原文(一)

公自被圍、即申報告朝廷、乞兵為援。朝廷累行下金州・江州都統司發兵解圍。又募死士從間道齎蠟彈告急諸處、乞救兵者不知其幾。凡三月、救兵竟無一人至者。


公多方措置、以守為攻、方能戰退。初虜以二十萬眾突灘過江、自以為得計、意欲以靴尖蹴倒襄陽城。


人多勸公白晝出兵、公獨堅執以彼眾我寡、彼騎我步、城外地平乃騎軍所宜、隻宜夜間劫寨。間或白日出兵、必預料先勝而後求戰。所以每出必捷。


前後大戰十二、水陸攻劫二十四。虜人馬死傷幾半。


如擒到千戶萱阿裏孛供稱「虜渡灘日、諸軍淹死九千二十七人、馬三千餘匹。攻城死傷二三萬人」

納合道僧亦稱「其父吾也萬戶所部五千人過江、淹死者千餘人。細聽萬戶・小謀克所管三千人全沒、一軍一隊所知如此、他可見矣」


我軍累次出城攻劫、並因攻城傷重而死者、才數十人而已。



公、かこまれてり、すなはち申して朝廷に報告し、兵を乞ひて援を為さしめんとす。朝廷、累々しばしば金州・江州都統司に行下し、兵を發して圍を解かしめんとす。又、死士を募りて間道にりてらふたんもたらし、急を諸處に告げ、救兵する者を乞ふこと、其れ幾たびか知らず。およそ三月、救兵、つひに一人の至る者無し。


公、多方に措置し、守を以て攻と為し、まさく戰ひて退く。初め、虜、二十萬のしうを以て突灘過江し、自ら以て得計と為し、靴尖を以て襄陽城を蹴倒せんと意欲す(*1)。


人、多く公にはくちうに出兵せんことを勸むるも、公、獨り堅執するに、彼れおほ我寡すくなく、彼れ騎にして我步なり、城外の地平、すなはち騎軍のよろしかる所なるを以て、ひとり夜間のけふさいに宜しとす。ままあるひは白日に出兵するは、必ずあらかじめ先勝をはかりて後に求戰す。所以ゆゑづるごとに必ずつ。


前後の大戰十二、水陸の攻劫二十四なり。虜の人馬、幾半を死傷す(*2)。


きんたうの千戶萱阿裏孛供の稱するが如きは、「虜の灘を渡るの日、諸軍、淹死するもの九千二十七人、馬三千餘匹、攻城して死傷するもの二三萬人なり」


納合道僧もまた、稱すらく、「其の父、吾也萬戶、部する所の五千人、江をよぎるに、淹死する者千餘人なり。細聽萬戶・小謀克、管する所の三千人、全て沒す。一軍一隊、知る所、くの如し。他、見るべし」


我が軍、累次に城を出でてかうけふし、並びに攻城にりて傷重にして死する者、わづかに數十人のみ(*3)。



――――――――――



(*1)

靴尖を以て襄陽城を蹴倒せんと意欲す


 趙萬年の文章においては珍しいことに、比喩表現。

「つまさきで襄陽城を蹴倒そうと考えた」


 田中芳樹氏っぽい言い回しだと思った。こういう(微妙に文学的で割と庶民的な)表現、中国文学史上ではよくあるのだろうか。田中氏、もしかしてこのへんから影響を受けたのかな。



(*2)

幾半


 素直に読めば「ほとんどなかば」。半分近くの人馬が死傷したことになるが、被害の実数としてはさすがに誇張があると思われる。「何割だかわかんねえけど、すごい被害だった」くらいの感覚ではないだろうか。


 また「死傷」という表現は、現代日本語では「死ぬことと負傷すること」だが、趙萬年は「死に至る傷を負うこと」の意味で使っているように読み取れる。



(*3)

才 わづかに


 現代中国語では「~したばかり」「~して初めて○○する」「わずかに~である」など、いろいろなニュアンスで使われる副詞だから厄介。


 そして漢文でも「わづかに」と訓読するものの、意味を取ってみたらニュアンスが多岐にわたる。漢文の訓読は究極の「空気読め!」案件なので、原著者との相性は大事。

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