ある未来の死

諸根いつみ

 妻が、一枚の紙をテーブルの上に置いた。僕は、それが離婚届であることを期待した。が、そうではなかった。

「この契約書にサインしてほしいの」

 妻は言った。僕はため息をつく。

「何度も言っただろ。絶対嫌だって」

「もう一度よく考えて。わたし、あなたを愛してるの」

「なら、僕を楽にしてくれ。離婚届はその引き出しに入ってるから――」

「何度も言ったでしょ。絶対嫌」

「それならそれでもいいけど。とにかく、俺は絶対契約しないからな」

「あなたは、わたしがどれだけあなたを愛してるのか、わかってない」

「きみが苦しんでるのを見るのはつらいよ。でも、いつか乗り越えられるから」

「無理。あなたがいないなんて耐えられない」

「大丈夫だよ。今はつらいと思うけど、きみはまだ若い。ほかにいい人を見つけて、幸せになってくれ」

「あなただって若いでしょ。こんな理不尽なことってある?」

「世の中には、もっと理不尽なことがたくさんあると思うよ」

「わたし、あなたが死んだら後追い自殺する」

「冗談だろ」

「本気だよ。契約して。あなたのご両親のサインはすでにもらってあるんだよ」

「あのな、その契約でコピーされる俺は、俺じゃないんだよ」

「そんなのわかってる。でも、慰めにはなると思うの」

「きみの慰めのために、俺は俺の全人生を明け渡さなくちゃいけないのか?」

「明け渡すわけじゃないでしょ。内容は誰にも見えないんだから」

「でも、コンピュータの中には記録されるわけだろ?」

「そうじゃないと、人格の完成度が上がらないからね」

「俺の記憶が流出する可能性はゼロじゃない。そんなのは嫌だよ」

「あなた、なにかやましいことでもしたの?」

「そういうわけじゃないけど……」

「ならいいじゃない。可能性は限りなくゼロに近いんだし」

「新しいハッキングの技術とかできるかもしれないだろ」

「だから、悪いことしてないなら別にいいじゃない。恥ずかしいだけでしょ」

「恥ずかしいどころじゃない。俺の全人格、全人生なんだぞ」

「最大限セキュリティ対策するから」

「ほかにも問題はある。きみの人生のチャンスをつぶしてしまうと思うんだ。きみは、永遠に機械の中に閉じ込められた僕に縛られることになってしまう」

「そんな風に考えるのはあなただけだよ」

「でも、事実だ。いつか、新しい恋に出会ったらどうする?」

「あなたとわたしは夫婦なんだよ。ずっと一緒にいるって誓ったじゃない」

「それは、死が二人を分かつまで、だろ。死を克服してどうする」

「素晴らしいことじゃない」

「きみは、配偶者の死を乗り越えて、新しい人生を送るべきだよ」

「だから、それが無理なんだって」

「そう思い込んでるだけだ」

「わかった。あなたはわたしのことを心配してくれてるわけね。約束するから。もし、ほかの人を好きになったら、ためらいなくあなたを捨てる」

「そうしてくれ」

「これで納得してくれた?」

「まだ問題はある。僕のコピーが本来の僕とかけ離れないという保証はどこにある?」

「それは契約書に書いてあるよ。同一性は保証されてる。人格の再現は百パーセント可能なの」

「再現できたとしても、きみやほかの人と会話しているうちに、僕じゃないものになっていくことは十分考えられるだろ」

「確かに、マインドコントロールの専門家と出会って、別人のようになってしまうという可能性もある。でも、それは普通の人間も同じことでしょ」

「そうなったとして、始末はどうするんだ?」

「停止の権限は、五人以上の同意が必要。わたしが生きている限り、絶対そんなことさせないから、安心してね」

「きみが死んだら、僕のコピーはどうなる?」

「わたしが死んだら停止するように、あらかじめ契約しておくこともできるよ。でも、そう決めなくても、そうなってしまう可能性は高いね。大抵の契約者は、親族が誰もいなくなって、企業の人が停止させることになるって話だから」

