超訳:伍崇曜のあとがき

 ここに収録した『襄陽守城録』全一巻は、宋の時代、趙萬年が著述したものである。調査してみたが、趙萬年という人物は出自がよくわからなかった。


 この本には、開禧年間、趙淳が金軍から襄陽を守った戦役の事績が記録されている。趙萬年が趙淳の親しい幕僚であったことは間違いなかろう。



『襄陽守城録』の書名は『ていよう』にもリストアップされ、「存目」の中に入れられている(*1)。れいはんしゃらが編纂した『南宋雑事詩』では、タイトルを引用してあるものの、内容は未収録である(*2)。


 つまり、本書は「非常にレアな書籍」であるといえるかもしれない。


 末尾には「案ずるに」から始まる評文が掲載されているが、これは誰が書いたものなのか判然としない(*3)。


 評文では、本書の各項目を比較検討した上で『がんこうもくぞくへん』にも似た記載があるとするが、しかしずいぶんと懸け離れた内容であり、結論として「大ぼら吹きで真実を伝えていないのでは」と疑っている(*4)。


 だが、本書は首尾一貫している。ここに記録された戦闘のこと、防御のことはきわめて詳細であり、様子が目に浮かぶようでもある。妄想で書き記したものなどではないだろう。


『四庫提要』によると、本書は「文章には欠落したところが多く、すべてを収録できていない」という。また、私の亡き友、黄石渓の『明経鈔』には本文が残っているものの、誤記等が存在したため、適切に校正して文章を整えた(*5)。


 それにしても本当に、襄陽とは昔から、南北の勢力が攻めては守る必争の地だ。


 趙淳が金軍から襄陽を守り抜いた後も、南宋末にはりょぶんとくが襄陽の守備を預かった(*6)。既にげんくだっていたりゅうせいは、呂文徳に賄賂を贈ってかくじょうを開かせようとしたが、呂文徳は城壁の防御を固めて籠城した(*7)。


 実に六年もの長きに及ぶ包囲に、襄陽は苦しんだ(*8)。呂文徳は籠城の最中に病死し、後を継いだ弟のりょぶんかんは、やがて襄陽を開城して元に降伏した。これゆえ、元と国境を接したわいなんも、事実上の首都であった臨安も防御が立ち行かなくなり、南宋は滅んだ(*9)。


 呂家の兄弟が襄陽を守れず、国の滅亡を導いてしまったことと対比すると、趙淳の功績が歴史の荒波の中に埋没してしまってはならないと、それは明らかである。


かんぽうこういん(一八五四年)うるうづき上浣(閏七月上旬)(*10)、

南海のすうよう、あとがきを記す(*11)。



――――――――――



(*1)

『四庫提要』、「存目」


 正式には『四庫全書総目提要』。清代、けんりゅうていが命じて作らせた中国最大の図書目録。一七八二年に成立した。中国最大のそうしょ(古今東西の本を集めたコンピレーションアルバム)である『四庫全書』の編纂過程で作成された目録である。


『四庫全書』には、清朝の政治方針にそぐう約三万六千冊が、経(儒学と政治)・史(歴史と地理)・子(諸子百家と医学薬学など)・集(文学作品など)の四分類の下、収録されている。すべて手書きの約二百三十万ページ、約十億字。


 大学で東洋史学専攻を選択すると、最初に、研究の進め方の一環として四部分類や『四庫全書』について教わる。『四庫全書』は乾隆帝バイアスが掛かっているから扱いに気を付けろ、等。


『四庫提要』には、『四庫全書』に収録された文献、および未収録の文献の提要(=著者や成立年など、本のおおよそのプロフィール)が掲載されている。春秋戦国時代より清朝初期に至るまで、一万二百五十四種分、とのこと。


 また、「存目」とは『四庫全書』に収録されなかった文献。



(*2)

厲樊榭


 本名は厲鶚。樊榭は号である。字は別にあり、太鴻。

 清代の文学者で、一六九二年生まれ、一七五二年没。浙江省銭塘の人。乾隆帝のころ、科挙に落第して文学研究に勤しむ道を歩む。特に宋代の詩や詞を愛したらしい。


 なお、このあとがきを記している伍崇曜は一八一〇年生まれ、一八六三年没なので、彼にとって厲鶚の『南宋雑事詩』は約百年前の文学者・詩人が編纂したもの、ということになる。



(*3)

「案ずるに」


 前頁に掲載したものの前に何らかの評文があったのではないか。そこでは、趙萬年の記録が「誇張失真」であるとして、偽物の烙印を押されていたのではないか。


 そう考えると、前頁のあとがきが擁護的なニュアンスで書かれていることも説明できる。記録が残されていない以上、すべて推測するよりほかないが。



(*4)

『通鑑綱目続編』


 どれだよ!


