僕は君だけど、君は僕じゃない
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my eyes
*
「……中嶋?」
彼女は驚いた顔をして振り返る。呼びかけた相手が僕だと気づくと、やがてその顔は僕の知ってる彼女の顔になった。
*
「武田先生の高校どこだったのか教えてよー」
「お前らが卒塾してからな」
「えー、やだ、今がいい」
不満げな中学生たちをよそに、僕は報告書の続きを書き始めた。いつもならもう少しこの生徒たちと談笑を楽しむが、今日は早く帰りたい。
なぜなら22時30分から、女優の増田美香子が主演するドラマを観なくてはならないからだ。増田美香子は、昔付き合っていた彼女に雰囲気がよく似ていた。そして何といってもあの長い黒髪ストレートに惚れた。つまりとても好みなのだ。最近出ているどの若手の女優よりも応援している。
その彼女を観るため、早々に報告書を書き上げると他のどのバイトの先生よりも早く帰る準備をする。
「お疲れ様です」
そう言って教室を飛び出したのは、22時18分。
いつもは後ろから数える方が早い僕。そのため数名の不思議そうな顔に見送られたが、そんなことはどうでも良かった。
「さすがに夜はまだ寒いな」
自転車のかごにネームプレートとペンケースを放りこみ、ネクタイを少し緩めた。
少し余裕があるため、踏み出すペダルもゆっくりになる。
光の少ない通りは静かだ。
カツカツカツカツ
暗くてよく見えないが女性の靴の音だということは分かる。夜に響く規則的なその音は、すぐそこから。
普通、自転車は車道を走るべきだが、せまい歩道と車道の間に段差があるため車道に出ることは出来ない。そこでスピードを落としてなるべく端を走り、歩行者の邪魔にならないようにする。
その時はすぐに来た。
低い背丈
下を向いて、ゆっくりと歩いている
若そうだな
違う
「……中嶋?」
ブレーキの音が静かな夜に響く。
彼女は驚いたように振り返る。
「武田……!」
彼女は僕の顔を見ると、僕の知ってる彼女の顔に変わった。
2台続けて、車が走っていく。
ふんわりしたボブ
あ、焦げ茶色に染めてある
化粧をしている
少し痩せたかな
綺麗になった
「久しぶり~! そっちもバイト?」
「そう、そこの塾で。お前も塾講師? スーツだけど」
「そうだよ~、中嶋先生」
少し得意げな言い方とは裏腹に、会話の間に疲れたような、こわばった表情をみせる。
彼女が手をあげようとする。
「乗って」
気がついたら言っていた。彼女はまたびっくりしたような顔をする。
手なんて振らせない
さよならなんて、言わせない
「え、でも家の方向真逆……」
「早く」
あれ、こんなに強引に
「……本当に、いいの?」
彼女が僕を見る。僕は促すように顎で後ろの席を指した。
あれ、なんで
増田美香子はどうしたんだよ
あぁ、そうか、そうだ
だって、
増田美香子は本当の好きじゃない
君に似てる、そんな不純な動機
でも、今目の前に君がいる
だから、どうだっていい
彼女が恐る恐る後ろにまたがる。それを確認すると、僕は今来た道に向かってゆっくりとさっきより重いペダルを踏んだ。
「武田、大学どう? 楽しい?」
「うん、結構いい感じ。そっちは?」
「楽しいよ~! 女の子ばっかりだから空気が綺麗な気がする!」
「なんだよそれ」
他愛のない、久々にあった友達同士の会話。
また、静かな夜の空気に溶けていく。
中学の頃、僕は好きな人ができた。それも、今まで好きになったことがない部類の女の子。どこかふんわりとした雰囲気を持つ、女の子らしい女の子。
今までにも何度か好きな人がいたし、彼女もいたけれど、その時初めて本当に好きな人が出来たんだと確信した。
だからこそ、今回は告白しないって心に決めていた。
目で追うだけで満足、心のどこかで勝手に決めていたんだ。
怖かったらしい。付き合いなんて、いつかは終わるものだから。分かってるから、彼女にずっと隠して変わらない関係を保ってきた。
久々に会っても変わらない
君は、よく笑う
そして、僕は安心するんだ
心地いいんだ、この関係が
だから、告白はしない
結局僕は、変わりたくない
「……武田、武田ってば」
「あ、ごめん、何?」
「そこ左!」
「え、本気で言ってんの!?」
それは、大きな坂だった。自転車で登るには、一人でも全部登れるか分からないような坂だ。
「一緒に歩こう」
「ちょ、待てって。これくらい……」
坂の半分と少しで、僕の脚力が全て奪われたことは言うまでもない。
「だから歩こうって言ったのに」
「ば、バカだな。男がそんなこと言えるわけないだろ」
こんな会話も、いっぱいしたよな
なつかしい
「あの頃と、変わらない」
そう君は言う。
そうだ、変わらないんだ
君は僕の後ろをついてくる。
そうすればいいんだ
君は、僕の後ろをついて来ればいい
あの頃と変わらずに
「そこを右」
登り坂が終わり、下りになるため僕はまた彼女を乗せた。車が1台も通らない車道を、ゆっくりと走る。
こんなときに星が出ていたら、なんて考えても星は見えてこない。
分かってないな、空は
「…… 」
「え? なんて?」
「……そこ、右に曲がって」
住宅街に入っていく。
僕は彼女がこの周辺に住んでいることをはじめて知った。
「……ここ」
あ……
着いちゃったんだ
彼女の家の前。彼女が僕の後ろからいなくなる。まだペダルをこいでいないのに、ひどく軽く感じた。
後ろに、誰もいない
背中に風があたる
「ありがとう。おかげで早く晩ご飯食べれるよ~」
無邪気に夕飯のことを考えている彼女が、僕の前にまわる。
「本当、ありがとう」
にこっとした彼女が見ていられなくなって、僕は視線を落とす。
あの頃と違うのかもしれない。
そのとき、彼女の右手の薬指が光った。
噂には聞いていた。
中嶋に彼氏がいること。それも、2年ぐらいの付き合いになる彼氏が。
「武田?」
彼女が僕をのぞきこもうとする。
僕ははっとしたように自転車の向きを変えて彼女と無理やり距離をとった。
「……じゃあ」
僕は少しだけ振り向いて彼女に告げる。
何も気づかない彼女はまたにこりとして右手をあげようとする。
やめろ
そのままバイバイとか、言うんじゃないよな
やめろよ
僕はもう彼女を振り返らないことを決めた。
ペダルに足をかけ、踏もうとしたとき、また彼女が声をかけようとしたのが分かった。
別れの言葉なんていらない
やめてくれ
「おやすみ」
僕ははっと彼女を振り返る。手は振ってない。両手で鞄を持って、僕の知ってる笑顔で、そう言った。
「うん、おやすみ」
僕はそれを最後に、自転車を走らせた。
君は、やっぱり君だと思う
僕が好きな君だ
だけど、君は変わった
僕は君だよ、だけど、君は僕じゃない
だから、変わった
自分の気持ちに気づいた時、変わりたくない一心でこの気持ちを隠した
だけど
変わりたくないと思っても変わるんだ
それなら、自分から変わればよかった
ペダルは軽い。背中に風もあたる。
後ろに彼女の姿はもうない。
君は、もう僕の知っていた君じゃない
君は、僕じゃない
だけど、僕は君のことを
僕は下り坂の手前、泣くまいと上を向いた。
空はさっきとちがって、ちらほらと星が見えてきていた。
分かってないのは、僕だ
僕は勢いよく、夜に吸い込まれる坂を下った。
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