第7話

 

 学校から帰ってきて、叔母夫婦が帰宅するまでの間は、唯都と結愛は二人きりになる。その間だけ、唯都は本来の口調で話していた。結愛もすっかりそれに慣れた。人目がある時は今まで通りの距離感で接したが、誰にも見られない時だけ、思い切り甘えるようになっていた。

 結愛は唯都との“秘密”を知られないように、唯都に合わせて行動するようになった。彼が無口な時は、余計な事を言ってしまわないように、結愛もあまり口を開かない。女性口調の時は、結愛も安心して、ここぞとばかりに話しかける。

 奇妙な関係だった。二人でそっと目を合わせて、隠し事をする。彼らは一般的な男女の兄妹がどうなのかは知らないが、自分たちが“仲良し”だろうということは感じていた。もし、唯都が叔母夫婦にも秘密を明かしていて、結愛も家族の前で甘えていたなら、それが世間一般よりも親密過ぎるということを指摘されていたかもしれない。

 だが唯都も結愛も、実に上手く隠した。だからその感覚に気付く事も無かった。元々口数が少ないので、人が居る時に口を閉ざしていても、何も不自然に思われない。変に誤魔化す必要は無い。ただ、黙っていればいいだけだった。


 二人は一年ほど、まるで“姉妹”のように仲良く過ごした。

 唯都が隠していた趣味も、結愛は一緒にやるといって、部屋で一緒に過ごす事も多くなった。べったりと張り付いて、常に側に居たがる妹の姿は、唯都が姉のように振舞う場合にだけ見られる。

 結愛があまりに懐くので、叔母たちが帰ってくると、唯都は少しだけ物足りない気持ちになった。叔母夫婦の前では、結愛は兄と妹の距離を保ち、過剰に甘えてはこないからだ。その落差は激しかった。

 唯都から見て、結愛は何でもないことのように切り替えている。彼は、いつもその姿を名残惜しそうに目で追っていた。


 唯都は結愛に依存しかけている。

 たった一人でも理解者がいれば良かった。

 本当の自分を受け入れてくれる人がいる。それだけで、唯都は救われていた。

 唯都が悩まされた腹痛は、学校でも家でも関係なく、襲ってきていたのだが、結愛と打ち解けて話すようになってからは、嘘のように消えていた。

 学校で嫌な事があっても、友人に言えない事を溜め込んでいても、家に帰れば、結愛が居る。そう思えば、学校でも、家でも、あの痛みが唯都を苦しめる事は無かった。

 本人にも不思議な感覚だった。結愛の事を考えるだけで、気持ちがすっと晴れるのだ。

 だが、美しい家族愛とは違う感情が、ひっそりと心の片隅に陰を落としている。

 じりじりと、片隅から中央へ這い出てくるの感情の存在に薄々気が付きながら、唯都はどうする事も出来ないでいた。

 今更距離を置けるはずも無い。唯都自身がそれに耐えられない。もはや、この感情の進行が少しでも遅れてくれる事を祈るしかなかった。

 この一年で、唯都にとって結愛は、かけがえの無い人になっていた。

 母親の時のように、二度と失ってはならない人だ。

 唯都は結愛に気付かれる事だけはないように、徹底して“姉”として接した。

 再び手に入れた居場所を、もう二度と失わないために。






 結愛は小学校を卒業し、いよいよ中学校入学を翌日に控えていた。

 唯都は授業があったので、普段と同じ時間に帰宅する。「ただいま」と声を出してはみたものの、唯都を出迎える人は居なかった。唯都が帰ってくると子犬のように寄ってくる結愛が来ない事に、彼は少し落胆しながら、靴を揃える。

 玄関には、結愛の靴があった。家にいるという事を確認して、まずはダイニングを見たが、誰も居ない。叔母も帰ってくる時間ではないので、唯都は気を抜いて、階段を上った。


(明日の準備でもしているのかしらね?)