 いや、ツッコミの前にまずは注釈を。

 北宋代のこうが編纂した『がん』は、紀元前五世紀の戦国時代から北宋建国前年の九五九年までを扱った歴史書。「編年体」という、時系列ごとに事実を記述していくスタイルを取っている。


 編年体に対し、『宋史』『金史』などの正史は「紀伝体」というスタイルで書かれている。これは、皇帝の一代記である「紀」と、歴史に名を残すべき人々の「伝」から成るスタイルで、人物を主人公としたオムニバス形式ともいえる。


 司馬光の『資治通鑑』は画期的であり、歴史的事実を調べるのに使い勝手がよかったが、しかし非常に長いし、司馬光自身も自虐するほどの文体の地味さとも相まって、楽しく読み解ける代物ではなかった。


 そこで、南宋末のさんせいによる注釈、趙萬年と同時代に生きたしゅやその弟子一派による綱目(=ダイジェスト版)など、各種『資治通鑑』攻略本の作成がおこなわれることとなった。


 胡三省が注釈付きで出版したのは『資治通鑑音注』、朱熹グループのダイジェスト版は『資治通鑑綱目』である。


 さらには後代、北宋以降も扱うという「資治通鑑の続編つくろうぜプロジェクト」がいくつもおこなわれる。


 モンゴル史研究の杉山正明が高く評価しているのは元末明初のちんけいによる『通鑑続編』である。ざくっと検索した感じだと、清代のひつげんによる『続資治通鑑』が最も有名なようだ。


 さて、このように各種『資治通鑑』関連作があるわけだが、『襄陽守城録』のあとがきの注釈用に探し当てたいのは『通鑑綱目続編』である。


 どれだよ!


 そのものズバリのタイトルの本を見付けられない。筆者は中国内政史ではなく、時代的にも微妙に合致しなかったためにあまり通鑑を参照してこなかった。ゆえに通鑑系がズラッと並ぶと、どれがどれだかわからないのだが、それにしても見当たらない。


 朱熹グループの『資治通鑑綱目』内の正編・続編のことではないはずだ。『資治通鑑』は北宋のことすら書かれていないのだから、これのダイジェストでは『襄陽守城録』の校勘資料として成立しない。


 では、陳桱の『通鑑続編』なのか? あるいは本当に『通鑑綱目続編』というダイジェスト版の本があるのか?


 通鑑系について書かれた記事があるので参照していただきたい。


http://www.geocities.jp/zizhitongjianjp/tugan2.html


 なお、上記リンクの記事で「この文章に負うところが多い」「まるっきりの孫引きで受け売り」として紹介している二冊の本のうちの一冊は、学部生時代の筆者に漢文の基礎を叩き込んでくださった先生の著書だった。


中砂明徳『江南―中国文雅の源流』(講談社選書メチエ、二〇〇二年)


 めちゃくちゃ声のいい、競馬とアイドルが息抜きで、もともと唐代を専門としながら、ヨーロッパの言語を勉強して清代の宣教師についても研究されている先生。いつも、のほほんと毒舌を吐いておられた。



(*5)

黄石渓の『明経鈔』


 調べ方が悪いのか、うまくヒットせず。誰だ?



(*6)

呂文徳


 淮南出身の軍閥の総帥。生年不詳、一二六九年没。呂文徳が襄陽守備を命じられたのは一二六八年のこと。軍人としては高い官職と広域の任地を与えられ、籠城に当たっては食糧を給されていた点では、趙淳より恵まれていたというべきか。


 生年はハッキリしないが、おそらく、貧しかった少年時代からモンゴルと戦っていたと推測される。彼の故郷である淮南はモンゴルと国境を接しており、一二四〇年代には幾度も侵略の危機に瀕していた。


 なお、彼の末の弟の(だろうと思われる)呂文煥が筆者のマイヒーローだが、呂文徳の『宋史』初出が一二四三年であることに対し、呂文煥は一二六二年と、かなり遅い。おそらく年が離れた兄弟なのだろう。呂文煥を六男坊とする資料もあるし。


 ちなみに、間にもう一人、呂文信という兄弟がいるが、彼は一二六四年には『宋史』に登場して呂文徳とともに戦っていることがうかがえる。呂文徳と呂文信は年が近いのだろう。


