二十九.我らが兄貴、趙淳という人のこと。
超訳(一)
我らが兄貴、趙淳という人について、改めて紹介したい。
兄貴はタコ金に襄陽が包囲されると、すぐに朝廷に報告して救援要請を出した。後で聞いたところによると、朝廷は何度も金州や江州の都統が詰める役所に命令を下して、襄陽の包囲を解くために出兵するよう言っていたらしい(*1)。
朝廷に対しての救援要請だけじゃなくて、兄貴は、そのほかあちこちにも密書を送っていた。命懸けの任務を負おうという勇士を募って、
でも、三ヶ月の間、救援はとうとう一人も襄陽にやって来なかった。
「見捨てられたんじゃねぇか?」
そんなふうに思ったし、口に出したりもしたよな。兄貴も同じように思っただろうけど、いつでも励ます側に回る人だ。
兄貴は籠城中、いろんな方面に策を講じた。
「防御は最大の攻撃、ってな」
見事に襄陽を守り通してタコ金を追い払った兄貴がそれを言うと、強烈な説得力がある。普通は「攻撃は最大の防御」だけどさ。
最初、タコ金軍は二十万の兵力で以て、意気揚々と浅瀬を突っ切って漢江を渡り、「これで勝てる」と息巻いて、襄陽を踏み潰そうとしていやがった。
襄陽の強みは、今でこそ「闇夜の奇襲」「水際や山中のゲリラ戦」と言えるけれども、実は当初は皆それをよしとしていなかった。
「趙都統、白昼堂々出兵し、敵を正面から打ち破るべきです!」
そんな声が多々。そりゃね、そっちのほうがカッコいいよな。
でも、兄貴はカッコなんて気にせず、ただ現実を見ていた。
「こっちは少数、連中は多数。それに、こっちは歩兵が中心だが、連中は騎兵がヤバい。真っ昼間の城外に打って出りゃあ、平地を暴れ回るのは騎兵の得意分野だ。夜の闇にまぎれて寨に奇襲をかける以外、俺たちに手はねぇんだよ」
たまに昼間に出兵するときも、必ず勝算があったから戦った。例えば、タコ金軍が漢江を渡っている最中を、側面から戦船で叩くとか。だから、襄陽勢は、打って出るたびに必ず勝った。
今回の一連の流れの中で、大きな戦闘は十二回あった。水陸のゲリラ的奇襲は二十四回だ(*2)。
タコ金軍の何が怖いって、騎兵が怖かったから、寨を奇襲するときはとにかく馬を狙った。
「我が軍の馬は半数がキサマらに殺された」
そう証言したのは、捕虜にした
「我が軍が漢江を渡った日は、各将軍の率いる軍勢のうち溺死した者を合計すると、九千二十七人。馬も三千頭余りが死んだ。攻城に際しての死者は二万か三万か。途方もない数だった」
そんな憎々しげに言われても、こちとら優しくしてやる余裕なんかないし。
「私の父、
勝ったのはオレたちだ。倒したのはオレたちだ。
でも、やっぱ悲惨だ。
オレたちはしょっちゅう城を出てタコ金軍に攻撃を仕掛けていたし、連中の攻城を防ぐためにだいぶ激しく戦ったけど、死者は数十人にとどまった。
数だけ見れば優秀だ。
重要なのは数なんかじゃないと思うけれど。
――――――――――
(*1)
金州や江州
金州は現在の陝西省安康市。
江州は現在の江西省一帯。
(*2)
二十四回
次の章のラストには「三十四回」と書いてあったが、ざっと数えてみた感じだと、二十四回が正しいと思われる。奇襲はやはり地の利があってこそなので、主に敢勇軍の仕事だった。
なお『守城のタクティクス』に登場させた船乗りの旅世雄、用心棒の裴顕、茶商の路世忠は『襄陽守城録』で登場回数が特に多い三人。趙家軍よりワイルドな戦い方をさせてある。
(*3)
萱阿裏孛供
誰? どこまでが姓なのかすらわからない。
また、道僧のセリフに出てくる細聴萬戸と小謀克(小は人名? Jr.の意味?)も不詳。
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