編者あとがき

超訳:ダレカのあとがき

 正史を紐解いてみると、かいの用兵については、ただひつさいぐうという将軍が活躍したことばかりがキャプチャーされ、彼の事績にのみ詳しい(*1)。


 趙淳の名が正史に現れるのは、『宋史』巻三十八、開禧二年十一月いつゆうの条に「はんじょうを燃やして退去した」と書かれているだけだ。またその前日である十一月甲申の条に「魏友諒が包囲を突破した」とあるのが、襄陽を巡る動向の数少ない記述である(*2)。


 今、ばくきゃくの私が注釈を入れようにも、わかるのはこの程度だ(*3)。であるから、趙淳については本文中に書かれているからともかく、魏友諒についてはどうやって書けばいいというのだろう?


 時勢の記録あるいは史書の編纂に携わる官がこの書を読まずにいてよいなどと、なぜ言えるだろう? そもそも大ぼら吹きで真実を伝えていないから、という理由で見向きもされないのだろうか。考えても答えの出ない問いではあるが。



――――――――――



(*1)

畢再遇


 えんしゅう出身の武官。父、ひつしんは岳飛に付き従った武官。強弓の使い手で、主に泗州で戦った。『宋史』では、巻三十八の本紀で開禧の用兵のあらましを追い掛けることができる。また、巻四百二には彼の伝が立てられており、活躍が詳しく書かれている。


 余談ながら、最初は畢再遇が人名だとわからず、「つひに再びふ(そして再び巡り会った!)」と読んで意味が通らず、しばし悩んだ。もっと人名らしい人名を付けてくれ、進パパよ。ああ、畢進も「つひに進む」わけだから……。


 ところで、このあとがきを書いているアナタは誰ですか? 『宋史』を手元に置きながらこれを書いているわけだから、明代以降の人? 調べてみると、「幕客」という言葉も明代以降ですよね?


 漠然としており、めちゃくちゃ読みにくい。もしかしたら欠落があるのかもしれない(と、この後にあるすうようのあとがきを読みながら思った)。版によっては、ここにあとがきは存在しない。



(*2)

趙淳、魏友諒


 二人の名前が『宋史』に登場するのは、あとがきで指摘されている(と推測される)本紀の一ヶ所だけではなく、巻三百九十七のせつしゅくの伝にも一言だけ登場する。


参照:七.十一月二十二日。ローカルアーミー敢勇軍が結成された。



(*3)

幕客


 明・清時代に地方長官が賓客としてしょうへいした私設顧問。ブレーンとしての食客。朝廷から派遣される地方官は「必ず地元以外に赴任」という縛りがあったため、円滑に仕事をするにはその地方のことに詳しい顧問が必要だった。


 なお、このあたりの文面は意味の取り方が合っているのか、割と自信がない。

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