二十八.二月二十七日。ついに決着の時が来た!

超訳

 二月二十七日になっても、兄貴は用心深くタコ金軍の様子を偵察させていた。オレたちも気を抜くなと言われた以上、緊張感が続いている。


 偵察の成果はほどなく上がった。


「タコ金軍騎兵が二千あまり、北から戻ってきています。東路の赤岸のほとりでのうを使って川を埋め立てようとする動きがあります」


 オレにはピンときた。


「あいつら、武器やら何やら山ほど捨てていったのを思い出して戻ってきたんだ。持って帰るわけにはいかねぇんだろうけど、それならそうと焼却処分しておこうって腹だと思う」

「阿萬の言うとおりだろうな。水辺の戦闘は敢勇軍に行ってもらうか」


 兄貴はこうげんに弩兵部隊一千人を付けて、赤岸へと船で急行させた。水しぶきを蹴散らして突進していく船団、速い。


 郜彦率いる水上弩兵部隊は赤岸に至ると、手際よくタコ金軍を射撃して追い払った。タコ金軍はまた食糧や武器や防具を落として、唐州を目指して去っていった(*1)。


 今さらながら、すげぇ当たり前のことなんだけど、敵を倒したら金目のものとアイテムが手に入るんだよ。経験値もたぶん入ってるし。たまにちゃんと階級昇進レベルアップするし。


 兄貴は、ここ数日の戦勝報告とかタコ金軍の状況をしたためて、朝廷へ上申書を送った。


 そして、それっきり、漢江の両岸は静かになった。


 最初は用心を解かなかった。漢江北岸の一帯に本当にタコ金軍がいないかどうか、何度も探った。でも、偵察に出た誰もが「何もいない」と言う。


「終わったんすかね?」

「おそらくな」

「マジで?」

「この目で確かめに行くか」


 兄貴は、正式な役人としての肩書を持つ面子、例えば統制とか統領とか、兄貴の実弟の趙内機とか、排岸使臣の張椿とか、襄陽の役所勤めの連中とかに責任を持たせて手分けして、タコ金軍が駐屯していた場所の調査に行かせた。


 オレは、上がってきた報告書をもとに地図を作ってみた。東は漁梁平から赤岸、西は萬山から華泉殻まで、寨がズラリと造られていて、プロットした点をつなぐと、延々三十里あまりに及ぶ(*2)。


「兄貴、これ見て。さいの数から計算したら、このへんに駐屯してたタコ金軍、二十万は下らないっすよ」

「宋領へ南下してきた全軍で五十万だと号していたよな。その数が真実だったとすれば、徳安方面に行ったぶんを差し引いて、二十万はあり得る数字だ」


「すごい数でしたよね。しかも、ただ数が多かっただけじゃなくて、出来るやつもいるみたいで、兵法の定石を毎回きちんと置きにきたし」

「次から次に攻城の策が展開されたときは神経を削られたな。どうにか全部撃退して、打つ手なしの状態にまで追い込めたが」


 でも、オレたちが最後まで気付かなかった策もあった。報告を受けて萬山の西へ赴くと、大堤が幅百歩ほどに渡って切り崩されていたんだ(*3)(*4)。


 タコ金軍がやろうとしていた工事の跡をたどってみるると、萬山西から深さ十丈以上の小さな川を掘って、その川に漢江とかの水を引いて、檀渓河までつなごうとしていたことがわかった。


 檀渓河は、襄陽の西に源流がある川だ。北と南、二筋に分かれて、最終的には両方とも漢江に流れ込む(*5)。


 掘削中の川は、襄陽の西南五里にある謝公岩の東から山へ入るあたりまでつながっていた(*6)。大堤を活かして、川が暴れるところに橋を架けたり土手を道にしたりしてある。


 襄陽の西にある萬山のさらに西側から水の道が伸び、さらに檀渓河伝いに東南の漁梁平まで抜け、漢江に出て北岸に出ることができるなら、タコ金軍は意外な方向から思いも掛けぬ兵力を送ることに成功したかもしれない。


 オレは地図を作りながら呆れるしかなかった。


「寨とか土塁とか柵とか土山とかだけじゃなくて、川まで造ってたって、どんだけ人手があったんだよ? てか、地形まで変えるって用意周到すぎるだろ」


 兄貴は、オレとは違う見解だった。


「この世界に天地が生まれて以来、川の流れには、定められた勢いというものがある。それを人間の手で簡単に変えられるわけはねぇんだよ。タコ金軍も、こんなところに労力を突っ込むとは、バカな真似をしたもんだ」

「まあ、確かに。ここに回ってたはずの人手が全部攻城に突っ込まれてたらと思うと、ゾッとしますね」


 ここ数日でタコ金軍からいただいた武器や攻城兵器その他の物資は、すぐにはちょっと計上できないくらいだ。


 種別としては、鵝車、洞子、うんてい、拒馬子、人用と馬用のじゅうとか鎧の類、砲弾、鍋とか桶とかの日用品、槍や刀みたいな長柄の武器、さらには竹木製の船や車。


 それらを運搬するために毎日二千人体制で働いて、数日かかってようやく作業が終了した。


 奪ってきたあれこれを調査すると、船や砲弾はわざわざタコ金領から運んできたことが判明した。明らかに、このへんでインスタントに造った感じじゃなさそうだ。おそらく牛車で引っ張ってきたんだろう(*7)。


