三十.もし籠城することになったら参考にしてください。
超訳(一)
襄陽がタコ金軍に包囲されてから解放されるまで、全部で九十日だった。その間に起こったことは『
ってことで、以下、箇条書き(*2)。
一、襄陽のサイズについて
襄陽のまちの規模は、城壁の周回が九里三百四十一歩だ。
一里は一千八百尺、九里で一万六千二百尺。一歩は五尺だから、三百四十一歩は一千七百五尺。合わせて一万七千九百五尺。もう、ザックリ十里(一万八千尺)ってことでいい気がするんだけど。
ついでだし、いちいち注釈を見るのも面倒臭いだろうから、特別サービスでメートル法に換算しておく。一万七千九百五尺、イコール、約五.六キロメートル(五千五百八十六.三六メートル)。
城壁の外側には
漢数字の連続が読みにくいって? オレもそう思うわ。無駄に威圧感ある。
一、襄陽の船着き場について
襄陽は北側を漢江に接している。北門の外には、東西に「
両雁翅は、漢江に向かう側が数尺低くなって、そこに大小さまざまなたくさんの船が停泊している。
オレたちは、タコ金軍が漢江伝いに襲ってくるかもしれないという万が一の不測の事態に備えて、両雁翅の内側には木柵を設置して、その外の両側にはさらに濠を造って、二重の鹿角をも設置した。
また、破車を使ってだだだーっと櫓を並べた格好にして、ちょうど拒馬みたいな使い方をして、屈強な連中を伏兵として常駐させた(*3)。
城壁上からも弩兵に見張らせて、おまけに戦船にも弩兵を乗せて見張らせて、絶対に水上から攻められないように、そして船を奪われないように、昼も夜も警戒を怠らなかった。
一、砲弾について
タコ金軍が襄陽に攻めてくるたび、オレたちは城壁上から投石機で砲撃していた。最初に使っていたのは、投石機の文字どおり、石弾だ。でも、これをタコ金軍の戦陣に撃ち込むと、連中は再利用して撃ち返してきやがる。鬱陶しいことこの上ない。
どうしようかと頭をひねった結果、黄土に牛や馬や鹿の毛を混ぜ込んで
苦しまぎれに開発した泥弾だったけど、実は大成功。殺傷能力は十分にある上、地面に着弾したら砕けるから、タコ金軍に再利用されずに済んだ。かなりオススメ。
一、投石機の数について
もともと襄陽の城壁には十六座の投石機が設置してあるだけだった。少なすぎ。
大至急の突貫工事で大型投石機を造った。大炮と呼ばれる型と、旋風炮と(*4)。合わせて九十八座の大増設。
設置場所は、基本的には城壁の上。九梢・十梢クラスの超大型は、城壁の内側にガッチリ安定させて設置した(*5)。
一.敵楼の防御について
城壁上に点在する楼閣はタコ金軍の砲撃の的になりやすかった。特に、城壁が外側にせり出した格好になった「馬面」上の「敵楼」だ。だから敵楼は、木造の「
框子は全部、一辺あたり一丈四方以上の大きさだった。ちなみに、一丈は約三百十二.六センチメートルだ。そこに麻縄を編んだ網を張って、敵楼の上に設置した。こうしておくと、飛んでくる砲弾があっても、網に引っ掛かって落ちる。
敵楼の外側には
飛んできた砲弾は、皮簾に当たれば弾き返されるし、カス袋に落ちれば衝撃を吸収される。で、楼閣が傷付けられることはない。
一.
