your eyes

   *



「……中嶋?」


 私ははっとして振り返った。久々に会ったその人の顔を見たとき、体の緊張がとけていったことに自分でも気がついた。


   *




「友里ちゃん!」

「もう、だから先生って呼びなさい」

「いいじゃん~、私と友里ちゃんの仲でしょ?」

「どんな仲よ」


 授業が終わってもこうやって気軽に話しかけてくれる生徒たち。私はまだ他のバイトの先生とかなり距離をとっていたし、正直生徒が話しかけてくれることが嬉しかった。

 しかし、そんな関係をよく思わない人ももちろんいた。


「中嶋さん、なめられてるんじゃないですかぁ?」

「……すみません、気をつけます」


 このやりとり、何回目だろうか。


 確かに年下の友達に教えている、という感覚だ。だが実際生徒の点数はしっかり伸びているし、このままでいいと思っている。


「入ってもう2ヶ月も経つんだから、ちゃんとしてください」


 この先生がいうちゃんと、とはどういうことか、なんとなくは想像できるし、そうできたら立派だと思う。だが、厳しく真面目に教えることだけが生徒の点数アップには結びつかないのではないか。

 そんな反論を考えつつも、自分がどんどん情けなくなっていく。


「気にしないで」


 そう言って慰めてくれる先輩講師もいる。しかし、気にしないように努めると、どうしても気にしてしまう。いや、これは気にしないわけにはいかない問題だと思う。

 帰る準備をする手が遅くなり、気が付けば教室に残っていたバイトの先生の最後の一人が出ていったところだった。


「お疲れ様です」


 中年の教室チーフに挨拶をして、いつもより遅めに教室を後にした。


 今日もやっと、バイトが終わった。


 週に2度くるこの時間は苦痛だ。だけど生徒に教えることや、空き時間に生徒の話を聞くこと、アドバイスをすることはとても好きだ。苦痛の理由は、この先生らしくないことが原因で周りの先生から嫌味を言われてしまうことだ。豆腐のようなメンタルなため、打たれ弱い。