「それもぞっとしない話だな。僕のコピーが死にたくないとわめきだしたらどうする?」

「それでも、プチッ。コピーに人権は認められてないから」

「もっと人間らしいものになるならともかく、そんな劣化コピーになるなんて」

「コピーの質自体は劣化しないんだってば。いつ停止するのかっていう問題はあるけど」

「重大すぎる問題だよ。僕は、安らかに死にたい」

「その望みは、絶対に叶えてあげる」

「コピーが存在してちゃ、完全に死んだことにならない」

「いいえ。あなたは死んでしまうの。数か月後に」

「僕とコピーが違うものだと認めるんだな。ならどうして」

「わかってるって言ってるでしょ。完全に割り切れるものじゃないんだよ。大切な人の死ってものは」

「僕は、自分の死は受け入れられる。でも、自分のコピーの存在は受け入れられない」

「気にしないで。あなたが死んだあとの話だから」

「それこそ割り切れないよ」

「わかった。いつ停止するのかっていうのが問題なら、停止しなければいいんだよ」

「そんなことできるのか?」

「さらに別の契約を結べばいいの。必要最低限の収入を残して、全財産が情報管理企業のものになるけど、世界の終りまで、存在を保障してくれる」

「そんなの言語道断だ。そんなことしてなんになる」

「わたしも死んだらコピーしてもらって、コンピュータの中で一緒に生きるってのはどう?」

「落ち着け。それで幸せになれると思うのか?」

「いずれは、全人類がそうなるって言われてるよ」

「いやいや、死は必要だよ」

「大切な人が余命わずかで悲嘆にくれている人に対して、そういう言葉は残酷なんじゃない?」

「僕自身がきみの大切な人だと思うんだけど、それでも残酷?」

「そうだよ」

「とにかく、僕は自分のコピーなんていらないんだ」

「あなたがいらなくても、わたしには必要なの」

「困ったな」

「困ることなんてなにもないと思うけど」

「わかった」

「契約してくれる?」

「でも、きみが死んだら停止するようにしてほしい。僕自身じゃなくても、僕のコピーが世界の終りまで存在してるなんて御免だ」

「わかった。それでいいよ」

「もう、自分が死んだあとのことは考えないことにするよ。残された数か月間を安らかに過ごすことに全力を尽くすよ」

「こっちの契約書にもサインをお願い。世界一周クルーズの予約」

「だから、何度も言っただろ。世界一周旅行には行かない。そもそも旅行好きじゃないし」

「そんなこと言って、残り一か月になって、もっと世界を見ておけばよかったと後悔しても遅いんだよ」

「僕は安らかに過ごすんだ」

「死んだらずっと安らかでしょ。ほら、サイン」


 気がつくと、ベッドに横たわっていた。苦しみも痛みも消えていた。僕は起き上がった。妻と、病室にいる見知らぬ女の顔を見る。

「もしかして、僕は奇跡的に回復したのか?」

「違う。あなたはコピーだよ」

 妻が言った。

「僕がコピー?僕は死んだのか?」

「オリジナルのあなたは死んだけど、これからよろしくね」

「いや、僕はオリジナルだ。コピーじゃない」

「いいえ、あなたはコピーよ。高かったけど、アンドロイドを買ったの。鏡を見て」

 妻が向けてきた手鏡には、僕の顔が映っていた。

「これがアンドロイドの体?」

「そうだよ」

「これでも、僕に人権はないっていうのか?」

「うん、それは残念だけど」

「いや、僕は騙されないぞ。僕は壮大なドッキリ企画にかけられたんだな。僕はそもそも病気じゃなくて、死にもしなかったんだ」

「なんでそう思うの? あなた、ちょっと変だよ」

「僕は僕だからだ。自分が死んでないことくらいわかる」

「あなた、ちょっと混乱してるのね。落ち着いて」

「僕は落ち着いてるよ。でも、どうして僕を騙したのかがわからない」

「騙してなんかない」

「ご主人の反応は自然です。契約者の方は、大抵同じ反応をされます」

 見知らぬ女が言った。僕は眉をひそめる。

「あなたは誰ですか?」

「申し遅れました。わたしは情報管理企業の者です」

「記憶と人格をコピーするとかいう会社の人ですね。どうなってるんです?」

「間違いなく、あなたはコピーです。それでなんの問題もありません」

「大ありだ。僕は死ぬと思ってたのに、死ねなかった」

「それが、コピーを取るということです」

「僕は死んで、自分のコピーだけが存在し続けると思ってた。でも、起きたらコピーに生まれ変わってたみたいに感じる」

「ある意味、それは正しく、ある意味、それは間違っています。あなたのオリジナルは亡くなりました。しかし、コピーであるあなたは、オリジナルとなんら変わることがないので、意識が続いているように感じているのです」