 唯都は自分の部屋に荷物を置いて、結愛の部屋の前に立った。ノックをしようとしたところで、先に扉が開いて、にゅっと手が出てくる。その手はゆらゆらと揺れながら、「おかえり、唯ちゃん」と言った。


「ただいま、結愛。この時間に部屋にいるの珍しいわね、何しているの?」


 唯都が手を見つめながら尋ねると、結愛は手招く仕草をする。顔を出さないで、手だけ動かしながら、「唯ちゃん、ちょっと、ちょっと」と唯都を部屋に誘おうとする。

 唯都はくすりと微笑んで、「もう、どうしたのよ?」と戯れに結愛の手を掴んだ。するとぎゅっと握り返して、その手が唯都を引っ張る。唯都は抵抗しないで部屋に足を踏み入れた。


「見て見て、唯ちゃん」


 部屋に入ると、結愛は両手で唯都の手を掴みなおし、向かい合う形になった。

 そこで唯都は正面から結愛の姿を目に捉える。結愛の行動の意味も理解して、彼は明るい声を上げた。


「あら、良く似合っているじゃない! とっても可愛いわ、結愛」


「えへへ~本当? 可愛い?」


 褒められて、結愛は表情を緩めて唯都を見上げた。その八重歯を見られる特権を、唯都が噛み締めながら目を細めていると、結愛がぱっと両手を離す。唯都は咄嗟に、眉を下げそうになるのを堪えた。

 結愛はその場でくるりと回る。彼女の切り揃えた黒髪とスカートの裾が、流れに沿って円を描いた。

 再び正面に唯都が戻ると、結愛は首を傾げて見せる。照れているのを隠すように、もう一度「えへへ」と笑った。

 堪らなく可愛らしかった。唯都は自分に向けられる信頼しきった表情が、愛しく感じて止まなかった。


 結愛が見せたかったのは、明日から始まる中学の制服姿だ。紺地に白のラインが入ったスカートに、グレーのブレザーで、中には指定のシャツと、スカートと揃いのデザインであるベストを着ている。

 結愛のサイズぴったりで、唯都のお世辞ではなく良く似合っていた。


「唯ちゃん優しいから、褒めてくれると思ってた」


 結愛が、声に安堵を滲ませて、そんなことを言う。それを聞いて唯都は、「本当に似合っているわよ?」と本心から言った。


「まあ、結愛は可愛いから、例え服が似合ってなくても、褒めちゃいそうなのは否定できないわね。でも良かったわ。中学の制服が可愛いデザインで。これならばっちり結愛にも合うもの!」


「唯ちゃん、それは身内贔屓だよ」


 結愛は謙遜しつつも、唯都の言葉を疑っている様子は無い。唯都が心の底から褒めている事を理解しているようだった。


「唯ちゃんとお揃いの制服で、一緒に登校するんだよ、明日から楽しみだな~」


「結愛、明日は私ちょっと早く行かないといけないのよ」


「え! そうなの?」


「逆に結愛は入学式だけ少し遅めよね。だから一緒に登校できるのは明後日からになるわ」


「ええ~唯ちゃんと一緒に行きたかったな……」


 結愛は肩を落とす。唯都は「たった一日よ」と言って、落ち込んだ妹の髪を撫でた。


「私も楽しみよ。私が小学生の頃は、こんなに仲良くなかったから、一緒に登校することあまり無かったものね」




 手を離すと、結愛が着替える事を考えて、唯都は部屋を出る。

 唯都も自分の部屋に入り、制服から私服に着替えながら、気持ちを切り替えようとした。

 無邪気に慕ってくる妹と話す時間は、唯都にとって癒しだ。だがふとした時に、焦りも感じる。

 結愛の事を、異常だ、と思った。可愛くて仕方が無いのだ。あんなに可愛らしい存在が、このまま成長してますます魅力的な女性になることを想像したら、恐ろしくなった。中学生になって、また一つ大人になって……たった一つしか歳が違わないというのに、幼い子供を相手にするように、過保護になるのを唯都は感じていた。自分が結愛を守ってやらなくては、という使命感を強める。


 ノックの音で、唯都は肩を震わせた。


「唯ちゃん、入ってもいい~?」


 声までもが、唯都の焦りを増長させた。着替え終わったのであろう結愛が、唯都の返事を待っている。

 また、あの嫌な音が響いた。


 唯都は苦労して自分を落ち着けると、普段通りの声音で、「いいわよ~」と答えた。

 部屋に入ってくる結愛は、確かに整った顔立ちをしているが、一般的な容姿だ。

 客観的に見る事は出来た。結愛は特別秀でた娘ではない。異常というほどの特徴は見当たらなかった。


(違うわ……異常なのは、結愛じゃなくて……)



 結愛の絶対的な信頼の眼差しが、唯都の目に焼きついていた。


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