言二言ではない。それから、結愛が一番聞き取りやすい速さで話す。早口だったり、噛んだりする事も少ない。決まった台詞を読み上げているかのような、淀みの無さだ。間の取り方を取っても、唯都は会話が巧みであった。結愛は、プロの朗読を聞いているような心地になる。

 それらは、家での唯都とは、まるで別の印象を結愛に与えた。


 男性の声だった。


 結愛は戸惑った。急に、慣れない男性に話しかけられたような気分になる。

 よく知っている相手なのに、話し方が変わるだけで、結愛は緊張した。今の唯都は、とても“姉”のようには思えない。唯都は、この話し方に慣れているようだったが、結愛はすぐに順応出来なかった。


 これは一体誰なのか。本当にあの“唯ちゃん”? 混乱した結愛の中に、そんな思いが渦巻く。

 改めて、唯都の顔を見上げて、視線に気付いた唯都が、「どうした?」と聞いてくる。


 結愛は硬くなった。


 甘くて、優しい。目を細めて、微笑んでくれる。抱きついたら抱きしめ返す。高めの声で、「可愛いわね」と褒めてくれる。作った小物やアクセサリーを、よくプレゼントしてくれたり、女性向けのファッション誌を二人で眺めたりする。

 まるで姉だ、結愛は確かに、唯都の事を女性のように見ていたのかもしれない。


 だが、学校までの道のりを一緒に歩く彼は、何処にも女性のような特徴は見当たらない。

 口調も、仕草も、何よりそう、彼の外見は端麗なのだ。

 結愛はその容姿を、初めて先入観なしに眺めた。

 唯都を客観的に見つめる事は、結愛の感情を一度整理する事になった。

 そこで新たに見つかった異物に、対処出来ないでいるのだ。








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