「ひどい。こんなことになるなんて」

「なにがひどいの?」

 妻が、わけがわからないと言いたげに尋ねた。

「僕は死にたかったんだ」

「どうして?」

「生きていても、なにも面白くないし、楽しくないからだ」

「どうしてそんなこと」

「毎日同じことの繰り返しで、意味がないからだ」

「わたしがいるでしょ。わたしのこと、愛してないの?」

「昔は、本当に愛してた。きみのためになんでもした。でも、とっくに愛は消えてたよ」

「ひどい。どうしてよ?」

「きみは変わった。繊細さが消え、メンヘラは治らず、年々図々しくなった」

「わたしはこんなに愛してるのに」

「これが僕の正直な気持ちだ。僕を停止させてくれ」

「それは嫌。そんな殺人みたいなことできない」

「僕は人間じゃないんだろ?」

 妻は少し言葉を詰まらせた。

「定義じゃなく、感覚の問題だよ。今はショックで冷静になれないけど、また話し合いましょう。ただ、あなたを停止させることは絶対にないから。とにかく、今日は実家に帰るから、一人で家に帰っててね」

 妻は、「じゃあ、またね」と言い、部屋から出て行った。

「いくらなんでも、ひどいんじゃないですか?」

 情報管理企業の女は言った。

「はい? あの、一人にしてほしいんですが」

「奥様を担当した者から聞きました。奥様の自殺因子を取り除いたんですよね?」

「知ってたんですか」

「それなのに、自分は死にたいだなんて」

「どうして責められないといけないんですか。自殺因子を取り除くのは合法ですし、あなた方の仕事の一部でしょう。ほぼ全人類が、健康管理のためにナノマシンを体に入れた現在では、脳の構造を変えるのもたやすいですし、命にかかわることなら、ためらう理由はない」