蒺藜箭という種類の箭を作った(*7)。箭とは言っても、柄は付いていない。三角錐に直立する菱の実みたいな格好の、要するに「まきびし」だ。これを紐に通しておく。
タコ金軍と戦うたび、連中の陣に蒺藜箭を射込んだ。蒺藜箭を踏めば、人だろうが馬だろうが、転ばないやつはいない。ざまぁ。
一.隣組について
城内の一般人の居住区は四つのエリアに分けて管理した。五戸で一甲とする隣組を作らせて、互いにズルや犯罪がないかを見張らせた(*8)。スパイが紛れ込んでいたらヤバいし。
四つに分けたエリアには、それぞれ消防隊を置いて管轄を決めた。消火グッズもあちこちたくさん配置して、火事が起こるのを防いだ。
――――――――――
(*1)
『却虜始末』
一章から二十八章までの日々の記録と二十九章のまとめを指して『却虜始末』と名付けてあるのだと推測される。「タコ金軍を追っ払った件の一部始終」の意。
(*2)
以下、箇条書き
中国史における戦術研究や中国物の歴史小説の素材としてはもちろん、前近代風のファンタジー作品の資料としても、かなり重要だと思われる。
(*3)
破車
よくわからず。高さのある障害物だと思われる。
拒馬は横長の形状の柵なので、縦置きする破車を横並びに連ねて拒馬のようにした、という文意だと推測。
(*4)
旋風炮
中国の事典サイト「華人百科」によると、三国時代の馬均が発明したらしい。
旋風炮のイラストは、十一世紀半ばの北宋代の戦術が網羅された『武経総要』に見える。ただし、このイラストが付けられたのは明代(嘉靖年間版か正徳年間版)の模様。
『武経総要』前集の巻十二には旋風炮のサイズが記録されている。柱の高さが一丈七尺(約五.三メートル)で、腕木の長さは一丈五尺(約四.七メートル)。ちなみに、七梢炮の腕木の長さは二.八尺(約八.七メートル)とあるので、割と小型。
梢シリーズと多種の炮の違いは、台座の形にあるように見受けられる。梢シリーズには四本の脚が組まれているが、それ以外の場合は脚の数が多かったり、旋風炮の場合は腕木の支えが横軸ではなく縦に据えられた支柱だったり。
投石機は総じて梃子式であり、数十本の引き縄を多人数で引っ張って投擲する、という仕組みのようだ。いろいろと解説サイトが存在し、西洋の投石機とごっちゃになっている感があるが(私自身、二転三転した)、『武経総要』から読み取れるのは引き縄式。
また、旋風炮は五十人がかりで三斤(約一.九キログラム)の砲弾を五十歩(約七十八メートル)飛ばす。人数に対して、砲弾ちっちゃくないか?
ちなみに、七梢炮は二百五十人がかりで九十~百斤(約五十七.六~六十四キログラム)の砲弾を五十歩(約七十八メートル)以上飛ばす。
なお、百人がかりの双梢炮は七十~八十斤(約四十四.八~五十一.二キログラム)を八十歩(約百二十四.八メートル)飛ばすらしい。腕木を構成する木材そのものが大きいタイプで、完成形は七梢とも大差ない模様。
大炮の名は『武経総要』には見受けられないが、旋風炮と同じ巻十二には単梢炮から五梢炮、七梢炮などいろいろなサイズの投石機の図説が掲載されている。おそらく、趙萬年の言う大炮とは、梢シリーズの投石機のうち大型のもの、ということだろう。
一一二七年の靖康の変直後の戦場日記である『守城録』にも「大炮」「小炮」という書き分けが見受けられる。この場合の大炮も大型の一般的な投石機を指している模様。
投石機等、城壁の攻防に関わる兵器は好きで、つらつらたくさん書いてはいるが、『武経総要』と『守城録』はきちんと読んでいないため、知識を完全には自分のものにしていない感じがある。機会を見付けて読み込みたい。そしてまた全訳プロジェクト?
(*5)
九梢・十梢クラスの超大型
梢は腕木の本数を指す模様。『武経総要』巻十二には五梢や七梢までしか解説が載っていないが。
(*6)
皮簾
今さらながら、上記の投石機について調べていたら『武経総要』の同じ巻に皮簾の項目を見付けた。
「右皮簾、以水牛皮為之、闊一丈、長八尺、橫綴皮耳七個。凡城上有闕遮蔽、則張掛之。」
水牛の皮で作り、横一丈(約三.一メートル)、縦八尺(約二.五メートル)で、サイドは皮耳七個を綴じ(引っ掛けるためのフック?)、城壁上の遮蔽物が足りない場合にこれを張る。
調べてみると、水牛は八千~九千年前から中国で家畜化されていたという。水田耕作の労働力として重宝され、主に
しかし、基本的に南方の生物である水牛が華北の金で家畜として用いられていたとは想像しがたい。『武経総要』に「皮簾は水牛の皮で作る」と書かれているからといって、必ずしも水牛である必要はないだろう。
実際、『襄陽守城録』の本文中では、襄陽軍は「牛馬の皮を
参照:十八.一月一日到三日。正月早々、ド派手な戦闘が勃発した。
(*7)
蒺藜箭
まず、蒺藜は植物で、漢方薬の材料にもなるハマビシ。実がトゲトゲしている。
蒺藜箭の原型は、紀元前五世紀ごろの人とされる墨子の著書の中に登場する。
墨子やその弟子集団は非常にミステリアスで異質。世界史の教科書では、平等思想を説く「兼愛」がクローズアップされていたように記憶するが、防御に特化しまくった戦略論である「非攻」がとても興味深い。守城のエキスパート。萌える。
その萌えを大いに刺激する歴史小説が、酒見賢一『墨攻』である。
『襄陽守城録』などでは、蒺藜箭を紐に通して使った様子が記録されているが、鉄条網みたいなものを敵の足下に投げ付けるイメージでよいと思う。絡まる上に刺さる。えげつない。
(*8)
五戸で一甲とする隣組
高校世界史でも登場する王安石の新法の一つ、「保甲法」がベースになっている。テスト勉強で丸暗記したアレが本当に使われていたんだな、と実感。地味に感動した。
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