 また、彼らの息子たちの名も軍人として『宋史』に登場するので、呂文徳らの襄陽籠城がおこなわれた一二七〇年前後には成人していたと推測される。


 呂文煥も襄陽に立て籠ったときに息子を伴っていたというが、呂師聖という彼の名が地方役人として記録されるのはずいぶん後になってからなので、ここからも、やはり兄弟間の年齢差が開いていたのではと考えた。


(生没年がきちんと記録されない程度の、正直言って無名な人物に肩入れしても歴史研究は進まないのだけれども、歴史物語としては、呂家の兄弟は「どうしても気になるアイツ」なので、あれこれ考えてしまう)


 呂文徳が没したのは襄陽での籠城が始まって一年三ヶ月ほどが経ったころ、一二六九年十二月。背中に患った疽(悪性の腫物)が死因となった。



(*7)

劉整


 一二一一年生まれ、一二七五年没。もともと金の領内で生まれ育ったが、宋に亡命して軍事職を得た。が、宋の朝廷では諸臣と馬が合わず、呂文徳に官職や居場所を奪われる格好にもなり、モンゴルに亡命。クビライに仕える。


 一二六八年からの襄陽包囲では、モンゴル軍ナンバー2として漢族歩兵を率い、ナンバー1であるモンゴル族のアジュをも凌ぐほどの発言力を持っていた。


 樊城に榷場を開かせて工作員を送り込んだりなど、呂文徳の手を焼いたのは、一二六三年ごろのこと。資料によっては、劉整が賄賂を贈った相手は、当時の宰相であるどうであるともいう。


 襄陽が最終的に降伏するシーンでは、えらくノリノリで「呂文煥をいじめろ!」と言っている。


参照:二十四.二月十一日到十三日。タコ金のボンボンが投降してきた。(注釈に長々と載せたアリハイヤ伝に劉整も登場している)



(*8)

六年もの長きに及ぶ包囲


 間違い。一二六八年九月から一二七三年二月までの約四年半、足掛け五年が正解。



(*9)

南宋は滅んだ


 百五十万の人口を抱える臨安では戦闘が回避され、無血開城となった。臨安以外の多くの城市でも、モンゴル軍の先鋒となった呂文煥の説得に応じて無血開城したケースが少なくない。


 呂文煥は、足掛け五年の籠城を経てモンゴル軍に降伏した後、軍閥である呂家の軍人ネットワークを活かして、各地に無血開城を説いて回った。売国奴と後ろ指差されることを理解しながらその役回りを買って出たのは、なぜだったのか。


 このへんも小説にしてみたい。なお、小説としての個人的な設定では、呂文煥は一二三六年生まれ、息子が一二五六年生まれ。呂文煥は文天祥と同い年で、息子はマルコ・ポーロと同世代。そろそろ何を言っているかわからないですね。失礼しました。



(*10)

咸豊甲寅閏月上浣


 咸豊は清代の年号で、一八五一‐一八六一年。十干十二支による表記法で、甲寅年ということは、一八五四年。このへんはウィキペディアにも載っているので、謎の年号を見掛けたら検索してみるとよい。


 一八五四年の閏月は、七月の後に挿入されている。これを調べるのは簡単で、「旧暦 新暦 変換」などで検索すると、当時のカレンダーを計算してくれるサイトに行き着ける。


 旧暦は月の満ち欠けのみを基準とするため、二十九日か三十日が一ヶ月となる。太陰太陽暦である新暦と比較すると、一年で五日以上のズレが発生することとなる。


 このため、たまったズレを一ヶ月ぶん集めて「閏月」としてどこかに挿入する必要が出てくる。挿入される箇所は、太陽の巡りを観測あるいは計算した上で決定される。閏月が入った年は、一年が十三ヶ月となる。


 新暦で「今年は残暑が厳しいな」と感じることがあれば、旧暦に変換してみるといいかもしれない。旧暦では夏が一ヶ月ぶん長い年に当たっていた、ということもあり得る。


 上浣は上旬のこと。咸豊甲寅年の閏七月上旬は、一八五四年の八月二十四日から九月二日までである。



(*11)

伍崇曜


 清代の学者、蔵書家。一八一〇年生まれ、一八六三年没。日本でいうところの、江戸時代末の人。


 広州南海に住んでいた。一八四一年のアヘン戦争を経験しており、清が多額の賠償金をイギリスに支払わねばならなかった際にはかなりの額を出資している。


 国難の時勢の中、多岐にわたる種類の本を集めたり復刻したりした。そのうちの一冊として『襄陽守城録』も守ってくれたのだから、彼には感謝しなければならない。

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