第8話

 



 三階教室の窓際に立って、外の生徒を眺める。入学式の今日、下に見えるのは、初登校する新入生達だ。

 彼らの真新しい制服は、当たり前だが少しも草臥れていない。グレーのブレザーが校内に流れ込んでくる中に、結愛の姿を探す。

 担任の教師が声を掛けた。二年生と三年生の登校時間は、新入生よりもやや早い。教室にはクラス全員が揃っていた。号令に従い、各々が席に着く。

 結愛が同じ学校に通うことに、唯都も内心浮かれていた。朝も家で顔を合わせたというのに、校門をくぐる結愛が見えなかった事で、小さく溜息を溢す。

 後ろ髪を引かれる思いで、席に着く直前、もう一度窓の外を振り返った。

 その時、一人の男子生徒が目に留まった。


(あの子……)


 入学式だというのに、髪が無造作に伸びている。辛うじて制服はきちんと着ているが、前髪が妙に長く、猫背で歩いているため、どこか陰鬱そうな印象である。

 見た事のある顔だ。唯都は席についてからも、その生徒の顔が頭から離れなかった。会って会話をしたことはない。だが、唯都は一方的に彼を知っていた。


(なんか、嫌な感じだわ……結愛と同じクラスにならなきゃいいけど……)


 かぶりを振って、教師の話に集中する。

 唯都は今日から最高学年だ。気を引き締めなければならない。そう思ったが、どうにも、階下の一年生の事が気になってしまう。

 授業に拘束され、唯都の憂いが晴れる事は無かった。




 放課後、帰り支度が終わる前に唯都は友人に捕まった。


「唯都、今日早く帰れるだろ? 帰りどこか寄っていこうぜ」


 またなの……。唯都は友人に向ける表情を作りながら、内心ではうんざりしていた。

 唯都は頻繁に、クラスメイトから誘いを受ける。だが、唯都がそれに乗ることは稀だ。繰り返し断っていれば、誘われなくなりそうなものだが、唯都に限っては無くならなかった。

 彼はクラスで、それなりの地位を築いていた。男子からは、付き合いは悪いがいい奴だ、と思われているようだ。

 唯都は経験から、自分の発言で相手を傷つけてしまうことを恐れていた。口調に気を使う事の他にも、相手の気持ちを良く考えて話すようにしていた。ストレスを抱えてはいたが、結果的に友人たちをないがしろにする事は無かったのである。

 真摯に受け答えしてくれる、友人たちは、そう感じているようだ。そして、唯都と深い付き合いをしたいと、行動で示してくる。

 中学では、面白い事を言える人がクラスの中心人物になりやすい。唯都は、人を楽しませる話術を持っているつもりはなかった。唯都が友人に言われた話だと、彼は性格が良い、という印象らしい。加えて、容姿が整っているため、女子からの支持も密かに高い。授業を通して、成績が良い事も窺い知れたため、彼の存在感は、決して霞むものでは無かったという事だ。だがそれらは、人伝に聞いたに過ぎない。唯都が自覚して、認識した事ではなかった。


 唯都が心を開けないのは、小学生の時に口調が変だと指摘された事による。

 本当の自分を隠している限り、唯都が友人からの好意を素直に受入れる事は難しかった。


「ごめん、約束あるんだ」


 いつものように断る。結愛に、なるべく早く帰るとは言ってあるので、嘘では無い。


「今日もかよ~、じゃあ俺とも遊びの約束しろよ~」


「そもそも、中学生は寄り道禁止だろ? 真っ直ぐ帰って勉強しろよ」


 約束の件は軽く流して、近くある学力検査のことを仄めかす。


「唯都のがり勉! だから成績が良いんだよ!」


「褒めてんのか?」


「どうせ休み中ちゃんと勉強してたんだろ~、もう試験は明日なんだから勉強したって意味無い」


「そういうお前は休み中勉強したのかよ」


 唯都はこういった会話をするときも、かなり気を張っている。

 意識して、他の男子と変わらない口調で話しているため、あまり長くは話していたくない。唯都は口を動かしながらも、いつでも適当な言い訳をして帰れるように、さっさと鞄に教科書を詰めた。


