二十七.二月二十六日。そろそろ本当に掃討戦になってきた。

超訳

 雨の中の奇襲が成功した翌日の二十六日早朝には、タコ金軍の騎兵部隊が百かそこら、基地に戻ってきた。タコ金軍は死体を回収して、囲い込んで燃やした。


 オレたち漢族は、基本的には、仲間の遺体をできるだけ壊さないように埋葬する。儒学で「親からもらった肉体を損ねてはならない」と説かれるからだ(*1)。戦場みたいに緊急を要する場合や土地が手狭な場所では、火葬しなくもないけど(*2)。


 女真族は、漢族とは違うらしい。道僧が、奇襲がどうの死体がどうのという報告を受けているくせに冷静な様子で、オレたちに説明した。


「我々女真族は伝統的に火葬をおこないます。また、仏教を信じている者も多くおりますから、亡骸を荼毘だびに付することは身近です」


 道僧には申し訳ないんだけど、それから即座にオレたちは出撃した。兄貴は冷酷なくらい徹底的にタコ金軍を叩く覚悟だったんだ。


 兄貴は弩兵部隊五百人あまりを船に乗り込ませ、漢江北岸のタコ金軍を襲撃させた。タコ金軍にしてみれば、まさかのタイミングだったかもしれない。水上から降り注ぐの雨に、百騎以上が相次いでたおれた。


「さあ、上陸戦だ! 火を点けて回れ!」


 夜中の襲撃のときにはわからなかったが、タコ金軍の基地は悲惨なありさまだった。取るものも取りあえず逃げたせいか、あれもこれも投げ捨てられているし、あちこち壊れてもいる。


 その悲惨な基地に、オレたちは片っ端から火を放った。タコ金軍はパニックを起こして潰走して、服も鎧も武器も何もかも残して逃げていった。追跡していった偵察隊によると、四路に分かれて北へと退却したらしい。


 この日も戦勝報告を朝廷に送った。これさ、本当に臨安まで届いているかどうか、ガチで心配になるんだけど。褒賞とか受け取れないと、死活問題なわけで。


 だって、オレら基本は現地調達だよ? 一応、軍費のためとして、朝廷は会子という紙幣を発行している(*3)。が、流通範囲がローカルだったり明らかにレートが狂ったりで、これならいっそのこと現物支給してもらうほうが助かる。特に最前線の襄陽の場合は。


 ところで、戦勝報告を作成するに当たっては、帰ってきた捕虜のはんの証言が役に立った。


「二十五日の夜、タコ金軍が寨で眠っていたときに突然、太鼓が鳴る音がして箭が放たれ、へきれきほうによってさいへと砲弾が撃ち込まれました。基地は混乱に陥りました。馬を持つ者も、乗って逃げることができず、荷物をきちんと回収することもできず」


「タコ金軍の被害の実数はどれほどか、わかるか?」

「死傷者は二三千人に上るでしょう。馬は八九百頭といったところかと。パニックの中で、互いに傷付け合う格好になってしまったんです」


 また、二十八日にも、捕虜だったちょううんが帰ってきて、樊起と同じ数字を報告した。


きゅうばんという男が話しているのを聞いたところによると、あの夜、奇襲によって殺された兵士は二三千人、馬は八九百頭に及んだようです。タコ金軍の元帥は、まだ朝廷に報告を送っていない模様」


「まだこちらの出方をうかがっているのか?」

「趙都統の懸念なさるとおりかもしれません。タコ金軍の元帥は、とうしゅうで建て直しを謀るつもりで様子を確認し、兵士と馬を選んでいます(*4)。またこれとは別に、何かしら意義や名目を整えて、朝廷に報告を送るようです」


 兄貴は深いため息をついた。また、あの徹底的で冷酷な表情をする。


「タコ金軍は敗北して、大軍で以て北へと遁走した。とはいえ、まだすべてがこの地から立ち去ったわけじゃない」

「追撃をかけますか?」

「まずは状況を探ってからだが、気を抜くなよ。いつでも出陣できるようにしておけ」


 兄貴は、目端の利くやつを選んで漢江を渡らせ、タコ金軍の行方を追わせた。そこで得られた情報によると、張雲の証言にあったタコ金軍は、鄧州・清水河・神馬坡方面のルートを通って、タコ金領に入ったとのことだ(*5)。