 あと、すげぇマニアックなこと言うんだけど、砲弾の丸さに皆で惚れ惚れしてしまった。


「見ろよ、この石の青さ。石碑に使われるような上質のやつだぞ」

「それよりやっぱりこの丸みがヤバいっすよ」

「本当だ。気球みたいじゃねぇか(*8)」

「どんな技術で彫ってあるんだ、この砲弾?」

「こんだけキレイな形の砲弾なら、飛ばし甲斐がありますよね」

「変な形のやつだと、軌道が歪んで気持ち悪ぃもんな」

「タコ金って呼んでるわけだが、実はあいつらの頭、タコじゃねぇよな」


 そのタコ金出身の女真族の道僧は、言いたい放題のオレたちを前にしても、ノーブルで冷静な態度を崩さない。


「そうした砲弾は、怪しい地点を絞って掘り返してみれば、まだほかにも手に入りますよ。いざというときに敵に奪われぬようにと、穴倉を造って隠してありましたから」


 襄陽勢が張り切ったのは言うまでもない。だって、オレら思いっ切り物資不足で、泥団子の親玉みたいなやつをとうてきしていたくらいだし(*9)。


 そんなこんなで、三月の間にバタバタと戦後処理を済ませていった。タコ金軍の退却は、ほかのエリアとも連動していたらしい。占領されていた城市も解放された。


 襄陽に閉じ込めた格好だった一般人にも、そろそろ帰宅の許可が下りつつある。季節は春。畑仕事に掛からなきゃヤバいってんで、早速、城外に出て働き始めた人たちもいる。


 戦が始まる前に焼き払ったはんじょうの復興も手伝わないといけない。何しろ、襄陽と樊城の双子城市は、北方から攻め入る敵を迎え撃つための最初の砦の一つだ。守りは必ず固めておかなけりゃならない。


 でも、タコ金軍が去ってオレがいちばん嬉しいのは、兄貴がいつもの兄貴に戻ったことだ。


 籠城中、兄貴はずっとピリピリしていた。どっしり構えたふりをしていても、だんだん追い詰められていくのがオレにはわかった。二月半ばあたりからは、本当につらそうだった。それでも人前ではカッコいいリーダーの顔をしているから、なおさら痛々しかった。


 兄貴もオレたちも、やっと、解放されたんだ。




 ――――――――――



(*1)

唐州


 今の河南省唐河県、襄陽より北東に百二十キロほど。



(*2)

三十里


 約十六.八キロメートル。



(*3)

大堤


『讀史方輿紀要』巻七十九、襄陽府によると、『水利考』という書物に「古の大堤」が萬山の西から、檀溪等を経て東へ続き、萬山の麓に戻るという格好で築かれていることが書かれている。


「古大堤西自萬山、經檀溪・土門・龍池・東津渡、繞城北老龍堤、復至萬山之麓,周四十餘里。……。」


 檀溪は、『讀史方輿紀要』巻七十九、襄陽府によると、襄陽の西四里(約二.二キロメートル)にある。柳子山(の麓のどこか)に水源があり、漢江に流れ込む。襄陽から西を見ると、手前に檀溪河(四里)があり、柳子山(七里)があり、萬山(十里)がある。


 なお、檀溪は『欽定大清一統志』巻二百七十によると、襄陽の西南にあるという。『讀史方輿紀要』の記載では、柳子山に源流を持つ川は二筋に分かれており、北行するものを檀溪、南行するものを襄水と呼び、両方とも漢江に流れ込むという。これについては後述。


 土門・龍池は「古の大提」エリア内では比定できず。東津は、『讀史方輿紀要』巻七十九、襄陽府によると、襄陽の東十里(約五.六キロメートル)にある。


 総合するに、漢江やその支流の護岸堤防がぐるっとつながって襄陽を囲んでいる感じ、だろうか。四十里は約二十二.五キロメートル。ハーフマラソンサイズか。



(*4)

約百歩


 約百五十六メートル。



(*5)

檀渓河


 改めて、檀渓河。

 襄陽の西にあり、二筋に分かれるものを総称して檀渓。ただし、北行するもの(すぐ漢江に注ぐはず)を檀渓、南行するものを襄水と呼ぶ。


 趙萬年は両方ひっくるめて檀渓河と呼んでいると推測される。そうでないと、襄陽の東側にある漁梁平まで水路がつながらない。



(*6)

西南五里にある謝公岩


 五里は約二.八キロメートル。


 謝公岩の位置は『欽定大清一統志』巻二百七十による。五世紀、南北朝時代の宋(劉裕が建てた)の謝莊という人物がこのへんに滞在したことにちなんで名付けられたらしい。


「謝公岩〈在襄陽縣西南五里。宋謝莊曽遊。此上有仙人洞。其草經冬不萎。可避寒。〉」



(*7)

牛車


 平安時代のあれではなくて、いわば軍用トラック。


 前近代の戦争では馬が動員されるイメージが強いが、今回攻めてきた金軍の場合、騎兵の活躍が目立つ一方で、皮簾の材料が牛だったり牛車が登場したりと、牛の動員数もかなり多そう。皮簾の材料の中身は兵糧になっただろうし。



(*8)

気球


 原文に「氣球」と書いてあるのだが、具体的に何のことを言っているのか。


 いわゆる気球(baloon)普及以前の他の用例を見てみると、氣功っぽい何かといおうか、ココロにまつわる何かといおうか、波動拳的なやつといおうか、そんな感じでつかみきれなかった。


 唐代の仲無頗という人物が書いた『氣球賦』という作品があり、「氣之為球,合而成質。俾騰躍而攸利,在吹噓而取實。」から始まるのだが、哲学的あるいはスピリチュアル系で、ちょっとよくわからない。


 とりあえず完全な球という形は尊いらしい。



(*9)

泥団子の親玉


 ラストのまとめ記事(第三十章)に出てくる。

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