「しているわけが無い。だから今日したって意味が無い」


 友人の言葉に、唯都は片方の眉を上げ、目を細める。器用に呆れた顔を作って見せた。


「だったらなおさら、今日くらい勉強しろ。ほら、範囲のノート貸してやるから。最低限ここだけ覚えておけばそこそこ点取れる」


 たまに頼ってくる友人がいるので、唯都は授業用の他にもう一冊、暗記用のノートを作っていた。作る過程で唯都は勉強し、そのノート自体を使う事は無い。唯都は普段から勉強しているので、直前に慌てて詰め込むような事はしたことが無かった。


「マジか。めっちゃ助かる! でも唯都困るんじゃね?」


「俺はもう覚えた」


「かっこよすぎか。嫌味なくらいだ。ありがとうございます唯都さま~」


「貶してんだか感謝してんだか……」


 友人はノートを受け取ると、高々と上げ、崇めるような仕草をした。話のキリがいいと思った唯都は、鞄を肩にかける。椅子を戻す音で、完全に帰る流れになった。


「じゃあな、勉強しろよ」


「そうだな、唯都ノートあるし、今日は大人しく勉強するわ。サンキュー唯都!」


 友人より先に教室を出て、去り際手を振る。

 試練を乗り越えたような気持ちで、唯都は嘆息した。


(疲れるわね、本当……)


 唯都も今日は少し早く帰ることが出来るが、入学式の結愛は、もうとっくに帰っている時間だ。

 早く家に帰りたくて、唯都は足早に階段を下りた。


 学校の玄関で靴を履き替えている所で、三年生の下駄箱に寄りかかっている人影が見えた。長い黒髪だ。片足をふらふらと動かして、その度にスカートの裾が一緒に揺れる。足の先には、結愛が先日親に買ってもらったのと同じスニーカーを履いていた。

 特徴が、ある人物と全て一致していると思った時に、人影が振り返った。


「唯ちゃん!」


 高い声で名前を呼んだのは、やはり結愛だ。

 音が響く事を気にしてか、小声で声を弾ませている。


「結愛? どうし……」


 思ったよりも早く会えた事で、唯都も声に喜びを乗せそうになる。でも一応注意しようとした。

 どうしてここにいるの? 本当は新入生が残っていちゃ駄目なのよ――と言いかけて、はっとする。

 まだ学校だから、気を抜けない。そう思い言葉を切った。言い直そうとした時、唯都は結愛の向こう側にあるものが見えた。校門に背を預ける男子生徒が見えたのだ。

 玄関での会話が、校門まで聞こえるとは思えないが、唯都は警戒した。結愛の前だと、うっかり口調を戻してしまいそうになる。用心するべきだ。他人に聞かれるのもまずいが、何より、その男子生徒は知らない人間ではなかったからだ。


(や、やだ……!! ストーカー!?)


 朝、教室の窓から見かけた生徒だ。

 今まで下駄箱の所で残っていた結愛と、無関係だとは思えなかった。一度きつく見据えた後、唯都は結愛の隣に並んだ。口調を改めて、先程言いかけた事の続きを口にする。


「……どうして残っているんだ? 一応、新入生は残っていたら駄目なんだぞ。俺の事待っていてくれたのか?」


 結愛はきょとんとして、暫く黙り込む。そして得心がいったように、何度も頷いた。


「あ、……うん。唯ちゃんの事、待っていたの。ごめんね、駄目だった……?」


「いや、嬉しいけど、本当は駄目だからな、先生が早く帰りなさいって言った時は、待たなくていいからな」


 結愛は表情を固めている。戸惑っているようだ。頭を撫でると、結愛はほっとした顔をした。


「待ちきれなかったの。今度はちゃんとするね」


 結愛の機嫌は悪くは無い。だが表情はぎこちなかった。

 あくまでも、唯都と家で二人きりの時に比べた場合の話である。

 基本的にはこの無表情に近い方が、結愛の普通ではあった。



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