 また、タコ金軍は死体を火葬し、燃やし切れなかったぶんは馬に乗せて運び、川の流れの中に捨てたそうだ。


 萬山を中心とする西路のタコ金軍が先に退却したわけだが、漁梁平や東津、赤岸といった東路一帯のタコ金軍も、今回の退却に合わせて基地を焼いて夜逃げして、すべて漢江の北へと渡った(*6)。


 オレは仲間たちと一緒に東路一帯を見回りに行ったんだけど、思いがけず、めっちゃ大収穫。じゅうに鎧、武器はもちろんのこと、兵糧米や牛皮や軍中の備品もろもろ、果ては鍋や釜に至るまで、捨て置かれていた。


「持って帰ろう。鍋とか釜とかは一般人が喜ぶよ」


 鍋底にすすや焦げを見付けた。タコ金軍も生活していたんだな、と思った。異国の地で、野営で、約三ヶ月。長かっただろうな、あいつらにとっても。



――――――――――



(*1)

親からもらった肉体を損ねてはならない


『孝経』に、

「身體髪膚。受之父母。不敢毀傷。孝之始也。」


 身体は、髪や皮膚を含めてすべて、父母からもらったものであるから、決して損ねたり傷付けたりしてはならない。己の肉体を大切にすることが、孝の第一歩である。


 これは、天下を治めるための「徳」の基本は親を大切に敬う「孝」である、という文脈の中で登場する。自分自身の体を大切にすることが、回り回って、人間社会全体という大きなものを平穏にするのだという。



(*2)

火葬


 ウェブ上で閲覧できるできる論文としては、

牧尾良海「宋代における火葬習俗について」(『智山学報』十六巻、一九六八)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/chisangakuho/16/0/16_KJ00009415185/_article/-char/ja/


 これによると、唐代までは「火葬など言語道断!」で、周辺異民族の野蛮性をあげつらうために史書に記すこともあった。


 しかし、唐末から五代十国時代にかけて仏教の普及とも相まって火葬の記録が出現する。宋代には、土地の不足からやむなく火葬したケース、葬送費用の削減のため貧民の間で火葬が許可されて普及したことがうかがえるようになる。



(*3)

会子


 北宋のころは「交子」と呼ばれていた紙幣。

 交子の起こりは四川地方の商人が便宜を図るために私的且つローカルに発行したもの。これを朝廷が真似して銅銭と併用した。その後、周辺異民族との戦争が本格化すると、軍費の捻出のために大量に発行されるようになった。


 その後、靖康の変(一一二六‐一一二七年)を経て朝廷が南へ逃れ、臨安(今の浙江省杭州市)を仮の首都と定めると、人口が一気に集中した臨安は空前の発展を遂げた。その凄まじい経済規模に銅銭では追い付かず、交子の後裔である「会子」が官営となった。


 南宋代の会子については、岳飛とその後の湖北の軍事的同行に着目した研究があるらしい。一九九五年度の科研費のサマリーがウェブに公開されている。

https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-07710252/


 これは早稲田大学の金子泰晴の研究で、タイトルは「中国宋代の紙幣発生と地域経済の発展-荊湖地方を中心として-」。


 岳飛が湖北地方で金と戦ったとき、軍事費は湖北地方の税と独自の商業活動でまかなっていた。岳飛失脚後、商業活動の抑圧や停滞が起こり、ローカル紙幣の湖北会子が代用手段として発行されるようになった。


 この研究結果が掲載された本を読みたい。『宋代の規範と習俗』(汲古書院、一九九五)に収録されている。



(*4)

鄧州


 現在の河南省南陽市にある鄧州市。中国では市より県が小さいサイズだが、県級市という、市より小さいサイズの市もある。


 なお、本文中に登場した人名は史書で発見できず。



(*5)

鄧州・清水河・神馬坡方面


 清水河・神馬坡、ともに所在地不明。神馬坡は最初のころに魏友諒が拠点として戦っていた場所だし、重要なポイントなのだろうが、なぜ記録に残っていないのか。



(*6)

漁梁平や東津、赤岸


 漁梁平は襄陽の東南八里(約四.五キロメートル)のあたりに広がる平野。


 東津は、『讀史方輿紀要』巻七十九、襄陽府によると、襄陽の東十里(約五.六キロメートル)にある。


 赤岸は『万暦襄陽府志』巻六、山川に見える赤灘のことではないかと思われる。赤灘は襄陽の東南三十五里(約二十.二キロメートル)にある。

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