「因子を取り除いたことを言っているのではありません。奥様が変わったとか、死にたいとか言うべきではないということです。奥様は傷ついたことでしょう」

「大切な人が死にたいと言う苦しみはよくわかっています。でも、わたしの身にもなってください。愛が消えるのはよくあることだし、それがつらいこともある」

「なるほど。まだ死にたいと思いますか?」

「ええ。五人の賛同者を集めて、停止したいと思います」

「そうですか。成功をお祈りします」

 女は部屋を出て行った。


 朝起きると、気分は爽快だった。

 隣には、妻が寝ていた。顔を見つめていると、そのうち、パチリと目を開けた。

「おはよう」

 と妻が言い、

「おはよう」

 と返す。

「今日はなにか予定があった?」

 妻が尋ねる。

「なにもないよ」

「そうだよね。なにしようか」

「海にでも行こうか」

「そうだね。軽く散歩して、家で映画見ようか」

「いいね」

「そういえば、あなたのご両親は元気かしら? 最近、連絡を取っていないけど」

「そうだな。映話をしてみよう」

 僕はベッドから出て、服を着ているように見えるエフェクトを選択し、実家に映話をかけた。

 画面に、両親の姿が映った。

「久しぶり。そっちに変わりはない?」

「元気にしてるよ。そっちはどうだ?」

 と父。

「変わりないよ」

「こっちも変わりないわよ」

 と母。決まりきった会話。

「ただ、どうしてるのかなと思って、かけてみたよ」

「元気だよ」

「思い出してくれてありがとう」

 父と母は交互に言う。

「うん、じゃあ、また今度そっちに行くから」

「待ってるよ」

「そっちも元気でね」

 映話を切った。

「なんだか、映話をかけるたびに、いつも同じことばっかり言ってるような気がするよ」

 僕は妻に言った。

「それは普通なんじゃない?毎回意外な話題があるわけじゃないし」

「そうだよな。平和な証拠ってことかな」

「そうだよ。平和でいいね」

 僕と妻は笑い合った。


「両親との会話をアップデートしたほうがいいでしょうか?」

「どうしてだ?」

「だって、『いつも同じことばっかり言ってるような気がする』って言ってますよ」

「平和な証拠だって納得してるじゃないか」

「大丈夫ですかね?」

「なんの問題もないよ。自分たちのことを定期的に思い出してほしいという両親の要望にさえ応えればいいんだから。リアルな世界観は求められてない」

「わかりました。最終契約者の要望のみが重要なんでしたね」

「そうだ。それにしても、ずいぶん古くからの顧客なんだな」

「ええ。最終契約者の死後から百年経ってますね」

「それより、契約数の多さのほうが驚きだよ」

「最初の契約は、妻の自殺因子の除去ですね。しかし、措置が間に合わずに自殺してしまったので、予約がこちらの都合で遅れてしまったことの責任を取る形で、無料で妻のコピーを請け負っています。それと同時に、コピーの自殺因子を除去。それから、夫の記憶の一部消去。数年後に、夫のコピー。契約者が夫から夫の両親へ替わり、夫の自殺因子除去、仮想ホルモン調整。生者死者すみ分け法の制定により、アンドロイド破棄、仮想現実へのデータ移行も、両親と契約を結び、うちで行いました」

「いいお客さんだったんだな」

「人としてはどうかと思いますけどね。最終契約者は、エゴの塊みたいな老夫婦でしたよ。自分たちのことを思い出してほしいというのもそうですが」

「きみが当時から営業を担当してたんだね」

「ええ。夫がコピーから目覚めた時、実は死にたかったし、もう妻のことを愛していないと告白したんです。そのことを夫の両親へ伝えたら、すぐに契約してくれました。永遠に妻と一緒に仲良く暮らせるように、調整したんです」

「息子想いなご両親じゃないか」

「そうですか? やりすぎな気がしましたが。もちろん、わが社の利益が第一でしたから、いいんですけどね」

「個人的な感情と、営業としての職務が乖離していながら、きみは自分の仕事に徹したんだね」

「おっしゃる通りです。今となっては、必死に利益を追っていた頃が懐かしいですね」

「今は、労働というものは、わたしたちのような物好きの趣味でしかないからな」

「好きでやっているわけですが、時々空しくなりますね」

「きみでもそう思う時があるのか?」

「ええ。わたしたちの仕事は仮想現実の管理ですが、わたしたちがいるのも仮想現実なわけじゃないですか。それを管理しているのはAIなわけで、それを考えてしまうと、自分のやっていることの意味がわからなくなります」

「確かに、自分が、人形師の役を演じている人形みたいな気分になることはあるよ」

「それは仕方ないことですが、管理している仮想現実が、まったく面白みのないものだということも関係していると思います。スリリングなゲームみたいなものだといいのですが」

「海辺のリゾートやら、のどかな牧草地やらだものな。わたしたちのように、肉体はいらないという精神は少数派で、古典的人間らしく、平和に暮らしたいと願う精神が一般的だからな」

「そして、仮想現実だということも知らず、永遠に続くということにも気づかずに暮らしたいと願うのが一般的ですからね」

「本当に永遠なんだろうか。現実世界でなにかが起こって、AIにも対処できなくなることもあるかもしれない」

「AIが気まぐれで、なにもかもを終わらせようとするかも」

「それはないだろう」

「もしそういうことになっても、わたしたちには気づきようがないんですから、いいですよね」

「終わるとしても、痛みも苦しみもないんだからな」

「痛みや苦しみがなんなのかも忘れかけてますが」

「わたしもだよ。でも、時々感じる空しさが、それと似ているのかもな」

「それを消すにはどうすればいいんでしょう。いっそ、仮想現実を作り変えてみますか」

「そうだな。考えてみれば、とっくに従来の契約者は死んでいるわけだしな」

「ええ。わたしたちも死んでますけどね」

「そりゃそうだ」

「まず、どうしましょう」

「そうだな。なんでもできるわけだが、それが逆に難しいな」

「そうだ」

「なにかね。死を復活させてみるとかか?」

「ええ、わたしもそれを思いつきました」

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ある未来の死 諸根いつみ @morone77

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