 寒いな、カーディガン着てくればよかった



 車の通りが少ない道。ところどころにぼんやりと電灯がついているだけで、まわりには何もない。ただ、規則的にパンプスの音だけが響いていた。



 このまま、バイト続けてもいいのかな…



 この闇がよけいに私の心を悪い方向へと導く。



 私がいない方が今担当している生徒にとってもいいかもしれない

 そう、きっとそうだ

 私は先生になりきれない



 でも……一緒にがんばることはできないのかな



 自分が情けなくて、でもどうしたらいいのかが分からなくて、不安で泣き出しそうだ。

 バイト帰りの一人の夜道は、嫌いだ。

 いつもは見たくない自分を見ないフリしているけれど、この暗い道のせいで自分を見ざるをえない。


 こんな自分が、嫌いだ。


 珍しく自転車が前からやってくる。小さなライトとタイヤの音で分かる。

 自分しかいなかったこの道に、人が来た。

 下唇を噛み、手をぎゅっとに握る。


 何も知らない自転車は私の隣をさっと走りぬけ、その風が私の髪を揺らした。冷たい風が頬にもあたる。



 家の匂い……



 自転車に乗っている人の匂いが、冷たい風に乗って香る。どこかで香ったことのある、なつかしい匂いだ。

 匂いに気を取られていると、その自転車が急ブレーキをかけたようで、その音が辺りに響いた。



「……中嶋?」



 私は自分の名前が呼ばれたことに驚き、その声の方に振り返る。薄暗いが、しっかりその人が誰だか分かった。



 あぁ、そうか、そうだよね。香ったこと、あるに決まってる



 自分の身体の緊張が解けていくのを感じる。


「武田……!」


 2台続けて、車が走っていく。

 逆光でよく見えないが、武田という存在が近くにいると分かったことで、ひどく安心した。それとともに、私は今の心情を悟られたくないと思った。


 武田は自転車の向きを変え、こちらに来た。



 悟られちゃ、だめだ



「久しぶり~! そっちもバイト?」


 自分でも変にいつもより明るく振る舞ってしまっていることが分かるが、どうしようもなかった。


「そう、そこの塾で。お前も塾講師? スーツだけど」


 落ち着いたトーン

 私の知ってる声より少し低い

 変わったんだな


「そうだよ~、中嶋先生」


 変だと分かっていても、この高めのテンションは治らない。やめてしまったら、心の中が見えてしまうようで、怖い。


 長く一緒にいてしまうと、余計に作っていることがばれてしまいそうだ。会えたことは嬉しいが、さよならは早い方がいい。

 私は手を振ろうと、手を挙げかけた。

 すると、


「乗って」


 武田が後ろの席を指す。


「え、でも……」


 このまま一緒にいたら、武田なら気づく。いやもう薄々気づいてるかもしれない。


「家の方向真逆…」

「早く」


 考えついた言い訳も、すぐに消されてしまった。こんなに強引な武田は、あの時以来だ。


 断りたい、だけど断りたくない。


「…本当にいいの?」


 この言葉は、自分にあてた言葉でもあった。

 武田は早く乗れと言わんばかりに顎で後ろの席を指す。


 私は言われた通りに後ろに乗った。もうそれしかないと思った。

 自転車が動き出す。一瞬ふらっとしたがすぐに立て直され、夜の道を進む。


「武田、大学どう?楽しい?」


 これが一番無難な会話だと判断し、話をふる。


「うん、結構いい感じ。そっちは?」

「楽しいよ~!女の子ばっかりだから空気が綺麗な気がする!」


 このテンションで乗り越える、それしかこの気持ちは隠すことがもう出来ない。


「なんだよそれ」


 どちらかというとゆっくりしたペースで進んでいく景色。


「わっ……」


ここは地面がぼこぼことしているところなので、後ろの席は特に揺れる。そのため思わず声が出る。


「大丈夫? 俺掴んでていいからな」


 武田の言葉で初めてすぐ前にいる武田の背中を見た。広くて、ほどよく筋肉もついていそうな背中。

 左手を離し、武田の背中に手を伸ばそうとしたけれど、その手をぎゅっと握りしめ自分の胸にあてた。


 武田はいつも遠かった。頭がとても良くて、スポーツも出来て、友達からの信頼も厚かった。そんな武田は私の手の届くところにいるはずはない。

 手が届いてはいけない。

 もし今手が届いてしまえば、今までの我慢は水の泡だ。



 好きだった



 私は、武田のことが好きだった。

 いつも迷っている私を引っ張ってくれた。いつも私の前にいたのは武田だった。高校受験のときも、前期試験で落ちてしまった私を、後期試験へと気持ちを切り替えさせてくれたのは武田だった。



 そうだ、武田はいつも私の前にいる

 だから武田は私なんか見ていない



「あ!武田!武田ってば」


 私は自転車が家の方向と違う方へ向かっていることに気づき、慌てて武田に話しかける。


「あ、ごめん、何?」


 風でよく聞こえなかったのか、武田は少し遅れて反応した。


「そこ左!」

「え、本気で言ってんの!?」


 それは大きな坂だった。自転車で上るには、一人でも全部上れるか分からないような坂だ。

 さすがに男の脚力でもこの坂を二人乗りで上れというのは厳しいだろう。


「一緒に歩こう」

「ちょ、待てって。これくらい……」


 せっかく提案したものの、武田は男の意地で上りきろうと頑張る。が、坂の半分ほどで武田の限界を感じ取り荷台から自ら降りた。


「だから歩こうって言ったのに」

「ば、バカだな。男がそんなこと言えるわけないだろ」


 少し恥ずかしそう、武田は顔が見えないように下を向く。

 前に立って歩く姿を、私は後ろから見ていた。やっぱり、やっぱりそうだ。


「あの頃と、変わらない」


 その言葉に武田は少しこちらを振り向きかけたが、すぐに前を向いた。

 静かな夜に二人の足音だけが鳴っている。


「そこを右」


 上り坂が終わり、下りになるため、促されるまま再び荷台に乗った。

 車も通っていないため、普通ならスピードを出して走りそうなのに、武田はゆっくりと自転車をこいでいた。上を向いたりして、夜の空を満喫しているようだ。

 同じように上を見るが、雲が多くて星は見えなかった。けれど、星なんて見えても見えなくてもどうでもよく感じられた。武田がいれば、それだけで。


「このまま着かなければいいのに……」

「え?なんて?」


 心に思っていたことが声に出たことに自分自身で驚いたが、幸いにも武田には聞こえていなかったようで安心する。


「そこ、右に曲がって」


 もうすぐ家についてしまう。この時間も、もう終わってしまう。


「……ここ」


 武田がブレーキをかけ、自転車が止まると、すぐに荷台から降りた。

 未練が残ってしまいそうで、怖くなった。


「ありがとう。おかげで早く晩ご飯食べれるよ~」


 さっきの調子を取り戻そうと、明るい表情と声を作る。

 武田がなんだか複雑そうな表情を浮かべている。それは疲れているからだ、と自分を納得させる。


「本当にありがとう」


 たくさんの思いをくれて

 あのとき励ましてくれて


 武田は視線を落とし、一点を少し見つめた。その表情は曇っていて、あまり見たことがないものだった。


「武田?」


 その声に一瞬肩をぴくっとさせてから自転車の向きを変えはじめた。


「じゃあ」


 そっけなく一言だけ言うとペダルに足をかけた。少しだけこちらを振り向いたので、あの笑顔を向け、手を振ろうと右手を上げようとした。


 嫌だ

 手を振れば、全てが終わってしまうかもしれない


 私は右手を元の鞄の位置に戻す。


「おやすみ」


 背中を向けたままの武田に言う。ばいばいとか、またね、ではなく、おやすみ。

 これは二人でメールしていたときに使っていたメールを終わらす言葉だった。


「うん、おやすみ」


 武田も少し柔らかい表情に戻った顔をこちらに向けて、自転車を走らせた。

 もう振り返ることはないと分かっていても、その後ろ姿を見送り続けた。


 変わらないあの後姿

 そしてその後ろを追いかける私

 憧れてた

 いや、好きだったんだと思う


 だけど、もう戻れはしない


 私は右手の薬指につけていた指輪を見つめた。今付き合っている彼氏が去年くれたものだ。

 彼はとても優しいし、一緒に居ても心地いい。

 武田の彼女の有無は分からないが、もう、絶対に戻れない。

 まず、武田はこんな後ろにすがっているような女に目もくれていないだろう。ただの友達。


 私は、武田が今でも好きなのかもしれない

 けれど、そんなことは絶対に言えない

 誰かを傷つけてしまうから


 武田もきっと私なんかじゃない


 この想いはもう終わりだと思うし、終わりにしなくちゃならない

 だけど、やっぱり私は武田のことを


 鼻の頭が痛くなり、涙がこぼれた。


 戻りたい

 だって、私はいつの間にか変わっちゃったんだよ

 大切な人がいるんだ


 私は涙が止まるまで、武田を見送った場所から動けなかった。

 夜に溶けてしまいたいほど、泣き崩れるほどに。



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僕は君だけど、君は僕じゃない 148 @honoka_

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